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第七十七話 名前の残り

## 第七十七話 名前の残り


 エレーナ・グレイは、無線の向こうにある沈黙を聞いていた。


 声ではない。


 報告でもない。


 黒瀬了が言葉を切った時の、短い空白。


 ジンが返事をする前に息を止める気配。


 倉庫の奥で紙が擦れる音。


 台車の車輪が床の傷を拾う音。


 遠くで鳴る冷蔵コンテナの低い振動。


 それらが、無線の細い雑音に混ざっていた。


 エレーナの前には、古い机があった。


 机の上には、赤い封筒の写し。


 外箱記号の写真。


 車両登録。


 支援団体の一覧。


 通信保守会社の古い名簿。


 そして、黒瀬から送られてきた照会票の画像。


 真柴直樹。


 真柴健二。


 福岡仁の名前は、まだない。


 エレーナは、そのことに安堵しなかった。


 まだない。


 それだけだった。


 ない名前は、これから書かれることがある。


 書かれた名前は、勝手に歩き出す。


 守ることもできる。


 殺すこともできる。


 隠すこともできる。


 売ることもできる。


 紙は軽い。


 だが、紙に乗った名前は軽くない。


 エレーナは、画像を拡大した。


 真柴直樹。


 古い名前。


 本人が捨てたと思っている名前でも、誰かが拾えば扉になる。


 敵も、その扉から入ってくる。


 味方も、その扉から入ってくる。


 だから名前は危ない。


 そして、名前は必要だった。


 無線が短く鳴った。


 黒瀬の声が入る。


「照会票は確認した」


「真柴兄弟ですね」


「真柴直樹、真柴健二。福岡仁はない」


「まだ、古い名前です」


「だが近い」


「ええ」


 黒瀬の後ろで、何かが動いた。


 箱が置かれる音。


 人の靴底が床を擦る音。


 誰かが小さく息を飲む音。


 エレーナは、受話器に指を添えた。


「倉庫の人間は」


「作業員。老人。運送の若い男。武器商人はいない」


「そこは通過点です」


「分かっている」


「彼は」


 黒瀬はすぐに答えなかった。


 その沈黙で、エレーナは顔を上げた。


「黒瀬さん」


「ジンが少し危ない」


「殺意ですか」


「違う」


 黒瀬の声は短かった。


「処理だ」


 エレーナは目を閉じた。


 殺意なら、まだ熱がある。


 怒りなら、まだ人間の方を向いている。


 処理は違う。


 処理は、人を人として見ない。


 箱と同じに扱う。


 壊れた部品と同じに扱う。


 危険物と同じに扱う。


 その目で世界を見続けると、最後に自分の名前も処理してしまう。


「止められますか」


「今は」


 エレーナは、その言葉を嫌った。


 今は。


 戦場で一番怖い言葉だった。


 今は大丈夫。


 今は止まった。


 今は生きている。


 今は名前がある。


 今は。


 それは、すぐに変わる。


 無線の向こうで、黒瀬の声が少し遠ざかった。


「撃つな」


 次に聞こえたのは、ジンの声だった。


「撃たない」


「壊すな」


「まだ壊してない」


「今のお前は、壊す前にそう言う」


 エレーナは、ペンを置いた。


 その会話だけで、現場の温度が分かった。


 ジンは怒鳴っていない。


 声を荒げていない。


 それが危ない。


 人は、怒っているうちはまだ戻れる。


 怒りは疲れる。


 怒りは揺れる。


 怒りは人間のものだからだ。


 だが、処理は疲れない。


 揺れない。


 必要なものを残す。


 不要なものをどける。


 危険なものを消す。


 その判断が、静かに進む。


 ジンの声には、その静けさが混ざっていた。


 無線の向こうで、別の音がした。


 布が擦れる音。


 小さな金具の当たる音。


 黒瀬が言った。


「三号がいる」


 エレーナは顔を上げた。


「番号ですか」


「胸に三。白い作業服。黒い手袋。黒い車両」


「名前は」


「ジンが呼んだ」


「何と」


 少し間があった。


「央」


 エレーナは、指を止めた。


 机の端にあった古い照合表を引き寄せる。


 生活環境調整班。


 白羽側の支援網。


 実働者の異動記録。


 欠番。


 通称。


 番号。


 紙をめくる。


 古い紙は、湿気を吸って少し波打っていた。


 ひとつの行が見つかった。


 犬塚央。


 横に、小さく線が引かれている。


 抹消ではない。


 削除でもない。


 ただ、使われなくなった名前のように扱われている。


 エレーナは言った。


「あります」


「犬塚央か」


「ええ」


「生きているか」


「紙の上では、分かりません」


「現場にはいた」


「なら、消されていません」


「名前は消されかけている」


「ええ」


 エレーナは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 番号化されているのは、撃たれる側だけではない。


