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第二章 アルマ・トールキン

「ふぅ……」

 地面を掘り起こしていたスコップを置き、額に浮かんだ汗をぬぐうリーヴ。その際、リーヴはロングコートに付けられたフードをはねのけてしまう。

「っとと」

 はねのけてしまったフードを、リーヴは慌てて被りなおした。

 砂漠といえども、気温自体はそれなりで過ごしやすいのが聖道砂漠の特徴だ。しかし、土砂と大気に含まれた光塵が常に淡い光を発しているため、外出する時は必ずフードかサングラスなどで光を遮るべきだ。そうしなければ、長時間光を見続けることによって、眼球に疲労が溜まり、とてもではないが目を開くことが出来なくなる。

 それが、ここ十数年で変わったこの世界の常識だった。

「今日は……随分、風が少ないな」

 全身から汗が噴き出し、体を濡らす不快感に耐えながら、リーヴは空を仰ぎ見る。

 巻き上がった光塵によって作られた雲。その雲によって閉ざされていた青い空が、今日は久しぶりに顔を覗かせていた。

 数年前には見られなかったその光景は、聖道砂漠で暮らす人々に共通する憩いの象徴だ。

 結果的に光塵というエネルギー源をもたらしたものの、世界人口の三分の一を奪った神の降臨。その出来事が現れた神の消失によって終わった後、数年の間、光塵によって作られた雲は世界を覆っていた。

 光塵自体が微量の光と熱を補給していたため氷河期の再来にはならずにすんだが、薄暗く、人の心が乱れた暗黒時代。その時代を生き延びた多くの人々は、降り注ぐ太陽の光を暗黒時代の終わりに例えて喜んでいた。

 その感動、暗黒時代を終わらせた太陽光という自然現象に、リーヴは目を奪われる。

「…………さて……と」

 しばらくの間、日の光を存分に浴びた後、ぐっと体を反らせ、リーヴは作業に戻る。

 リーヴが今、行っていることは至極簡単なことだった。

 苗木を植える。ただそれだけのことだが、光塵によって汚染された大地に堕天獣としてではなく、ただの植物として根を生えさせるためには、特殊な手段がいる。

 砂漠の表面を覆う光塵を掘り起こし、土を露出させた後、周囲をビニールで囲わなければならないのだ。

 そうしなければ、植物は即座に周囲の光塵と反応して堕天獣となってしまう。

 苗木を植えるために、土と光塵の入り混じった土砂をスコップで掘るリーヴ。

 掘った穴がある程度の深さまで達していることを確認すると、リーヴは穴のふちをスコップで叩いた。周囲の土砂を固めることによって、穴が崩れないようにするためにだ。

 リーヴはそうして準備した穴に、ある苗木を植えた。

「はい、リーヴ」

 後ろから聞こえてきたのは、男性にしてはやや高く、女性にしてはやや低い声。その声に振り返らず、リーヴは手を突き出す。

「むっ」

 頬を膨らませて言ったかのようにくぐもった声を無視して、そのまま突き出された手に握らされたじょうろを受け取るリーヴ。

 そして、植えた木の苗に充分な水を与えてから、リーヴは振り返った。

 そこに、一人の女性がいた。

 背丈は低め。褐色の肌は自然と日に焼けたものであろう。

 勝ち気そうな顔一面に、ややひきつった笑顔を浮かばせている。

 やや茶色みがかった髪の上に、普段は髪を収めるために巻き付けている赤いバンダナを広げて光塵の光を遮っているその姿は、まるでどこかの作業員のようだった。そして、小さいわりに女性としてかなり発育している体が、窮屈そうに詰まっているのは男っぽいつなぎだ。

 上着は暑いのか腰に巻き付けており、シャツは汗で軽く湿って肌に張り付いている。

 ズボンはややぶかぶかで、足下のブーツの上で、裾が余っているのが可愛らしかった。

 その姿からは少なくとも、神の降臨から新設された学問である統一神学(とういつしんがく)を学び、世界中の神話を収拾し、新たな光塵技術を研究する神学者(しんがくしゃ)とは思えない姿だった。

「随分と酔狂な真似をするじゃない、リーヴ?」

 女性にしてはややぶっきらぼうで居丈高な口調で話すラナの仕草は、口調と同じくやけに雑で男っぽい。しかし、そうしたぶっきらぼうな仕草とは裏腹に、ラナはリヴァイアサンという精密な銃を作り上げたガンスミスでもあるのだ。

