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遅延!(Explanation)

 金曜日の朝六時半。スーツ姿のはじめが小田井駅に着くと、わかばとみのりは既に待合室のベンチに腰掛けている。

「おはよう。はじめ君」

「おっ、はじめっ!」

 わかばのスーツ姿は何度も見ているが、みのりのスーツ姿は初めて目にする。馬子にも衣装とは言い方は悪いが、スーツ姿になるだけで、『すけべな残念美人』の面影はなくなり、見た目だけは仕事ができるような印象を受ける。

「すみません。お待たせしちゃって」

「大丈夫ですよ。私たちも今来たばかりですから。それに出発は七時半ですし」

「七時半ですか? 駅集合なんですから、もっと早い電車にも乗れるじゃないですか」

「違うよ。今日はアレで行くんだよ」

 みのりが右手の人差し指で、今まさにロータリーに入らんとしている、青・赤・緑のラインが入ったバスを指差している。

「おれはてっきり新幹線で行くものかと思ってたんですけど」

「ううん。ちょっと新幹線はお金がかかるかなぁって思って、バスにしたんです。みのりちゃんが時刻表を調べてくれて、池袋に着くのが十時五十分みたいなんで、池袋から電車で移動して、お昼食べたらちょうどアポイントメントの時間になるかなって」

「はいっ。チケット」

 みのりがはじめとわかばに高速バスのチケットを手渡す。みのりから受け取ったチケットにコンビニのロゴが入っているということは、バイト先のコンビニのマルチメディア端末で発券したのだろう。

 小田井駅からの乗客ははじめたち三人しかいなかった。三人はバスに乗り込むと、指定された最後部に、窓側からはじめ、わかば、みのりの順に座る。バス前方のデジタル時計は七時一分を表示している。

 ふと窓の外を見ると、駅舎の入口で周囲をキョロキョロしている美緒の姿を見かけ、思わず窓に背中を向ける。

「どうしました?」

 わかばが首をかしげている。

「いっ、いえ。何でも……」と言いかけた刹那、ポケットの中のスマートフォンが急に震えだす。ポケットから取り出しディスプレイを見ると、菅野美緒と表示されている。おそるおそる窓のほうを見ると、何も知らない様子の美緒が、バスに急接近しながら携帯電話に耳にあてている。どうやらはじめが寝坊しているものと思っているらしく、発信を諦める様子は全くない。

「出ないの?」

「え、えぇ……」

「あれ? もしかしてあの子って、学校にいた子よね? おーい!」

 何を思ったか、わかばは両手を左右に振り、美緒にアピールし始める。はじめは慌ててわかばの両腕をつかみ、強制的に座らせる。

「どういうつもりなんですか!」

「えっ? どういうこと?」

「どういうことも何も、ここでアイツにバレたらおれは東京に行けなくなりますよ!」

「どうして?」

「忘れたんですか? 今日は平日ですし、おれは学校をこれからサボることになるんですよ!」

「あっ、そうですよね。ごめんなさい。今日は無理を言っちゃって……」

「いや、そんなことを怒ってるんじゃないんですよ……」

 はじめは思わずため息をつく。

 いつの間にか、バイブレーションの動きは止まっている。再び窓の外を見ると、いつの間にか駈も駅に着き、美緒と二言三言会話を交わし、駅舎の中に消えていく。一瞬、駈と目が合ったような気がしたが、気のせいだろう……と思いきや、今度はSMSの着信通知が入る。


〇七:〇七

From:三里塚駈

Body:おはよう。安心してくれ。菅野さんには君は全身毛むくじゃらになる病気になったと言っておいたよ。


『全身毛むくじゃらになる病気』つまり『毛病』が転じて『仮病』か。本人はうまいことを言ったつもりだろうが、及第点には程遠い。

「わかばさん、駈に喋っちゃったんですね」

「どうしてわかったんですか?」

 はじめは再び大きなため息をつくと、シートに身体を沈める。自分がしっかりしなくては。

「さぁ、今日一日は長いですよ。今のうちに資料をチェックし直しましょう」

 バスは定刻通り七時半に動き出し、国道十八号線を軽井沢方面に走っている。途中、中軽井沢のバス停で数人の乗客が乗り込み、軽井沢駅で座席の半数近くが埋まり、プリンスホテルのバス停で更に数人が乗り込むと、碓井軽井沢インターチェンジから上信越自動車道に入り、一路東京に向かう。

