8 媚と恩
食後の休憩中、カレンとディアナの話題は再び『白銀の勇者の冒険記』に及んでいた。
「それな……北の魔王の話は、ちっちゃい頃に聞いた気ぃする。街に旅芸人が来て、劇をやってくれたんや」
「うむ。わらわの城にも歌劇団が訪れ、上演しておった」
カレンとディアナが思い出語りに盛り上がる内容は、シャロムが勇者として戦う根拠になった話である。
ラシュディはねずみの皮の脂を抜くため、内側に灰を塗り込みながら、彼女らの声に耳を傾けていた。
「勇者役の人が、歌も上手くて格好ええねん」
「最終決戦での剣舞には、幼心に目を奪われたものじゃ」
ただし、物語伝承として特別に珍しいわけではない――魔王は、魔物を操って人や家畜を襲ったり、吹雪を起こして土地を枯れさせたりしていた。そこで勇敢な若者が立ち上がり、聖剣を手にして魔王を討った。魔王は死してもなお永い年月をかけて復活することを予言したが、若者は自分の意思を受け継ぐ者がまた魔王を倒すと宣言した。
そしてその若者は髪が銀色だったことから、白銀の勇者と呼ばれている――という話だ。
「けどこれ、おとぎ話とちゃうん? ウチの地元じゃ本気で信じとる人おらんかったで? 魔物に襲われる被害なんて、爺さんの代からもう聞いたことないし」
「嘘じゃねえよ」
疑わしげなカレンに、思わずラシュディが口を挟む。
「ロマーニャとかノルマンドみたいな大きい国の都市なら、その通りだ。だが水道も街道も整ってないような田舎だと、まだまだ安全じゃねえ。一晩で村が消えた例もあるくらいだからな。現にそのせいで、広くても人の住んでいない土地なんかごまんとあるだろ」
「兵士の派遣や常駐が難しい、辺境の如何ともしがたい事情じゃ」
「そして魔王も、それと戦った勇者も、実在した。間違いなく本当の出来事だ」
「けど、ほんまに魔王がおって、復活してたとして、なんで倒せんかったん?」
「それは、だな……」
言われると痛いところだった。
ずっと気がかりで頭に淀んでいた疑問でもある。
「このシャロムって人、実は偽物やったとか?」
「いや、俺には、あいつが偽物だったとは思えねえ。あれだけ強くて、人格者で、あいつが本物の勇者じゃなくて何だってんだ」
「わらわも、彼こそが真の勇者だと信じておる」
ここまでの点においてだけは、ラシュディとディアナの意見は一致していた。
「故にわらわは、すでに魔王が倒されたものと考えておる。それを確かめに行くのじゃ」
「ふーん。なるほどなあ……迷うなあ……」
カレンはしばし何かを考え込むように、ぶつぶつと呟く。
「よっしゃ、決めたで」
やがて立ち上がるなり、ラシュディを指差した。
「ラッシー」
続いてその指先を、ディアナに移す。
「アナっち」
「「……は?」」
妙に得意げなカレンとは対照的に、二人は完全に意表を突かれていた。
「いやぁ、ディアっちか、アナっちかで、迷ったんやけどな」
「お前は何を言ってるんだ?」
「ほら、長い旅の道連れには、呼びやすいニックネームが必要やん? ほんで、ディって音があんまり可愛くないから、アナっちに決めたんや」
「するとおぬしは、わらわと共に来るつもりなのか?」
「そらもうアナっち、当たり前やんかー」
カレンは馴れなれしく、ディアナに肩を寄せた。
急にこの距離感。さすがのディアナも、少し引いた様相だ。
「楽にしてよいとは言ったがのう」
「前々から会いたかったんやで。実はウチ、ユノ様とかセレナ様とかよりも、ディアナ様のほうが好きやねん。ほら、元気があって素敵やし」
「うむ。よきにはからえ」
「ありがたき幸せや」
ところが、ほんの些細な――他人から見れば小さくとも、おそらく本人にとっては大事な――ひと言によって、ディアナの態度が翻った。
「何を企んでる?」
ここでラシュディが疑念を向ければ、カレンの下心に満ちた笑みが返ってくる。
「いややな、ラッシー。企むなんてそんな、ふっふっふ」
「誰がラッシーだ」
「犬みたいで可愛いではないか」
ディアナは随分と気をよくしたようで、一緒になってラシュディをからかってくる。