 白羽内部の若い実働者も、名前を剥がされている。


 使う側だと思わされながら、使われている。


 名前を消す側に立たされている者の名前も、消されている。


 嫌な構図だった。


 とても嫌だった。


 無線の向こうで、ジンの声が聞こえた。


「名前が残ってる」


 黒瀬が返す。


「なら拾え」


「どうやって」


「今は、撃たないことだ」


 エレーナは、その言葉に目を伏せた。


 黒瀬は正しい。


 だが、正しい言葉は、人を救うとは限らない。


 撃たないこと。


 壊さないこと。


 処理に戻らないこと。


 それは、ジンにとって作戦ではない。


 自分の中の何かを、ぎりぎりで人間の側へ戻す行為だった。


 エレーナは犬塚央の行に、小さな印をつけた。


 赤ではない。


 赤は強すぎる。


 黒でもない。


 黒は消えたように見える。


 青い小さな印。


 保留。


 確認。


 消さない。


 その三つを意味する印だった。


 無線がまた鳴った。


 黒瀬の声が戻る。


「京都へ行く」


「今からですか」


「夜が明ける前に線を渡す」


「会わせるのですか」


「見せるだけだ」


 エレーナは、すぐには答えなかった。


「反対か」


「危険です」


「どちらに」


「両方に」


 黒瀬は黙った。


 エレーナは、机の上の紙片を見た。


 倉庫から送られてきた画像。


 小さな靴。


 洗濯物。


 手をつないだ背中。


 その絵の線を、エレーナは知っていた。


 名前を出すことはできない。


 まだ。


 だが、あの線は人を番号で見ない人間の線だった。


 輪郭を覚える人。


 靴のサイズだけでなく、その靴を履く足の癖まで覚える人。


 支援物資を箱ではなく、暮らしに変える人。


 エレーナは言った。


「彼女には知らせていません」


「知らせるな」


「ええ」


「気づくか」


「彼女は、人の止まり方を見る人です」


 黒瀬は少しだけ息を吐いた。


「最悪だな」


「最悪です」


「だが、必要だ」


「ええ」


 必要。


 その言葉も嫌だった。


 戦争は、嫌な言葉を正しい場所に置く。


 必要。


 通路。


 処理。


 移送。


 照会。


 支援。


 名簿。


 どれも、人間の顔を隠すためにも、人間を戻すためにも使える。


 だから、扱う人間の手が問われる。


 エレーナは無線を切る前に言った。


「黒瀬さん」


「何だ」


「犬塚央を、強く引かないでください」


「理由は」


「名前を剥がされた人間に、急に名前を返すと、壊れることがあります」


 黒瀬は少し黙った。


「ジンにも同じことを言えるな」


「ええ」


「だから、京都か」


「だから、京都です」


 通信は切れた。


 エレーナは椅子にもたれなかった。


 もたれれば、疲れていることを身体が思い出す。


 彼女は照会票をもう一度見た。


 真柴直樹。


 真柴健二。


 犬塚央。


 紙の上に、三つの名前が並んでいた。


 並べてはいけない名前だった。


 だが、もう並んでしまった。


 紙は、時々、銃より早く人を集める。


 エレーナは、アレクセイの赤い封筒の写しに目を移した。


 借りの証明。


 紹介状ではない。


 命令でもない。


 返済表。


 あの男は、人を番号にする仕組みを知っていた。


 だから、番号から名前を戻す方法も知っていた。


 嫌な遺産だった。


 だが、今はその嫌な遺産が必要だった。


 エレーナは小さく息を吐いた。


 その息は、祈りではなかった。


 作業に戻るための息だった。


 京都の朝は、まだ始まっていなかった。


 それでも、後方支援拠点の中では、すでに湯が沸いていた。


 古い建物だった。


 表向きは地域交流センター。


 奥には、洗濯機が並んでいる。


 さらに奥には、医療品の棚があった。


 別室には学用品。


