第17話 闇病院
薬のにおいで、目が覚める。
胸の中で、鼓動が二つ鳴っている。左が打ち、右が半拍おくれて追いかける。川の中では、どっちが先かも分からなかった。
ベッドの横で、男がカイの手首に指を当てている。もう片方の手で、紙に数字を書きつけていく。
「八十八」
カイにではなく、紙に向かって言う。
「誰だ」
「しゃべるな。脈が上がる」
男は指を当てたまま、しばらく待つ。
「九十一。ほらな」
「今のは、あんたが脅かしたからだ」
「九十三」
カイは口を閉じる。
男は五十近い。灰色のシャツの袖をまくり、ズボンの左のすそから、金属の足首がのぞいている。部屋には、白い物が一つもない。シーツも包帯も、壁まで、くすんだ灰色だ。
「ロイだ。ここの医者」
「医者なら、白衣くらい着ろ」
「白は嫌いだ」
理由は言わない。紙をめくる音だけが続く。
壁ぎわの丸いすで、レイドが火のないタバコをくわえている。その隣で、キールが濡れた手を膝の上で組んでいる。
「三日寝てた」
レイドが言う。
「番は」
「三日分、貸しだ」
「起きて最初に聞くのが、それか」
「聞いたのは、お前だ」
キールが身を乗り出す。
「川下で拾ったのは、おれだって。水を分けてたら、一か所だけ流れが重くてさ。手を入れたら、お前のえりだったんだって。肺の水も、泥と分けて出してやった」
「助かった」
キールの口が、とがる。
「礼なんかいいって。重かったんだ、お前」
レイドが上着の内側から、口を縛ったままの袋を出して枕もとに置く。袋ごしに、紙の角が分かる。
「開けてない」
それだけ言って、タバコをくわえ直す。
ロイが聴診器を、カイの胸の右寄りに当てる。探しもせず、一度で。
「心臓が二回止まった。二回とも、右が先に打ち直した。左は、つられて戻っただけだ」
「右のは、作り物だろ。研究所の紙で読んだ」
ロイは答えない。聴診器を外し、紙に一行書き足す。
横から見える字は、右へ傾いている。行の終わりに近づくほど、倒れかけた柵のように寝ていく。カイは、その傾きの角度を目で測る。測らずにいられない。
「なら、紙にないことだけ言う」
乾いた指が、カイの右のももを押す。小さな針の跡がある。
「出力極大化。管理局の薬だ。ふつうの体なら、一本で骨が割れる。お前は、あばら三本のひびで済んだ」
「もう一本打ったら」
「心臓が三回止まる。三回目は、どっちも打ち直さない」
熱を読み上げる時と同じ、平らな声だ。
キールが、濡れた手をズボンでぬぐう。一度では足りずに、二度、三度。
「それと、熱の勘定が合わん」
ロイの目が、カイの腹の上に落ちる。何もない所に。
「あの薬の熱なら、骨はもっと割れてる。半分しか来てない。何かが、熱を半分持っていった」
カイは、胸の内側に気持ちを向ける。
いつもなら、そこに小さな重さがある。名前をつけた日にできた、あの重さ。
今は、しんとしている。
「見えるのか、あんた」
「見えん。骨を数えただけだ」
レイドのタバコが、くわえたまま止まる。
ロイは紙の束を閉じ、レイドの方へ向き直る。
「776は、あと一晩寝かせとけ。明日の朝なら、歩かせていい」
部屋の空気が、そこで固まる。
「その番号、どこで聞いた」
ロイは、右手の指で自分の膝を二回叩く。
「うわごとだ。寝てる間に、何度も言ってた」
「言ってないじゃないか」
キールが顔を上げる。
「おれ、三日ともここにいたんだって。こいつ、いびきしかかいてないって」
ロイはかがんで、義足の留め具に手をかける。もう十分にきつい留め具を、さらに一段締める。
「なら、俺の聞き違いだ」
話は、それで終わる。
膝を二回。カイはその音を、頭の中の帳面に書いておく。
指先に力をこめる。線は一本も出てこない。体のどこにも、まだ余りがない。
「治療代だ」
ロイが手を出す。ポケットを探ると、湿った革のケースが出てくる。中に、七万と少し。
ロイは中身だけを抜き、空のケースを返してよこす。
「足りん。残りは貸しだ」
「まけろよ」
「まけん。心臓が二つある。二人分だ」
「この街は、貸しでできてるのか」
「貸しが残ってるうちは、まだ生きてる」
レイドがタバコを指にはさみ、灰の落ちない先を眺める。
ロイは紙の束を脇にはさみ、義足を鳴らして戸へ向かう。振り向かずに言う。
「歩けるようになったら、どこへ行ってもいい。第四研究区にだけは、行くな」
初めて聞く名前だ。聞き返す前に、戸が閉まる。
「行くなって言われると、行きたくなる顔だ」
キールが、濡れた手でカイの肩を叩く。病衣に、手の形のしみが残る。
「顔に書いてあるか」
「でかでかとだって。おれでも読める」
翌朝、地下の戸を出て、細い階段をのぼる。上は、境の路地と呼ばれる細い裏道だ。
路地の湿った空気を吸ったとたん、のどの奥がむずがゆくなる。
咳が出る。
いつもなら、そこで黒い霧がこぼれる。足もとで渦を巻いて、犬の形に固まる。
カイは足もとを見る。濡れた石があるだけだ。
もう一度、咳をする。わざと、深く。胸の奥の、いちばん底から。
何も、出てこない。




