第一章 鬼の龍儀
角砂糖とパンの耳
ポポロ村の夕暮れ時。
三カ国の緩衝地帯という物騒な立地にあるこの村の片隅に、赤提灯をぶら下げた場違いな店がある。
小料理屋『鬼龍』。
「……ふぅ」
黒を基調としたシャツに、深紅のジャケット。
カウンターの奥で、マスターの龍魔呂は、角砂糖を無造作に口へ放り込んだ。
ガリッ、と甘い塊を噛み砕く。
脳に糖分が染み渡る感覚を味わいながら、彼はグラスを布巾で磨いていた。
カランコロン、とドアベルが鳴る。
「マスター! 今日も来ましたぁ!」
元気いっぱいの声とともに飛び込んできたのは、人魚族の少女・リーザだ。
16歳。透き通るような美貌と純真な瞳を持つ彼女は、かつて親善大使としてルナミス帝国に渡り、地下アイドルとして大失敗した末にこの村へ流れ着いていた。
「いらっしゃい。……今日は、なんだい?」
龍魔呂が苦笑しながら視線を落とすと、リーザは満面の笑みでスーパーのポリ袋をカウンターにドンッ、と置いた。
「これです! ルナミスマートのパン工場裏で、鳩と熾烈な争奪戦を繰り広げて勝ち取ってきた、特製の『パンの耳』です!」
誇らしげに胸を張るアイドル。
どう見てもただの廃棄物である。
「……それで?」
「美味しく調理してください! 私、昨日の夜から公園の雑草しか食べてなくて……!」
悲惨すぎる事情を、キラキラした笑顔で語るな。
龍魔呂がため息をつきかけたその時、再びドアベルが勢いよく鳴った。
「龍魔呂さんっ!」
甘ったるい、それでいてどこか凄みのある声。
月兎族の村長、キャルルだ。
動きやすいラフな格好だが、その華奢な体には、満月の夜にマッハ1で物理法則を無視した蹴りを放つ規格外の力が眠っている。
彼女は店に入るなり、一直線にカウンターへ向かい、龍魔呂の手をきゅっと握った。
「今日も会いに来ちゃいました。あ、このおしぼり、私が洗いますからね。龍魔呂さんの匂いがするものは、全部私が綺麗にしますから」
瞳孔が少し開いている。
村を守る立派な村長だが、龍魔呂に対する好意(という名の執着)だけは、どうにも隠しきれていない。
「……村長の仕事はいいのか、キャルル」
「リバロンに全部押し付け……任せてきました! それより、お腹ペコペコです。今日は何を作ってくれますか?」
キャルルはそこで、隣に座っているリーザと、彼女が持ち込んだポリ袋に気づいた。
「あれ、リーザちゃん。またそれ? 栄養偏るよ? 私のお肉、分けてあげようか?」
「だっ、大丈夫です! アイドルは施しを受けないんです! パンの耳は……その、オーガニックな大地の恵みですから!」
強がるリーザの腹が、ぐぅぅぅぅと店内に響き渡る悲鳴を上げた。
限界らしい。
「……少し待ってな」
龍魔呂は短く告げると、厨房のまな板に向かった。
愛用の包丁を手に取る。
トントントントントンッ!
ただのパンの耳を切るだけだというのに、その手捌きは異常だった。
無駄が一切ない。
急所を最短距離で切り裂く暗殺術の軌道が、そのまま調理の動作に変換されている。
ほんの数分で、フライパンにはバターと砂糖が熱され、甘く香ばしい匂いが店内に充満し始めた。
「わぁ……いい匂い……!」
「龍魔呂さんの料理姿、ずっと見てられます……」
リーザが目を輝かせ、キャルルがうっとりと頬杖をつく。
「ほらよ」
カウンターに出されたのは、ただのパンの耳ではない。
バターと焦がしキャラメルでコーティングされた、黄金色の『特製キャラメル・ラスク』。
そして、野菜の端材と鶏ガラをじっくり煮込んだ、濃厚なコンソメスープだった。
「ひゃああっ! パンの耳が、高級スイーツにっ!?」
「こっちはキャルルの分だ。月見大根と肉椎茸のステーキ定食」
「龍魔呂さん……! 私、これ食べたら、明日からもっと村の税収上げちゃいます!」
「いや、適度にしろ」
サクッ。
リーザがラスクを齧った瞬間、その目から滝のような涙が溢れ出した。
「お、おいひい……! 鳩に勝ってよかった……!」
「……喉詰まらせるなよ」
美味そうに、そして幸せそうに飯を食う二人。
龍魔呂は、グラスを拭きながらその光景を静かに見守っていた。
平和な時間だ。
銀座でマスターをしていた頃と、何も変わらない。
――だが。
「……少し、風に当たってくる」
龍魔呂は二人に背を向け、厨房の勝手口から店の裏手へと出た。
夜の冷たい空気が、彼の頬を撫でる。
懐から、マルボロの赤箱を取り出し、一本咥える。
真鍮製のオイルライターを取り出した。
カチッ。
金属が擦れ合う、硬く冷たい音が路地裏に響く。
タバコに火をつけた瞬間、龍魔呂の右手に嵌められた『鬼王の指輪』が、脈打つように赤黒い光を放った。
温厚な小料理屋のマスターの瞳から、一切の感情が消え失せる。
「……ネズミが三匹」
龍魔呂の視線の先。
ポポロ村を取り囲む暗い森の奥で、微かな殺意と鉄の匂いが漂っていた。
この村の平和を、あの店で笑う女たちの日常を、土足で踏みにじろうとする愚か者たちの匂い。
紫煙をゆっくりと吐き出す。
その横顔はすでに、死を呼ぶ処刑人【DEATH4】のそれへと変貌していた。
「――営業時間は、終わりだ」