 水の箱。


 毛布。


 子ども用の靴。


 岐阜の倉庫にも、同じものはあった。


 だが、ここでは置き方が違った。


 水の箱には、届け先の部屋番号だけでなく、必要な時間が書かれていた。


 毛布には、洗濯済みの小さな布タグがついていた。


 子ども用の靴には、名前があった。


 布の小さなタグ。


 ひらがな。


 カタカナ。


 時々、読みにくい漢字。


 サイズだけではない。


 名前がある。


 左足だけに印がある靴もあった。


 歩き方に癖がある子のためだった。


 机の上には名簿がある。


 番号もある。


 だが、番号だけでは終わっていない。


 名前。


 年齢。


 好きな食べ物。


 薬。


 夜に泣くかどうか。


 右手で箸を持てるか。


 靴下を嫌がるか。


 誰の声なら眠るか。


 そういうことまで書かれていた。


 紙は、人を殺す。


 紙は、人を戻す。


 ここでは、戻すために紙が使われていた。


 眼鏡をかけた女が、机の前に座っていた。


 髪は後ろでゆるくまとめている。


 派手な服ではない。


 薄い色のカーディガン。


 袖口に、鉛筆の黒い跡がついている。


 彼女は誰かに指示を出す時も、声を荒げなかった。


「その靴は、名前を内側に縫ってください」


 若い職員が頷いた。


「外じゃなくてですか」


「外だと、見えるから」


「見えた方が分かりやすいです」


「分かりやすいものは、奪われやすいです」


 職員は少し黙った。


 女は靴を一足手に取った。


「でも、本人が見つけられないと困るから、内側のこの位置に」


 鉛筆で小さく印をつける。


「ここなら、履く時に分かります」


 職員は頷いた。


「分かりました」


 女は微笑まなかった。


 ただ、少しだけ目元を緩めた。


 それで十分だった。


 別の職員が書類を持ってきた。


「移送リストです。八名と職員一名の分」


 女は手を止めた。


「声を落として」


「すみません」


「ここでは人数を先に言わないで」


 職員は書類を見た。


「では」


「名前を先に」


 女は静かに言った。


「人数は、最後でいい」


 職員は頷いた。


 女は一枚ずつ紙をめくった。


 名前を読む。


 声には出さない。


 でも、目で読む。


 ただ確認するのではなく、相手に会うように読む。


 それから、足りないものを別の紙に書いた。


 水。


 肌着。


 常備薬。


 女児用の靴下。


 絵を描く紙。


 色鉛筆。


 洗濯ネット。


 夜間担当者。


 温かい飲み物。


 最後に、小さく書き足した。


 名前を呼ぶ人。


 その文字は、誰にも見せなかった。


 建物の外に、黒瀬の車が止まった。


 ジンは助手席のまま、降りなかった。


 黒瀬が言った。


「ここで待て」


「線を渡すんじゃなかったのか」


「俺が渡す」


「俺は」


「見せるだけだ」


 ジンは窓の外を見た。


 古い建物。


 明るすぎない灯り。


 入口に積まれた水の箱。


 洗濯物を運ぶ職員。


 白い湯気。


 子どもの靴。


 その靴には、小さな布が縫いつけられていた。


 名前がある。


 ジンは、それを見た。


 岐阜の靴には、サイズしかなかった。


 ここには名前がある。


 それだけで、場所の意味が変わった。


 黒瀬が言った。


「降りるな」


「分かってる」


「分かってない顔だ」


「またか」


「今度は、壊す顔じゃない」


「なら何だ」


 黒瀬は少し間を置いた。


「戻される前の顔だ」


 ジンは答えなかった。


 黒瀬は車を降りた。


 建物の入口へ向かう。


 ジンは助手席から中を見た。


 窓の向こうで、人が動いている。


 水を運ぶ職員。


 紙を束ねる職員。


 洗濯物を畳む職員。


 誰も武器を持っていない。


