報酬!(Exonerate)
はじめは通話を切ると、スマートフォンをポケットにしまい、オクタゴンおたいの建物の中に入る。行先は先ほど訪れた和室ではなく、コンサートや講演会で使われる『くまがいホール』である。扉を開け、観客席部分の中央の通路をまっすぐに歩く。最前列に着くと、はじめは最前列の椅子の一つに腰を掛け、ある人物の到着を待つ。はじめの読みが正しければ、今からある人物がこのホールに現れるはずだ。
十分後。後方で誰かが扉を開ける音がすると、一人の足音が一歩、また一歩と近づいてくる。やがて、はじめのすぐ後ろで足音が止まる。それでもはじめはまっすぐ前を見つめたまま、後ろを振り返ろうとはしない。
「お前が来るのを待ってたよ。だが悪いけど町長は来ない。そもそもおれは町長に呼ばれてなどいないからな。今頃自宅で地団駄でも踏んでいるんじゃないか」
はじめはまだ振り返らない。
「なぁ、どうしてこんな間諜の真似事なんてしてたんだ、つくも?」
「カンチョー?」
「スパイのことだ」
はじめは観客席から立ち上がり、後ろを振り返る。
「にい、何言ってるの? つくもはたまたまにいの姿を見かけて、付いて来ちゃっただけだよ」
「つくも!」
はじめはわざとつくもを強く睨む。
「あくまですっとぼけるつもりなら、順を追って話そう。まず、おれが父さんに夜食を差し入れるために工場に行った日の夜だ。お前はおれが家に着くなり『自転車はどうしたの?』と訊いてきた。その時はあまり気にしなかったが、夜中、部屋の中にいながら、自転車で工場に出かけた兄がどうして徒歩で帰って来たことが分かるんだ?」
つくもは黙ったままうつむいている。
「それから、一緒にアイス食べながら芸人がサイコロ振ってトークする番組を見ていた時だ。つくもはおれに『笑っている』ではなく『にやついている』と言ってきた。普通、テレビを観て笑顔を浮かべている人を見て、『にやついている』なんて言い方はしない。たとえ実際ににやついていたとしてもだ。つまり、つくもはおれがにやついてしまう状況に遭遇したことを知っているからそんな言葉を言ったと考えるのが自然だ。あの日の夜、つくもはおれが三里塚駈……知っているな。おれの中学時代からの同級生だ。そいつの姉である三里塚わかばの車に乗り、そのまま三里塚邸の中に入っていくところを見かけ、帰りに徒歩で家に戻らんとするおれの姿を見かけたんだろうな。その姿を見て、お前はおれと三里塚わかばが『特別な関係』にあると推測したんだろうが、おれを問いただす証拠としては充分では無いと思ったのだろう。お前は学校に行っている時以外、小田井町内という限られた範囲内ではあるが、おれを尾行することにした。しかし、お前はおれがいつどこに行ったか程度の、断片的なことしか分からなかった。そんな折、お前は『ある人物』と出会った」
「確かにあの日の夜、にいの帰りが遅いから、どうしたんだろうって思って自転車で工場までの道のりを走っていたら、きれいなおねえさんが運転する車の助手席に乗ったにいとすれ違って、大慌てで追いかけていったら、ワインの三里塚家のお家に入って行っちゃうんだもん。びっくりしちゃって……もしかしたら、にいとあの三里塚家のおねえさん、付き合うことになっちゃったんじゃないかって思って、つい張り込んじゃったんだ。そしたらにいが歩いてやってくるから、大慌てで自転車漕いで家に帰って、テレビ点けて、ずっとそこにいたふりをしてたけど、その時だけで、別にあれから何も無いよ」
「いや、断言できる。お前はおれを尾行してたんだ」
「してないって!」
つくもがむきになって反論する。
「おれは何の根拠も無くこんなことは言わない。お前は『ある人物』と出会い、ある依頼をされた。あるいは強要された。依頼なのか強要なのかまではおれは知らないが、とにかくお前は『ある人物』からの依頼か強要を受け入れた。ある報酬と引き換えにな。もしかしたら『我々の命令に従って、関谷はじめとFMあさまに関する調査をするよう依頼、あるいは命令する。勿論タダとは言わない。報酬として君の欲しいものを何でも買ってあげよう』とでも言われたんじゃないか? それで手に入れたのが富士通の赤いノートPCだ」
「にい、何を証拠にそんなこと言ってるの? 美緒ちゃんとケンカでもして、相当こたえちゃったの?」