 藤岡ジャンクションから関越自動車道に入ると、バスは上里サービスエリアで停まり、十分間の休憩を取る。みのりは自動販売機の前でペットボトルのお茶を飲み、わかばは売店で竹風堂の栗ようかんを買い求めている。おそらく先方への土産なのだろう。

 バスに戻り、三人は再び資料に目を通し始める。しかし、あまり資料に集中しすぎると軽めの車酔いに陥りそうになるが、その時はペットボトルの水を飲み、数分間窓の外を眺めることによって解消させる。それを数回繰り返し、鶴ヶ島インターチェンジを通過するかしないかのあたりで、はじめの視界に、文字情報が飛び込んでくる。


『川越→[外]和光北IC 事故渋滞 25km90分』


「わかばさん、みのりさん。今、電光掲示板に事故渋滞の情報が……」

「えっ? どのあたりで?」

「川越から和光のあたりまでみたいなんですが……九十分はかかってしまうみたいです」

「ワコー?」

 わかばは首をかしげている。どうやら首都圏の地名には疎いようだ。

「わかばっち、埼玉県の和光だよ。そうか、外環の事故渋滞が川越まで繋がっちゃったのか……」

「渋滞……ですか? ということは、もしかしたらプレゼンに遅刻する可能性もあるってことですか?」

「ああ。最悪数分のレベルじゃなく、プレゼンのための時間が丸々吹っ飛んじゃうかもな」

「どうしよう……やっぱり新幹線で行けばよかった……」

 わかばの顔が泣きそうになっている。

「今さらそんなことを言っても仕方ありません。とにかく考えましょう」

 はじめはスマートフォンを取り出し、百科事典サイトで『関越自動車道』と『上信越自動車道』を続けて調べ、時刻表サイトでこのバスの運行行程を確認する。

 前方の時計は九時四十分を表示している。川越インターチェンジの手前にある的場バス停までは予定通り十時に到着するはずだが、そこから先でこのバスは渋滞に巻き込まれてしまうだろう。

 本来、バスが池袋駅東口に到着を予定しているのは十時五十分。途中、練馬区役所前に到着するのが十時二十五分ということは、関越自動車道を時速八十キロで走り続けた場合、練馬出口を通過するのは十時十五分くらいだろうか。渋滞を抜けるのに九十分かかるということは、七十五分の遅延。すなわち現段階で考えられる池袋駅東口への到着予想時刻は十二時五分。しかし目的地は池袋ではなく品川だ。乗り換え時間や電車での移動時間、品川駅から目的地までの所要時間を考えるとギリギリだ。

「はじめ、何をブツブツ言ってるんだ?」

 みのりが怪訝そうな表情ではじめを見つめる。

「いや、色々考えてみたんですけど、川越から和光までの所要時間があの文字情報通りと仮定した場合、品川に到着するのは午後一時ギリギリです」

「はじめ、今の答えをどうやって導き出した?」

 みのりの身体がシートの背もたれから離れる。

「ちょっとした計算をしただけです。但し不確定要素もあるでしょうし、小数点以下とかは無視しちゃったんであくまで概算ですけど」

「そうか。だったらこうしないか。はじめとわかばっちは次の的場バス停で降り、電車で品川に向かう。私はこのままバスに乗り、池袋から電車に乗る。仮にどちらかが間に合わなくても、どちらかが先に着けば、とりあえず時間を稼ぐことはできるだろう?」

「そりゃあまぁそうですけど、二人とも間に合わない可能性だってあるじゃないですか?」

「確かにそうだけど、どちらかが間に合う可能性があるなら、私はそちらに賭けるべきだと思う。それに先方へ電話で連絡をしようにも、車内は通話禁止だから電話を掛けるに掛けられないだろ」

