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1671〜1690年:南州開拓開始(オーストラリア北部〜東部)

1671年:南州公国の成立と「南州開拓令」

第二次清洲会議(1669〜1670)を受けて、

1671年、島津綱貴が正式に「南州公」に任じられる。

同年、毛利幕府と日本連邦議会は共同で

「南州開拓令」 を発布。

内容は:

• 南海州(台湾・フィリピン)からの移民奨励

• 百済艦隊による南方航路の確立

• 島津家による行政・治安維持

• 日本連邦水軍の南方艦隊を設置

先住民アボリジニとの協定交渉を義務化

ここで南州開拓は正式に国家事業となる。

---

1672年:第一陣の移民船団がダーウィンへ到着

百済艦隊の外洋船団が南海州を出発し、

ダーウィン湾(当時は「南州湾」)に上陸。

第一陣の構成は:

• 島津家の武士団(薩摩兵)

• 南海州の農民・漁民

• 百済の船乗り・海軍技術者

• 日本本土の行政官

• 医師・大工・鍛冶職人

この混成構造が、南州の多文化性を決定づける。

ダーウィン周辺には 「南州城」 が築かれ、

南州公国の最初の行政拠点となる。

---

1673〜1675年:北部沿岸の制圧と先住民との協定

島津綱貴は軍事征服ではなく、

「協定による共存」 を基本方針とする。

• アボリジニの部族長と会談

• 狩猟権・聖地の保護を約束

• 日本連邦の法体系を段階的に導入

• 医療・農具・交易品を提供

この柔軟な政策により、

北部の多くの部族が日本連邦と同盟関係を結ぶ。

これは 島津綱貴の文治派としての力量が発揮された場面。

---

1676〜1680年:南海州との連携で北部が急速に発展

南海州(台湾・フィリピン)は人口が多く、

移民の供給源として最適。

• 稲作・サトウキビ・果樹栽培が導入

• 漁業・真珠採取が発展

• 南海州の商人が港湾を整備

• 百済艦隊が航路を定期化

この時期、ダーウィン〜カーペンタリア湾一帯は

「南海文化圏」 として急速に日本化する。

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1681年:百済艦隊、東岸ケアンズ・ブリスベンへ到達

百済艦隊は外洋航海能力が高く、

南州公国の命を受けて東岸を探検。

• ケアンズ(当時「東南州港」)

• ブリスベン(当時「新百済港」)

に上陸し、港湾建設を開始。

ここで 百済文化が東岸に流入し、

南州公国は「北部=南海文化」「東部=百済文化」という

二重構造を持つようになる。

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1682〜1685年:東岸の本格開拓と日本本土からの移民増加

日本本土(日本国)からの移民が増える。

• 農民

• 職人

• 商人

• 武士の次男・三男

これにより、東岸は 「新日本」 と呼ばれるようになる。

ブリスベン周辺には 「綱貴府」 が建設され、

南州公国の第二の中心となる。

---

1686〜1690年:南州公国の制度化と太平洋南方の安定

島津綱貴は南州公国の制度を整備。

• 南州議会の設置

• 州軍(薩摩兵+現地民兵)の創設

• 日本連邦水軍・南方艦隊の司令部をダーウィンに設置

• 交易港の整備

• 先住民保護法の制定

1690年頃には、

北部〜東部の沿岸は完全に日本連邦の支配下に入り、

南州公国は太平洋南方の要衝となる。

---

**総括:

南州開拓は、島津綱貴の文治と日本連邦の海軍力が融合した

“太平洋帝国の南方フロンティア”の誕生だった。**

• 1671:南州公国成立

• 1672:第一陣移民がダーウィンへ

• 1673〜75:先住民との協定

• 1676〜80:北部の急速発展

• 1681:百済艦隊が東岸へ

• 1682〜85:東岸の日本化

• 1686〜90:南州公国の制度化

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