「話を逸らすな。言っただろう。おれは何の根拠も無くこんなことは言わないってな。そもそもお前、『グローバルビジネスプラネット』の録画予約や本放送を観るためにアニメのDVDを停めた時、どうして怒らなかった? いつものお前なら、DVDを途中で停められたら確実に怒るし、いつもあの時間は他局のバラエティかDVDを観ていて、大人が観るような経済情報番組には興味なんて無かったはずだぞ。お前が言わないならおれから言う。あの日に限ってどうしておれが番組を見ることを黙認したのか。あの映像には父さんだけじゃなく、しーちゃんこと立石しずが出ていたからだ。それに普段、おれ宛の郵便と言えば年賀状か『真剣ゼミ』のダイレクトメールくらいしか来ないのを知りながら、セントラルキャピタルからの簡易書留がおれ宛に来た時、どうしてそれに興味を示さないふりをしていたんだ? おれは家の住所をセントラルキャピタルにも、東京昭和AFJインベストメントにも教えていない。彼等に教えたのは、名刺に記載されているFMあさまの所在地と、名刺に手書きで書いたおれのスマートフォンの番号だけだ。なのにどうしてセントラルキャピタルはうちの住所が分かったんだ? いや、うちだけじゃない。三里塚わかばや佐倉みのりの住所も彼等は知っていた。いや、この二人だけじゃない。お前は役場の駐車場で町長の息子がアウディに乗り込む写真をナンバープレート込みで撮り、町内では知らない者はいないが、余所者には知りようのない、町長、商工会会長、青年会議所理事長の家について知り得る情報をしーちゃんに提供した」
つくもは黙ったままはじめを見ているが、決して目を合わせようとはしない。座席の後方で、何か物音がしたような気がしたので、観客席全体を見渡してみるが、特に変わった様子は無い。
「当然、おれたちも商工会の会長が自宅のテレビを買うためにFMあさまの金を流用していたことは掴んでいたが、肝心の町長については使えそうな証拠を得ることができなかった。そんな折、おれ宛に宅配便で届いた町長の息子の写真と、町長が音大に通う娘にスタインウェイのピアノを買い与えた情報が、おれたちが既に持っていた情報とつながり、それが不正の決定的な証拠になった。つくも。おれはお前を責めるつもりはない。むしろ感謝しているんだ。自分のノートPCでDVD‐Rを焼き、運送会社のロゴと黒にゃんこの商標が入ったエンベロープに入れてわざわざ宅配便が届いたかのようにカムフラージュしてくれたことも含めてな」
「あれはちゃんと黒にゃんこのドライバーさんが届けてくれたやつだって! にいが言う『カンチョー』なんて知らないし、やったのだってしーちゃんとか言う人じゃないの?」
つくもは懸命に言い訳する。
「もしその宅配便のエンベロープが普通の荷姿で届いていたら、おれは何も疑うこと無くそれが東京から送られてきたと思っただろうな。けどな。お前は決定的なミスを二つも犯した。何だかわかるか?」
はじめの問いにつくもはかぶりを振る。
「一つ目は伝票だ。父さんの会社もそうだが、宅配便の会社は法人の客に対し、あらかじめ会社の住所と社名を刷った伝票を提供してくれるし、希望すればプリンタで伝票が印刷できるアプリケーションもダウンロードできる。こういったサービスは大企業だけじゃなくて父さんの会社のような中小企業でもやってくれるんだ。東京昭和AFJインベストメントのような相手なら言わずもがなだ。だがこの伝票は送り主の箇所が手書きで書かれている」
「そんなの分かんないじゃん。もしかしたらたまたま印刷した伝票を切らしちゃったかも知れないじゃん」
「そう言うと思ったから二つ目に入るぞ。宅配便の伝票は複数枚の紙が重なってできていて、宛先や宛名はカーボンで文字が転写できる仕組みになっている。一番上の部分は控え兼領収書として送り主に手渡され、送り元近くの営業所や送り先近くの営業所を通過するたびに上から一枚ずつはがされ、家に配達されたとき、受取人にサインをしてもらうためにドライバー控えがはがされ、最後に残るはエンベロープに貼られた受取人控えだ。だがこのエンベロープは、一番上の控え兼領収書しかめくり取られていない。これはどう説明してくれるんだ?」
「それは黒にゃんこの人が忘れてたんだよ」
「それは違う。黒にゃんこの宅配便は一日何万個の荷物を捌いていると思っているんだ? すべての荷物はバーコードで管理されていて、万一伝票がめくり取られていない荷物が混ざったら、エラーで弾かれて、人の手によって然るべき処理がなされるんだ。まぁ、もっとも、このエンベロープは黒にゃんこの営業拠点を通過してはいないけどな。知ってるか? 黒にゃんこの会社だけでなく大手の宅配便の会社は、自社のWebサイトで伝票番号を入れると、荷物が何月何日何時何分何秒に集荷され、どこを経由し、届いたかを調べることができるんだぞ。なんなら、今ここでやってみてもいいけど、結果は『Not Found』だろうな」