「確かにみのりちゃんの言うとおりですね。メールはちょっと失礼な気がします」

「わかりました。おれとわかばさんは的場バス停で降ります。降りたらすぐ先方と連絡を取って、すぐ電車で品川に向かいます。但し、十分おきにSMSで今どこにいるか連絡を取り合いましょう」

「そうだな。はじめ。わかばっちのことを頼んだよ」

「はい」

 バスが側道のバス停に停止すると、はじめとわかばは他の乗客とともにバスから降り、階段を下って地上に出る。

 階段を降りた先は、どこにでもあるような住宅地だったが、高速バスの乗客が来ることを見越して来たと思われるタクシーが数台、階段の前で待機している。はじめとわかばは迷うことなく先頭の一台に乗り込むと、わかばは自分のスマートフォンを取り出して先方に電話を掛ける。はじめはスマートフォンの地図アプリで経路を確認している。


一一:〇八

From:佐倉みのり

To:関谷はじめ

Body:川越ICで降りてR16に入りました。


一一:〇九

From:関谷はじめ

To:佐倉みのり

Body:TAXIで川越駅に向かいます。


一一:一三

From:佐倉みのり

To:関谷はじめ

Body:R254に入りました。たぶん新座のあたり。


一一:一五

From:関谷はじめ

To:佐倉みのり

Body:川越駅に到着しました。


一一:二五

From:関谷はじめ

To:佐倉みのり

Body:十一時半の新木場行きに乗ります。


一一:二六

From:佐倉みのり

To:関谷はじめ

Body:おk。ただいま東京都に入りました。


一一:三一

From:関谷はじめ

To:佐倉みのり

Body:電車出発しました。一二:三六に大崎到着予定です。大崎に着いたら連絡します。


一一:三二

From:佐倉みのり

To:関谷はじめ

Body:おk。もうすぐ練馬区役所前バス停に到着するみたい。渋滞は無い。


 はじめはみのりからのSMSに安堵し、車窓に映る荒川と、河川敷に広がるゴルフ場を眺めている。ゴルフ場は山にあるものというイメージがあるはじめには、起伏のないコースは新鮮な風景だ。本番まであと一時間ちょっと。人身事故が起きてダイヤが乱れませんように。

 二人を乗せた電車がトンネルに入り、大宮駅の地下ホームに到着すると、ほぼすべての座席が埋まり、ちらほらと手すりやつり革につかまって立っている乗客の姿も見受けられるようになる。電車が再び地上に出て高架に入ると、先ほどまでの田園風景とは打って変わり、高層ビルと住宅が密集した風景が目に飛び込んでくる。

 金曜日の十二時過ぎ。はじめは学校をサボった背徳感に少しドキドキしつつ、何度となく周囲を見渡していたが、スーツ姿のせいか、乗客の誰一人としてはじめのことを気にする様子は見られない。おそらく童顔の新入社員と先輩女子社員のコンビに見えるのだろう。

「ねぇ、はじめ君」

「どうしました?」

「ありがとね。色々」

「まだ礼を言われる覚えはありませんよ」

「どうしてです?」

「まだ何も結果が出てないですから。礼を言うなら、すべてがうまくいってからにしてください」

「はい。でも、もしうまくいったら、あの……その……」

「もしうまくいったら何だって?」

 はじめとわかばが声がした方に顔を向けると、的場バス停で別れたはずのみのりが目の前に立っている。

「あれっ、バスは大丈夫だったんですか?」

「ああ。池袋には十二時過ぎに着いてさ。時刻表サイトで川越を十一時半に出た電車を調べたら、池袋には十二時十九分に着くって結果が出たから、たぶん会えるかなって思ってね」

「結局、どっちで行っても一緒でしたね」

 はじめは大きなため息をつく。

「でも良かったじゃないか。私も目白通りが渋滞していたらどうしようと思ってたけど、考えてもみたら渋滞の先頭って外環なんだから、心配することは無かったよね。ただ、ランチ食べる時間は無くなっちゃったけど」

 十二時三十六分に三人が大崎で埼京線から山手線に乗り換え、品川駅のコンコースに到着したのは十二時四十五分。わかばとみのりはコンコースの天井の高さとショッピングモールの大きさにおのぼりさん丸出しで驚きの表情を隠そうとはせず、首をキョロキョロさせている。