「都で商売するんじゃなかったのか? そのために苦労して運んできた荷物だろ?」
「やっぱりラッシーは素人やな。ウチら商人が、いちばん最初に売るべき二つのものって、何やと思う?」
「麦と酒か?」
「答えは、媚と恩や!!」
「誰がうまいことを言えと」
「偉い人とコネ作るのって、めっちゃ大事やと思うねん」
言い分は理解できる。何においても人脈は力である。
「そこでお姫様やで? 一緒に行って仲良うなれば、後で何かと便利やん。それ考えたらもう、ちまちま売っとる場合とちゃうで。敢えて目先の損を取れって話や」
「いや、分かるけど、お前それ本人の前で言うのか」
「だってウチ、隠し事とか苦手な人やん?」
「だから知らねーよ」
「よく言うであろ。旅は道連れ、世は情け。情けは人のためならず――変に取り繕われるよりは、ずっとよいではないか。わらわは気に入ったぞ」
同行希望者の審議について、ディアナは寛容に話を進めた。善意も悪意も、彼女にとっては些事であるかのようだ。
実際のところラシュディの目から見ても、カレンは大した脅威とは映らない。
「ま、姫さんがそれでいいなら、いいんだけどな」
ラシュディは毛皮を懐にしまい、立ち上がった。
せっかくのディアナの意気に反して、一行の歩みは遅かった。
現にラシュディの試算では、一日で街道まで出る予定だったのだが、既に何日も余計に夜を明かしていて、なおも森から抜けられていない。
原因は誰あろう、彼女自身だ。
「足が、重い」
始めのうちは勢い余って、ラシュディより先を行くことも多かったのだが、今では木の枝を杖に支えながらが精一杯なのである。
「……服、替えたい」
風の冷たい季節でも、歩き詰めならどうしたって汗ばんでくる。
ふとディアナは眉をひそめ、ドレスの肩袖をすんすんと嗅いだ。
およそ気高いとも、お姫様らしいとも言えない仕草だ。
「…………お風呂、入りたい」
飲み水については、夜露を集めたり、樹液や果汁を採ったりと、ラシュディの知恵でどうにか補えているのだが、身体を洗える量の生活水までははいかんともし難い。
こうして時間をかければかけるほど、肝心の“姫様パワー”を充足させる機会からは遠ざかっていく。同じように寝食しても、ディアナだけ明らかに体力の戻りが弱かった。
貧すれば鈍す、とはまさに現状このことであろう。
「あかん。アナっちの目が、なんか死んだ魚みたいになってる」
いくら「脱走王女」の名で陰口されたほどの彼女でも、自分で行けたのはせいぜい城下町の一角まで。山や森を長時間、それも“姫様パワー”の無い状態で、歩き続けることなど初めての体験であるはずだ。
「ええい、まったく、全体どういうことじゃ!!」
それまで小さくこぼしていた苛立ちが、ついに溢れ出る。
「お腹が空く。足が痛い。背中が固い。頭が痒い。服がベタベタする。羽虫が煩わしい。おまけに、足が痛い……」
「足が痛い、二回言ったぞ」
「その他諸々……おぬしの本には、こんな労苦があるとは書いておらなんではないか!!」
「そりゃあ、面白くも格好よくも華やかでもない場面なんか、いちいち残さねえよ」
「売れへんしな」
「むしろ喜べよ、姫さん。これがお前の望んでた『冒険』だぞ。嘘偽り無しだ」
ディアナは力無く、ふるふると首を左右に動かす。
「違う。こういうのじゃない」
相当に参っているのか、いつもの古風な物言いすら、とっさには出なくなってきた。
「でもな、お前の好きな勇者様だって乗り越えたことだぜ」
「むう……」
「あいつはこれくらいで弱音なんて吐かなかった」
それを聞いてディアナは、自らの両膝を叩いて喝を入れる。
頭を上げ、キッと前を見据え、震える脚を動かした。
「きゅうぅ」
そして、バタンと倒れた。
「わー、アナっちー!?」
「カレン、ラシュディ……わらわのHPは、もう0じゃ。一歩も動けぬ。棺桶に入れても構わぬから、街の神殿まで引っ張ってたもれ」
「ねーよ、棺桶なんて」
カレンに上体を抱き起こされ、ディアナは近くの木に背を預ける姿勢になった。