 それなのに、富士川の観測班より忙しく見えた。


 奥に、眼鏡の女がいた。


 顔はよく見えない。


 でも、手は見えた。


 鉛筆を持つ手。


 靴に印をつける手。


 紙の端を押さえる手。


 名前の上を、消さずに辿る手。


 その手つきに、ジンはどこかで覚えがある気がした。


 だが、思い出せない。


 思い出そうとした瞬間、胸の奥が冷えた。


 敵を見る時の冷え方ではない。


 処理に入る時の冷え方でもない。


 もっと嫌な冷え方だった。


 思い出せば、今の自分が崩れるかもしれない。


 そういう冷え方だった。


 黒瀬が中に入った。


 眼鏡の女が顔を上げる。


 何かを言った。


 声は聞こえない。


 黒瀬が書類を渡す。


 女は受け取った。


 すぐには開かない。


 まず、黒瀬の顔を見る。


 それから、窓の外を見た。


 ジンは動かなかった。


 女の視線が、車の方へ来た。


 一瞬だった。


 ガラス越し。


 距離がある。


 夜明け前の薄い光。


 それでも、ジンは息を止めた。


 女も、ほんの少し動きを止めた。


 だが、すぐに視線を戻した。


 書類を見る。


 顔を伏せる。


 鉛筆を持つ。


 何かを書き足す。


 黒瀬が短く何かを言った。


 女は首を横に振った。


 強くではない。


 静かに。


 だが、その動きには譲らないものがあった。


 ジンは、なぜかその首の振り方を知っている気がした。


 知っているはずがない。


 そう思った。


 思ったのに、胸の奥で何かが動いた。


 黒瀬が戻ってきた。


 ドアを開け、運転席に座る。


 ジンは窓の向こうを見たままだった。


 眼鏡の女は、もうこちらを見ていない。


 靴に名前を縫う位置を、職員に教えていた。


 黒瀬は何も言わず、薄い封筒をジンの膝に置いた。


「線は渡した」


 ジンは封筒を見た。


 開けなかった。


 黒瀬も、開けろとは言わなかった。


 車内に、朝の冷えた空気が入っていた。


 エンジンがかかる。


 建物の灯りが、フロントガラスの端で小さく揺れた。


 ジンは一度だけ、窓の反射を見た。


 そこに、眼鏡の女の影が映っていた。


 顔は分からない。


 声も聞こえない。


 ただ、名前を書いた靴を両手で持っている。


 その姿だけが残った。


 黒瀬が車を出した。


 ジンは何も聞かなかった。


 聞けば、答えが返ってくる気がした。


 答えが返ってきたら、今の自分では受け取れない気がした。


 だから黙った。


 封筒は膝の上にある。


 紙は軽い。


 だが、その軽さが膝から腹の奥へ沈んでいく。


 車は京都の細い道を抜けていく。


 朝が始まろうとしていた。


 同じ頃、エレーナの机の上で、無線機が一度だけ鳴った。


 短い報告だった。


 白い作業服。


 黒い手袋。


 黒い車両。


 京都方面へ移動。


 対象は、周辺確認。


 エレーナは、犬塚央の名前につけた青い印を見た。


 名前は残っている。


 だが、残っている名前が、必ず人を救うとは限らない。


 名前は、戻るための紐になる。


 同時に、絞めるための紐にもなる。


 彼女は無線機に手を伸ばしかけた。


 そして止めた。


 今、強く引けば壊れる。


 犬塚央も。


 ジンも。


 京都の窓口にいる彼女も。


 まだ、誰の名前も強く呼んではいけない。


 エレーナは、机の上の紙を一枚伏せた。


 犬塚央。


 真柴直樹。


 真柴健二。


 名前は、まだ紙の上にある。


 紙の上にあるうちは、戻せる。


 消される前なら。


 京都の空が、薄く白み始めていた。


 朝は、いつも人の都合を待たずに来る。


 その朝の下で、名前を消す車と、名前を戻す場所が、同じ街に入り始めていた。


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