「時間ありませんから、急ぎますよ」

 はじめは少し強めの口調で二人を急かし、自動改札を通過する。ふと振り返ると、わかばがICカード専用自動改札でおろおろしながら周囲に頭を下げている。やはり自分がしっかりしなくては。

 三人は同じ広告映像が流れている数多の液晶ディスプレイが並んだ連絡通路を抜け、港南口に出る。駅前は高層ビルが林立し、人通りは多いものの、車の数は意外と少なく、都会の割には意外と静かな印象を受ける。はじめがスマートフォンの地図アプリで目的地を確認し、GPSが導く方向に向かって歩き出すと、わかばとみのりもはじめの後に付いていく。

 本日最初の目的地であるセントラルキャピタル東京支店は、名古屋の名駅に本社を置く、日本でも五本の指に入る大手商社の百パーセント出資子会社で、オフィスはその商社の東京支社として使用している三十階建てのビルの十四階を占有している。

 オフィスの低層部分と地下一階はレストランやカフェ、みのりがバイトしているところと同じ系列のコンビニが入居しており、エスカレーターやエレベーター前は昼食を終え、持ち場に戻らんとする、首からIDタグをぶら下げたオフィスワーカーたちでごった返している。はじめたち三人も彼等に紛れ、エレベーターに乗り込み、『14』のボタンを押す。いよいよ本番。はじめは生まれて初めて身に纏ったスーツ姿で、生まれて初めてビジネスパーソンの真似事をすることに一抹の不安を抱いていたが、すぐさま、不安に思っているのは短大卒業後、唯一の社会人経験がFMあさましか無いわかばと、コンビニのアルバイト店員であるみのりも同じだということに気付く。

付け焼刃なのは分かっている。でも、自分が変にびくついたり、不安そうな表情をしようものなら、すぐさまそれが二人に波及し、プレゼンテーションに影響を及ぼすことは容易に想像できる。だからせめて今日だけは、自分は表情や立ち振る舞いだけでも物怖じせず、堂々とすることで二人を不安にさせないようにしなくては。

 ほぼ満員のエレベーターが、セントラルキャピタルが入居する十四階に到着する。このフロアで降りたのは、はじめたち三人のみだ。

 壁紙やじゅうたんは黒を基調とし、間接照明をふんだんに使ったお洒落なエントランスに、黒檀でできた小さなデスクがあり、その上にはカリグラフィで描かれた『Please pick up the handset and hold on for your enquiry.』というメモとともにバンカーズランプとバング&オルフセンの電話機が置かれている。はじめが受話器を上げ、耳にあてると、自動的にどこかにダイヤルされ、呼び出し音が鳴る。

「はい」

 女性の声だ。英語ではなく日本語だったことにはじめは安堵する。しかし、決して緊張感が抜けたわけではない。

「あの、本日午後一時のアポ……お、お約束でお伺いにあがりましたFMあさまですが、ご担当者様をおねが……」

 緊張のあまり、語尾が若干あやふやになってしまっている。

「はい。電話をお切りになって少々お待ちください」

 その一言で電話が切れ、はじめはゆっくりと受話器を電話機本体に置くと、一分と経たずに、わかばやみのりと同様に上下を黒のスーツに身を纏った、長い髪を少し明るくした妙齢の女性が三人の目の前に現れる。胸の大きさはわかばや美緒ほどでは無いが、出るところは出て、締まるところは締まっている、綺麗にバランスが取れたボディラインだ。それだけでは無い。今まではじめが接してきた妙齢の女性には無かった、「根拠の無い近寄りがたい雰囲気」をまざまざと感じている。これが世にいう『フェロモン』と呼ばれるものだろうか。田舎者丸出しな感想であることは重々承知だが、はじめは東京の女が持っているであろう超自然的なオーラにただただ圧倒されていた。

 そんなはじめの様子を察したのか、みのりははじめの左隣に駆け寄り、

「あの『乗馬』が好きそうなビッチに童貞だって言ったらOKしてくれるかもよ」と耳打ちする。

「みのりさんっ!」

 はじめは小声でみのりを軽く叱る。みのりは軽く舌を出しながらニヤニヤしている。不安を与えないようにしっかりしなきゃと思っていた自分がバカだった。この女、緊張の欠片も無い。その上初対面の、しかも出資者になるかもしれない会社の社員をビッチ呼ばわりとは恐れ入る。