「こうなっては致し方ない。ラシュディ=サルヴァンよ」
改まって姓名をすべて呼ばれるときは、何か嫌な予感がする。
「どうした?」
「苦肉の策じゃが、おぬしに名誉ある選択肢を与えてやろう」
ん、とディアナは、ラシュディに向かって諸手を広げた。
「おんぶか、抱っこか、どちらかを選ぶがよいぞ!!」
あまりに尊大で、かつ可愛らしい二者択一である。態度と要求が釣り合っていない。
「ふざけんな。てめーで歩け」
「えらい厳しいなあ。言うても歩かれへんのやし……って、うわ、ちょっとこれボロボロやんか!?」
ディアナが訴える痛みを気にして、カレンが靴を脱がせてみると、つま先からくるぶしから、まめが潰れてひどく腫れている。
「あーあー、ちょい待ってな」
カレンは商品の特製傷薬を用意し、緑色ペースト状のそれを塗って包帯を巻いた。
「これでよし。いつもなら定価の三倍やけど、今は特別にタダやで」
定価とは何なのか、ラシュディは軽く首をひねる。
「うむ。苦しゅうないぞ、カレン」
「ええねん。だってウチら、仲間やん?」
妙に素直なディアナに、対してカレンは胡散臭い笑顔が全開である。
「ついでにアナっち、こないだのペンダントな、あれちょっと飾りの部分が汚れてへんかった?」
「言われてみれば、そうやもしれぬ」
ディアナは王家の証を胸の下から出して、じっと目を細めた。石はともかく、柔らかい黄金製の鎖や石座の部分は細かな傷が付いているかもしれない。
「そういうのって、普通に布で拭いただけやと綺麗にならんやん? そこでこれ、貴重品のお手入れに最適、あの一流店も認めた品質保証、セルペン商会印のツヤ出し油!!」
じゃじゃん、と言いながら楽しそうに、カレンは荷物袋から小瓶を取り出す。
瓶には、白蛇と黒蛇が互いの尾を呑み合う絵が貼られていた。
「汚れを防ぐだけやなくて、なんと、擦り傷くらいなら消してしまえる優れものや」
「そんな魔法みたいなことがあるわけなかろう」
「って、思うやん? それがほら、見てみ?」
「本当じゃ!!」
その効果を、カレンは自分のクロスボウの引金に試して実演してみせた。たしかに説明の通り、一滴垂らして拭いただけでも見違えるようにピカピカだ。
「これが金物はもちろん、革にも使えるんや。宝石でもいけるで。あ、真珠はダメやけどな」
「しかし、高いのではないか?」
「特別価格で、たったの銀貨三十枚や」
「安いではないか!?」
「高ぇよ」
仔豚が二十頭は買える値段だ。街の酒場の女中や服の仕立て屋などにとっては給料四ヵ月分ほどにも匹敵する。
「っていうかお前、けっきょく普通に金とってんじゃねえかよ」
「商売人の血が騒いでしまうねんなー」
それでもディアナは目を輝かせて、ともかく手持ちが無い代わりに約束手形を一筆書き、よい買い物が出来たと、ほくほく顔である。
「じゃあついでに、俺も買い物できるか?」
「ええけどラッシー、先立つものあるん?」
「金商に預けてあるから、街まで行けばな」
金商とは、東方においては銀行とも呼ばれる、貨幣の預かりや貸し付け、両替等を担う金庫番のことである。
「預かり証文とか持っとる?」
「寝起きで姫さんに捕まったからな……さしあたり、これで物々交換でもどうだ」
ラシュディがねずみの毛皮を差し出すと、カレンはそれをしげしげと見つめた。
「毛の模様が鮮やかだろ? おしゃれな小物入れとか作れるぞ」
皮の脂抜きをしておいたのは、こうして売り物にするためだ。
「おぬしの顔で『おしゃれ』という単語が出ると、違和感があるのう」
「うるせえな」
「うーん、ほな、手付金代わりに受け取ったるわ。足りへん分は、後でちゃんと払ってもらうからな?」
「よし、じゃあこれだけ貰ってくぜ」
カレンがねずみ皮を受け取ると、ラシュディは代わりに爆薬袋と傷薬をひと掴み、懐に入れた。
するとディアナは思い出したように何度か足を動かして具合を確かめ、気合とともに起き上がった。
「商談は終いか? ではいざ、先をいそ……ぐきゅう」
しかし、まるで紙のようにまた膝から崩れ落ちた。