「どこで気付いたの?」
つくもは観念したと言わんばかりの表情ではじめに尋ねる。
「まず最初に疑問に思ったのはお前のノートPCだ。お前は父さんのお古のヒューレット・パッカードを使っていたはずだが、いつの間にか富士通、しかもこの春の最新機種に替わっていたことだ。あれは市場価格は十五万くらいの、中学生の小遣い程度ではとても買えない代物だ。だけど父さんや母さんに買ってもらったとか、限りなく確率は低いが懸賞に当たったという可能性も考えられるから、おれは敢えて何も言わなかった。だけど、おれが家中のコンセントをこじ開けて盗聴器を探していた時、お前は何の根拠も無く『そんなものあるはず無いじゃん!』と言い切った。おれはあの時、どうしてつくもが盗聴器の存在を完全に否定したのかが気になった。そこから今まで起きた出来事を整理した結果がこれだ」
「はぁ……。詰めが甘かったかぁ……。にいに気付かれないままいけると思ってたのに。もしかして怒ってる?」
はじめはつくもの目の前まで歩み寄る。つくもは少し怯えたような表情を見せる。
「そうだな。正直言って、やったことはあまり感心しないけど。おれはお前に謝らなくちゃいけない。つくも。済まなかった。お前に危ない橋を渡らせるようなことになってしまって」
「にい……」
「一つ教えてくれ。お前は調査を『依頼』されたのか、それとも『強要』されたのか?」
「分からないよ。ただ、つくも独りでにいの追跡を始めた時、にいが帰って来る時間を見計らって学校から駅に向かっていたら、龍神公園のところでいきなりおっきい人とちっちゃい人に両腕を掴まれて、そのまま黒塗りの車に押し込められて……『おにーちゃんが大変なことになっているのです。おにーちゃんを助けたくば、おにーちゃんにバレないよう私たちに協力するのです』って言ってきて……つくも怖くなっちゃって、にいにも相談できなくて……だから二人に言われるがままに……うっ……うっ……」
「分かった。もう分かったから。おれが、にいが悪かった。ごめんな。怖かっただろう」
はじめは左手でつくもを抱き寄せる。つくもは、はじめの胸で嗚咽している。はじめは右手のポケットからスマートフォンを取り出し、ある人物に電話を掛ける。数秒のタイムラグの後、観客席後方からマリンバの着信音が聞こえてくる。
「サハリンからここまで、三十分で来たんですか?」
はじめは電話の持ち主に声を掛ける。
「まさかそんなはずは無いのです。ユジノサハリンスクの話は大嘘なのです。本当は午後からしおりんと手分けしておにーちゃんたちの様子を窺っていたのです。でも、どうしてしーちゃんたちがここにいるって分かったのですか?」
「簡単なことです。先ほど、しーちゃんさんに電話をかけた時、呼び出し音が日本のものでした。もしサハリンにいらっしゃるのなら、ロシアの呼び出し音が鳴るはずなのにです。それに、お話している間、後ろのほうで機械のような女性のナレーションが聞こえてきました。あの声は、JR東日本の案内放送独特のものです。ですから、ロシアではなく日本。しかもかなり近くにいると推測できました。あと、以前しーちゃんさんがテレビでおっしゃってた『どんな案件でも、一度実物を見なければ気が済まない性分なのです』という言葉がずっと引っ掛かっていたんです。そのポリシーに反し、一度もFMあさまに顔を出さないまま出資を決めたんですから。だけど実際お二人は、メタンハイドレートの件とは違うアプローチで調査をされたということですね。ちなみにですが、ニシンの旬はとっくに過ぎてますよ」
「しーちゃんたちのことをそこまで見抜いたとはさすがおにーちゃんなのです」
「そーですか。それはそれはお褒めいただき、どーもありがとーございます」
はじめはわざと空々しい言い方をする。
「はじめ君、その言い方は随分ねぇ。私たちも心配だったんですよ」
酒々井しおりは両手を広げながら答える。
「おれたちだけじゃ力不足で、信用できないってことだったんですか?」
「うーん、そうじゃないんですけどね……」
はじめはしおりの言葉に、つい数時間前、つかさ会長と交わした言葉を思い出し、思わずハッとする。