 セントラルキャピタルの女性は、三人を奥にある会議室に通し、着席を促すと、軽く一礼をしてそのままどこかに消えてしまった。

 その間に三人は手際よく各々のノートPCを起動し、FMあさまから持ち出したプロジェクタの電源を入れ、配布資料を並べる。

 はじめがプロジェクタにパワーポイントのファイルの最初のページを表示させ、わかばがレーザーポインタの動作確認を終えたところで、ノック音が聞こえ、担当者と思しき五人が入ってくる。男性四名、女性一名。男性は上の立場と思しき人二名と、四十代の、管理職っぽい感じの人一名に、まだ二十代半ばと思われる若手一名で構成され、女性は先ほどみのりがビッチ呼ばわりしたあの女性がやって来たが、口を真一文字にし、無表情なことから、おそらくみのりのセクハラまがい……いや、セクハラ発言そのものは彼女に聴こえてしまい、少なくとも彼女にとって自分たちに対する第一印象が最悪であることを、はじめは容易に想像することができた。一方、この面子の中で、最終的な意思決定者は、最初に入ってきた上の立場と思しき人二名の男性だろうと思い直し、落ち着きを取り戻さんとする。

「本日は、ご足労いただきありがとうございます」

 一番最初に入ってきた、白髪交じりの男性がわかばに声を掛ける。

「い、いえ、こちらこそ、このような機会をいただき、ありがたきしあわせです」

 少し緊張しているのか、わかばは声を上ずらせながら殿様に褒められた家来の侍のような返答をしている。若手の男性社員が下を向き、必死に笑いをこらえようとしているのが目に入る。はじめは気を取り直し、上着の内ポケットに忍ばせておいた、無印良品の名刺入れを取り出し、名刺を一枚用意すると、わかばとみのりに目で合図を送る。今回の場合、FMあさま側の序列はわかば・みのり・はじめの順だから、昨日閲覧したマナーに関するウェブサイトによれば、この場合、一番最初に名刺を交換する必要があるのは、わかばと一番最初に入ってきた白髪交じりの男性のはずだ。FMあさまの三人と、セントラルキャピタルの四人は序列順に一列に並び、互いの名刺を交換し始める。

 はじめにとって生まれて初めての名刺交換。確か、両手で名刺を持ち、自分から見て右側に出すはずだ。だが、テレビドラマでビジネスパーソンを演じる俳優や女優が名刺を差し出すシーンはどのドラマでもほぼ例外なく「わたくし、こう言う者ですが」などと言いながら片手で差し出していた記憶があるが、どうやらあれは間違ったやり方のようだ。

 はじめは、わかばとみのりに続き、セントラルキャピタルの四人と名刺交換を始める。

「お初にお目にかかります。関谷はじめです。よろしくお願い致します」

 はじめは白髪交じりの男性に、軽く一礼しながら両手で持った『小田井超短波放送株式会社 関谷はじめ』と印刷された名刺をやや右前方に差し出す。

「よろしく。結構似合っているじゃないですか」

 白髪交じりの男性は、はじめに自分の名刺を差し出しながら声を掛ける。

「あっ、いえ……」

 はじめは、白髪交じりの男性が発した言葉の意図を考えようとするも、初めての名刺交換に緊張し、思考能力が低下しているのか、うまく言葉が浮かんでこない。名刺をよく見ると、『代表取締役』の五文字が目に入る。違う言い方をすれば『社長』だ。

