あんパン編 ―交渉―
「あの……、すいません」
善弥が気まずいなと思いながら女性に声をかける。が、起きる気配を見せない。
(困ったなぁ)
そのうちトラムも動きだし、善弥はほとほと困ってしまった。彼も健康な思春期の少年である。女性のつけていたコロンの香りにちょっと心拍数が上がって緊張してしまった。
「はぁ……」
どうした物か、とあんパンが入った紙袋を握りしめた善弥だったが、その時漸く肩から重みが無くなった。急に、女性が目を覚まし、開口一番
「君、その袋の中身パンですよね?」
と言ってきたのである。
(えっ?)
困惑した善弥。しかし変な声が出そうになるのを堪え、つとめて平静な表情を心がける。
「あぁ……そうだけど……」
まさかいきなりそんなことを言われるとは思わなかったが、失礼が無い程度の温度の声は出たかな、と内心安堵する。が、そこからまた更に予想外の言葉が彼女から飛び出たのである。
「ごめんなさい! 私のおにぎりと交換してください!!」
「はっ?!」
善弥は、今度こそ思いっきり戸惑った声を出していた。
「ごめんなさい、急に。でも、どうしてもパンが食べたくて……」
と、女性――ロシアからの留学生、オリガ・ルキーニシュナ・ガールシナ――がしゅん、とした様子で事情を説明してくれた。
オリガは今大学の寮で暮らしているそうだ。しかし、そこは何故かご飯の食事しか出ないという。また、作ってくれるお弁当もおにぎりとか米が入った物ばかりとの事。急にパンが食べたくなったオリガはお弁当とパンを交換してくれる人を大学で探すつもりだったそうな。
「いや、気持ちはわかるけどさ。……というかさ、よくこの紙袋の中身がパンってわかったね?」
ただの紙袋なのに、と首をかしげているとオリガは不思議そうな顔で紙袋の下の方を指さす。
「だって、《パン屋のゴロゴロ》ってここに書いてあります」
「あ、ホントだ!!」
オリガに指摘された通り、あんパンの入った紙袋には実家のパン屋の店名が記されている。死んだ母がデザインしてくれたもので、自分が生まれる前から使われているものだ。
「この、お弁当、おにぎりとおかず入っています」
オリガはトートバッグから可愛らしい風呂敷に包まれたお弁当箱を出した。一般的な女子大生が食べるサイズにはちょっと大きいだろうか?
「おにぎりと、おかず?」
思わず湧いた涎をごくり、と飲み込む。下手すると毎食パンという事もある善弥としては嬉しい申し出だ。
「申し出はとっても嬉しいけど、空になったお弁当はどうしよう? 洗って返したいけど……」
「私が、貴方の家まで取りに行きますよ」
オリガはそういって「さあ」とお弁当箱を差し出す。善弥は考えに考えた挙句……、そのお弁当箱を受け取った。
(なんか、ちょっとドキドキするな……)
可愛らしいお弁当を手に胸を高鳴らせる善弥。その隣で、オリガはさっそく紙袋からまるまるとしたあんパンを取り出し、嬉しそうに頬張っていた。
「え? お昼じゃないの??」
「うぅ~ん、美味しいぃ!!」
オリガは瑠璃色の瞳を細め、頬を赤く染めじっくり味わいながら咀嚼している。しっとりとした食感と餡子独特の甘みをしっかり楽しんでいる、らしい。
「あぁ、つぶあん初めてです! この感触、癖になりそうです!! ふわっふわのしっとり、はまりそうです!!」
「いや、オリガさん。喜んでくれるのは嬉しいけどそれランチじゃないの?」
「そ、そうでした! でも、我慢できない美味しさですよ!」
栗色の髪をふるふるさせ、実に幸せそうな顔を見せるオリガの姿は、ちょっと嬉しい。
(そりゃ親父が丹精込めて作ったあんパンだもんな)
いつかは自分もそんなパンを作りたいな、とやる気をだしている善弥の隣で、オリガは終始嬉しそうな様子であんパンを堪能していた。
「オリガさん、お昼どうするつもりなの?」
「ん……、間食用に作ってもらったおにぎりで、我慢します」
心配になった事に対し、オリガは無駄にきりっ、とした顔ではっきり答えた。善弥は「今度会ったら実家のパン屋を教えよう」と心に誓った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
次は何のパンか出るのかお楽しみに。