『はじめ君は私たちの大切な仲間だから、私たちのことをもっと信じてほしかった』
『ごめんなさい。別に会長を信じてないとか、そういうことじゃないんです。大切な人たちだから、おれの個人的なトラブルに巻き込みたくは無かったんです』
はじめは数秒間の沈黙の後、つくもを観客席に座らせ、身体をしーちゃんとしおりのほうに向ける。
「しーちゃんさん、しおりさん。正直申し上げて、あなた方が妹を泣かせたことに、おれは非常に頭に来ています。しかし、せっかく縁あってお二人はおれたちの仲間になってくれたんです。勿論至らない点も多々あるかも知れません。でも、おれとしてはこんなコソコソするような真似をすること無く、その都度色々言ってもらいたかったですよ」
「おにーちゃんたちに内緒でいろいろやっちゃったのはごめんなさいなのです。おにーちゃんのリアル妹であるところのつくもちゃんにも悪いことをしたのです。でもこれは、FMあさまが心配だからやったことなのです。それは分かってほしいのです」
しーちゃんはしょんぼりした表情をしている。
本当なら、出資の話そのものを白紙にしたいところだが、これははじめ個人の問題ではない。個人的には腑に落ちないが、これ以上二人を責めるのはFMあさまにとって得策ではない
「ええ。分かってます。でもこれだけは胸に刻んで欲しいんです。おれたちは仲間になったんです。何があってもおれたちはちゃんと向き合いますし、その覚悟はできてますから」
「しーちゃんは、仲間なのですか?」
「今さら何言ってるんですか。他の案件もあるかと思いますので、しーちゃんさんもFMあさまにベッタリというわけにもいかないのでしょうけど、片足突っ込んだ以上、とことん付き合ってもらいますよ。なんならレギュラー番組でも持ちますか?」
「おおっ! それは面白そうなのです!」
しーちゃんの表情が急に明るくなる。
はじめたちは館内を見廻りに来た警備員に見つかり、くまがいホールから追い出される。しーちゃんとしおりは、今晩は軽井沢に泊まると言い、タクシーを呼び出してそのまま国道十八号方面に去ってしまった。
その場に残されたはじめとつくもは歩いて家に向かう。梅雨前線は北へ去ったのか、夜空には満点の星が輝いている。いよいよ明日から夏が始まる。間もなく学校では期末試験が始まり、生徒会は文化祭の準備に入り、FMあさまは新会社への事業譲渡の手続きを進めることになる。
「ありがとな。つくも」
「もういいって。それより、これからどうするの?」
「そりゃ、FMあさまも、生徒会もちゃんとやるよ。つくもはおれの犠牲になることなく、自分のやりたいことをやっていけばいい」
「そういうことじゃなくて、美緒ちゃんはどうするの?」
「どうしてここで美緒の名前が出てくるんだよ!」
「そりゃ出すよ。にいは美緒ちゃんとどうしたいの?」
「だからそれはだな……」
「あれ? はじめちゃん、つくもちゃん。どうしてこんなところにいるの?」
気が付くと、目の前には電動アシスト自転車を押している美緒がいる。
「うわっ! 美緒、何でここにいるんだ?」
「うん。さっきはじめちゃんのお家に行ったら、二人ともいないって言われて、もしかしたらトイレットペーパーが買えなかったんじゃないかって思って……で、はじめちゃん。トイレットペーパーは買えたの?」
はじめは、トイレットペーパーを買うことを理由に駅で美緒と別れたことを思い出す。
「いや……まぁ、シングルを買うべきか、ダブルにすべきか分からなくなって結局買えなかったんだ」
はじめは少々苦しい言い訳をする。
「もう、生徒会役員になったのにトイレットペーパーも買えないなんてしょうがないわね。もう遅いから今日は帰ろう。あっ、おばさんが今日は夕飯食べていきなさいって言ってたから、そのお言葉に甘えさせてもらうねっ」
「やったぁ! 美緒ちゃん、ご飯食べたら一緒にお風呂入ろうね!」
「お、お風呂?」
はじめは、お風呂という言葉に思わず反応してしまう。
「もうっ! はじめちゃんのえっち!」
美緒ははじめに軽くタックルしてくる。予想外の動きに、はじめは思わず身体のバランスを崩して歩道に尻餅をつき、美緒と自転車の下敷きになる。
つくもが倒れた自転車を起こしている。はじめもすぐさま立ち上がり、まだ立ち上がることができていない美緒に右手を差し出す。はじめは、美緒が両手で自分の右手を強く握ったのを確かめると、美緒を力強く引っ張り上げた。
了