「あっ、あの、すみません」

「何がです?」

 セントラルキャピタルの社長は怪訝そうな表情をしている。

「もしかしたら今日はこのためにわざわざ名古屋からお越しになったのかなって思いまして……」

「いやね、本社は名古屋ですけど、私は週の大半は東京にいるんですよ。お気遣いありがとうございます」

 社長は納得したような表情を浮かべ、はじめに事情を説明する。地方に本社がある企業でも、取引先の多くが東京にある場合、その会社の東京支社が実質的な本社機能を備えている場合が多いことは、何となく理解している。おそらくセントラルキャピタル東京支社もその中の一社なのだろう。最初の顔合わせだから、相手は担当者レベルか、課長や部長といった担当者の直属の上司だろうと思っていたが、いきなりラスボスがいるではないか。はじめは「よろしくおねがいします」と深々と頭を下げ、次の頭髪がやや薄くなりかけた男性と名刺を交換すると、今度は『取締役東京支社長』の肩書が印刷されている。更に続いた四十代男性の肩書は『運用部部長』、若手だと思っていた男性にも『運用課第二運用係 係長』の肩書が付いている。最後に交換した、五人の中で最も若いと思われる件の女性の名刺には、『運用課第二運用係 甲信越地区担当 酒々井しおり』とある。シュシュイ? サケサケイ? はじめは読み方が分からず戸惑っていると、

「『シスイ』って読むんですよ」

 という、酒々井しおりの声が返ってくる。名刺をよく見ると、名前の下にローマ字で『SHIORI SHISUI』と記されている。確か千葉県にある地名だったはずだ。落ち着け。はじめは自分自身に言い聞かせながら、自分の席に着く。

 いよいよ、プレゼンテーションする時がやって来たが、今になって、どのようなことをしゃべるのかは決めていたものの、誰が話すかを決めていなかったことを思い出す。ふと、わかばとみのりの方を見ると、セントラルキャピタルの名刺の肩書に恐れをなしたのか、二人とも目が完全に泳いでしまっている。確かこの二人もパーソナリティとして自分の番組を持ち、番組の中では饒舌なしゃべりを展開していたはずなのだが、ラジオでしゃべる時の緊張感と、今の緊張感は別ものなのだろうか。

 しかし今となっては前に進むしか無いし、今朝、バスの中で自分がしっかりしなきゃと心に決めたばかりだ。それに自分は名門、いや、名門かどうかは知らないが、長野県藤井高等学校の伝統と名誉ある生徒会書記なのだ。生徒会役員としての本格的なデビューの場である生徒総会は少し先だが、この先、今のような極度の緊張を強いられる局面になることだって十分有り得るだろう。はじめはゆっくり立ち上がり、大きく息を吸い込むと、プロジェクタに映し出したパワーポイントのファイルを手で指し示しながら、FMあさまの説明を始める。

「ほ、本日は、このような時間をいただき感謝いたします。まずは弊社の簡単な説明をさせていただきたいと思います。FMあさまは長野県北佐久郡小田井町を中心に、周辺市町村に超短波、すなわちFMの電波を使用したコミュニティ放送サービスを実施しており……」

 しかし、その一方で緊張のせいか、自分の思考能力が普段の半分にもなっていないことを自覚する。それを証拠に、辛うじて会社概要を説明しているにもかかわらず、てにをはがまるでバラバラな上に、露骨なまでに尊敬語と謙譲語を間違うなど、まるで前頭葉を経由せずに、『日本語のようなもの』を発声しているような感覚に陥る。

「……といった事情もございますので、何卒、よろしくおねがいいたします」

 一通り説明を終え、セントラルキャピタルの五人を見渡すも、五人とも無反応に見える。特に役員の二人は腕を組み、何かを考えているようにも見える。

「あの、何かご質問等あれば……」

 はじめは五人に声を掛けるも、皆一様に神妙な表情をしたまま微動だにせず、空調と、みのりが自分のPCをタイプする音だけが会議室に響き渡っている。

「あのう、申し訳ないんですけど関谷さん、あなたのおっしゃっている言葉の意味がよく分からないんですよ」

 社長が腕を組んだまま、はじめに話しかける。

 終わった……。おれのせいで失敗してしまった……。わかばさん、みのりさん、ごめんなさい。いや、二人だけじゃない。留守番しているゆいさん、あい、まい、そしてFMあさまの番組制作に係わるボランティアの皆さん、本当にごめんなさい。高校生になり、生徒会役員選挙にも当選し、自分の世界が広がり、今までできなかったことができるようになると思っていた。しかしそれは自分の自惚れでしかなかったのかもしれない。所詮ファミレスに行っても罪悪感がなくなる程度しか、自分の世界は広がっていなかったのだ。高校一年の一学期に、どうして自分はスーツを着て東京まで来て大人の真似事などしていたのだろう。

