9話 初モノの価値
江戸の者たちは、知りたがり話したがりだ。
彼らにとって噂話は恰好の娯楽で、人の集まる飲み屋などで『ここだけの話だけどよ』などと口にすれば、たちまち周りから注目を浴びられる。それでその日の酒にありつく者もいたほどで、記事を書き連ねた読み売りなどは誰もが関心を寄せる。
そして現在、江戸の町は〈木間屋の火事〉の話題で持ちきりで、
『仁王が江戸に降りなさった。日本橋の木間屋の火事、逃げ遅れた母子を助けに火の中へ! いざ助け、しかし自身は中に取り残されちまった! ――さあ、この先は、この読み売りを買ってくれ! お代は四文。高いってんなら他所へ行ってくんな。だけど、どこよりも詳しく書いてんのはうちだけだぜ』
事件から一週間が過ぎていてもなお。
読み売りが声を張れば、記事は飛ぶように売れてゆく。
「絵つきで六文も取るのかよお」
横川の長屋。
お鈴は新しい読み売りを手に、正面のそれと見比べる。
あまり似ていない絵・モデルのドワーフは、酒を片手に髭を撫でている。
「話題など酒と同じ。旬のときに高く売ってしまえばいい」
「こっちから情報を与える代わりに、売れた数に応じた銭を納めさせる……加藤様はよく考えたもんでえ」
それに、と読み売りの端に目をやる。
「この【賽銭一文、寄進】の文章もいいや。こんなの書かれたら、江戸っ子はやらずにいられねえや」
焼け跡から、手代と思われる遺体が発見。
人も財も失った木間屋のため、お鈴がヴィフトールに相談。同心の加藤を交え、ならばと提案されたものであった。
――江戸の者たちは、照れ屋なのが多いですからね
金を出せと言えば反発するも、代金の中に寄付金が含まれていると言えば、しょうがねえなあ、と喜んで支払う。それが“粋”であるらしい。
情報の出本が確かであれば尚更。嘘や誇張が多い読み売りも、当人の口によるものと分かるや、こぞって金を出し情報を買いつけにくる。
小さな町屋のために、どうしてそこまでするのか。
火事は当人たちの不注意ではなく“悪意”によるものだったからである。
「放火した野郎は絶対に許さねえぞ……!」
思い出したのか、お鈴は読み売りを握り潰した。
――あれは内からの火ではない
燃える建物から出てきたヴィフトールは、臥煙の紋次郎にそう話した。
台所に酒を探しに戻り、台所横にある勝手口だけがやたらと燃えてるのに気付いたのだ。
「なぜお前はそこまで火事にこだわるのだ。臥煙などの火消しがいるのだし、やくざ者の娘や目明しとしても町の区分を越えて向かうのは、職分を弁えておらぬだろう」
「そ、それは……」
お鈴は口ごもり、俯いたまま握りこぶしを作る。
「……悔しいんだ」
「悔しい?」
「仲のいい友達が、祭りの日に拐かされたんだ……。一緒にいた婆ちゃんは自分を責め、毎日、捜し歩いていたんだけど……突然、胸を押さえて倒れて……」
友の名はおみつ。お鈴と同じ年で、七歳の時に攫われた。
非がないと分かっていても、父母は祖母を許すことができず。それはそのまま、償えぬ後悔へと変わったと話す。
「それが火事場とどう関係があるのだ」
「最近、火事の混乱に乗じた拐かしが起こってんだ。祭りの日も、大きな喧嘩が起こったって聞いている。アタシはこれに関係があると思ってる。あいつはしっかり者で、絶対に知らない奴についてゆくはずがない、必ず騒ぐはずなんでえ」
必ず取り戻す。
祖母の墓の前でそう誓うも、拐かしの下手人は今も笑い続けている。
お鈴はそれが悔しい、と声を震わせた。
――おっかさんは、子供の手を放すんじゃねえぞ
火事場のはそのことだったのか。
ヴィフトールは、なるほど、と髭を撫でた。