 ふと、はじめがわかばとみのりのほうに視線を移すと、なぜかわかばは自分のPCの画面に向かってうんうんと頷き、みのりは一心不乱に何かをタイプしている。

「あの、私からいくつか補足させていただいてもよろしいですか?」

 突然わかばが右手を挙げながら椅子から立ち上がり、セントラルキャピタルの五人に声を掛ける。

「ええ……まぁ、いいですけど……」

 少し困惑した表情をした東京支店長がわかばに発言を許可する。

 わかばはみのりと目を合わせ、同時に軽く頷くと、顔を少し上に向け、軽く息を吸った。

「先ほど、関谷からお話しさせていただきました弊社の現状についてですが、第四期の後半から第五期におきまして、広告収入等が比較的安定していたにもかかわらず、財政面でいくつか不明瞭な点があり、まずはそこを明確にし、本事業が今後継続可能であるかどうか精査していただき、その上である程度の時期までEBO、エンプロイー・バイ・アウトの準備を御社と進め、マテリアルが揃った段階で現経営陣にオファーを提出し……なおEBO完遂後につきましては、FMあさまの企業としての価値および、CSRの向上を図ることに注力し、県内他地域のコミュニティ放送との積極的な連携も同時に視野に……」

 つい先ほどまで緊張でガチガチになっていたわかばが、まるで人が変わったかのように饒舌になり、FMあさまの現状と未来について語り出す。わかばの姿に圧倒されたのか、いつの間にか役員二人の腕組みが解かれ、全員の背中が椅子の背もたれから離れている。一体、わかばに何が起こったのだろうか。

 ふと、はじめは自分のMacBook Proの画面に目を移すと、常駐してあるIMアプリのダイアログが表示されていることに気付く。

『Conference Invited from yui_wada. Do you join it? [Accept] [Decline]』

 この一文ではじめは、わかばがいきなり饒舌になった理由を理解する。はじめが支離滅裂なプレゼンテーションをしている間、みのりはIMで和田ゆいに救援を求め、それに反応したゆいが東京の三人を招待インヴァイトし、カンニングペーパー代わりの文章を発信し続けていたのだ。

 はじめは迷うことなく[Accept]を選ぶと、ゆいがかなり早いタイピングスピードでカンペ原稿を書き込んでいる。わかばは時々ノートPCのディスプレイに目を落としては、その文章を一切噛むことなく、まるで自分の言葉のように読み上げている。一方みのりは、社長や東京支社長から発せられた質問を素早く文字に起こし、ゆいに送っている。はじめはただ、二人プラス一人の絶妙なチームプレイを見つめることしかできなかった。


「それでは、あとは弊社で色々検討させていただいた上、ご連絡を差し上げますので」

 酒々井しおりは、はじめたちを見送るべく、エレベーターの前まで付いて来ている。

「はい。よろしくお願いします」

 わかばはしおりに軽く頭を下げる。

「あっ、三里塚さん、佐倉さん、関谷さん。あと一点だけよろしいですか?」

「何でしょうか」

 はじめはしおりの問いかけに答える。

「弊社以外のVCから、お話を頂いているということはありませんか?」

 はじめは一瞬、返答に窮し、わかばとみのりの方を見ると、二人とも笑みを浮かべながら軽く頷く。

「あっ、はい」

 はじめは正直に答える。

「ちなみにどこのVCかも教えていただければ嬉しいんですが」

「東京昭和AFJインベストメントさんです」

 しおりはなるほどと言わんばかりの表情をしながら大きく頷く。

「ありがとうございます。あっ、最後にもう一点だけ」

 しおりはそう言うと、ゆっくりとはじめに近付き、耳元で「もしかしてキミ、本当は高校生でしょ?」と囁く。はじめはしおりから醸し出される甘い香りに鼻腔を刺激され、思わずこくりと頷く。

「そっか。さっきはよく頑張ったね。でも、バレバレだったよ」

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