「常態化しているのであれば、いつか尻尾を出すであろう。焦れば掴み損ねるぞ」
それはそうだけどよ、とお鈴が声を小さくしたそこに、
『――ああ、ったくよぉ』
長屋の外から、酒を買いに出ていたお鈴の父・権六の悪態が聞こえてきた。
「まったく、腹立たしいったらありゃしねえっ」
「どうした、父ちゃん?」
「どうもこうもあるかよ」
権六は上がり框に腰かけ、草履を投げ捨てる。
「あの渡利屋の野郎、今度揚がった初鰹で宴会をするんだとよ」
「え、えぇ!?」
「一両だぞ、一両。けったくそな自慢しやがって、ったく――お鈴、あいつらをしょっぴくネタはねえのか」
「う、うーん……渡利屋は真っ当な商いしてるしなあ……」
父娘のあくどい会話に、何だ、とヴィフトールは訊ねた。
「ん? ああ、初鰹だよ」
お鈴の言葉に、より分からなくなる。
「鰹って魚だ。江戸の連中は、その年初めて上がった初鰹を口にするのが何よりの自慢で、全財産をはたいてでも買いたがんだ」
「そこまで希少なものなのか」
「うんや、鰹自体はそうでも。だけど初モノは別――食えば寿命が七十五日延びるってぐらい、江戸っ子は目がないんでえ。アタシも一度でいいから、食べてみてえなあ」
涎を垂らすのはお鈴だけに限らなかった。
町屋の通りや馴染みとなった飯屋に訊ねても、どこも同じ。
旬ではない未熟なものを“走りのもの”と呼ぶ。江戸の者はせっかちゆえ、美味さよりも、『いかに早く食べたか』が大事となるらしく、旬に入れば値が暴落するなど、奇妙な現象もたびたび引き起こすのだと言う。
馴染みとなり始めた小料理屋・富田屋の店主も、これには難儀しているらしく、
『鰹のみならず。農民たちは初物だと未成熟な野菜を流すので、我々、料理人をはじめ、味の悪いものを高値で買わされることもしばしば……。ここだけの話なのですが、ご公儀がこれを見かね、律そうとしている、とも噂されています』
出荷の時期を定める。
確かにそうせねば、貧富の差が広がるばかりだとヴィフトールは思った。
そして、それと同時に頭の中で算盤を弾く。
――“ハツガツオ”とは、言わば海のミスリルか
読み売りで得られる金は、同心の加藤がまとめて木間屋へ送られることになっている。ゆえに身入りはまるでない。
ドワーフの欲が膨れ、さっそくお鈴の父・権六をあたった。
「――漁師にツテがねえかだとお?」
すぐに察したのだろう、ヴィフトールの真剣な面持ちを見るなり、くっくと肩を揺らし、やがて膝を叩いて大笑いを始めた。
「なぜ笑う。お前たちの暮らしにも拘わることだぞ」
「いや、すまんすまん。お前もお鈴も、似たもの同士だなと思ってよ。くくく……」
「なに、あれも考えたか」
「うちの手下に佐助ってやつがいてな、そいつが下田で漁をしているって聞くなり、『鰹とってこい』って言いに行こうとしやがったんだ」
鰹漁は荒海の中、十五人乗りの擢船による引き網で行われる。
一艘の小さな手こぎ船で向かおうならば、自身が鰹を太らせる餌になってしまう、と権六は話す。
「実は、お鈴には言ってなかったことがあるんだが――」
お鈴は今、放火の件で聞き込みに出かけている。
それを確かめるように戸に目を向けると、
「福蔵の野郎、どうやら相模に漁船を持ったようだ。これから相当稼ぐだろうよ」
初鰹を買うと言っていた渡利屋も、実際は福蔵一家に乗り換えた報酬に近い。
これを皮切りに、勢力はあと数年内にひっくり返ることだろう。権六の言葉はそう示唆している。
「意地張って最後まで残り、負けを見届けた時の無力さ、惨めったらしさときたら、ありゃしねえよ」
やれやれと首を振る権六の前で、ヴィフトールは顎髭を撫でながら何かを考えていた。