 女性として生まれ持った繊細な手つきによって保証された技術力と男性のような豪快な発想による発明能力。その二面性を併せ持つのが、神学者としてのラナが持つ特徴だった。

 その技術と頭脳には、ひねくれてあまり他人を評価しないリーヴですらも、一目を置いているほどだった。

「ま、悪くはない仕事さ。以前の、割に合わない仕事に比べればな」

 ラナの言葉にリーヴは肩をすくめ、手荒な手つきで軽く苗に土をかける。

 これで、苗木を植える作業は終わった。作業を終えたリーヴが改めてラナに向き直ると、ラナは肩をすくめて苦笑を浮かべていた。

「ああ、あの魔女だっていう女の子を保護する依頼?」

 風がないせいか、また額に噴き出してきた汗をロングコートの袖でぬぐいとりながら、リーヴはラナに頷きを返す。目の前にいるラナこそ、あの魔女の少女を保護しろという無茶な依頼を出した張本人だった。

「まだ…………眠ってるんだろ?」

 あの後、治療が終わってすぐに意識を失った魔女の少女を連れて、リーヴは堕天獣の治療方法を生み出したラナの元を訪れていた。

 魔女の少女を運び込み、ラナに治療を任せてからすでに一週間。しかし、その間ずっと魔女の少女は意識を失ったままだった。

「そう、ね。ま、十中八九、急激に体内における光塵の量が、少なくなったことによる昏睡状態よ。心配することはないわ。なにせ、あたしは天才だからね」

 自称ではあるものの、「天才」神学者であるラナはそこで言葉を句切り、愉快でたまらないと言わんばかりに喉から笑い声を漏らした。

 ラナはなぜかリーヴに対してだけは、こうした性格の悪さを見せるのだ。

「ふふ……しかし、随分とあんたらしくないじゃない。いつものひねくれた、ふてぶてしい態度はどこにいったのかしら?」

 ラナの意地の悪い表情に苛立ちを隠せず、リーヴはラナを睨みつける。しかし、リーヴを知る者なら、誰もがラナと同じことを言うだろう。

 絶対安静、面会謝絶。魔女の少女を運び込んだその日にラナからそう言われて以来、リーヴは魔女の少女と共にラナが経営する孤児院で寝泊まりしていた。その間、ラナに入院費代わりの雑用を求められたリーヴは、黙々と文句も言わずにラナから依頼される日々の雑用をやっていた。

 普段のリーヴなら、今頃はラナに魔女の少女を任せ、依頼の報酬を片手に、酒場にでも繰り出していたことだろう。娯楽など日々のちょっとした賭け事や、食事しかないこの聖道砂漠では、定期的に来るキャラバンでしか買えない新鮮な魚や肉を使った料理はごちそうだった。

 いつもの食事としては、ちょうど神の降臨以前の世界で上映されていたという、西部劇でよく見る豆の水煮をそのままスープにしたものや、普段の生活で良く汗をかくために、塩をよく使って乾燥させた保存食が主体だ。

 太陽の光がなかった昔はもっとひどいものだったが、今はそうした食べ物らしい食べ物を食べることができていた。

 だから、そうした新鮮な肉や魚を使ったごちそうを仕事終わりに食べることは、この聖道砂漠で許される数少ない娯楽の一つだったのだ。それを我慢するというのが、どれだけ苦痛なのかは、あの食べられるもの全てが、光塵で濡れ光っていた暗黒時代の食べ物を食べていた人間にしかわからないだろう。

「自分が……治療、したんだ。心配するのは当たり前だろ」

「へぇ……」

 にやにやとこれ見よがしに笑みを浮かべているラナは、恐らくリーヴの「治療」という言葉に隠された真の意味にも気付いているだろう。

「治療と言葉を偽っても、子供を撃ったのは……いくらひねくれ者と有名なリーヴ様といえども、嫌だった……っていうこと?」

 ラナに内心をずばりと言い当てられ、リーヴは苦虫を噛み潰したかのような顔で黙り込む。

「普段からどんな仕事でも、金さえもらえばやってやる……なーんて意気込んでいるっていうのに、肝心要の時が終わったら、その仕事を後味悪いなんて言っちゃって……」

 リーヴのことをいたぶるように語っているラナだが、その顔にはどこか安心の色が浮かんでいるようにリーヴには思えた。

 ラナはリーヴが、そんな人間性を保っていたことを喜んでいるのだろう。

 塵狩りの仕事として、人間の堕天獣を相手にすることは少なくはない。そうした場合、体が小さいために、光塵を受け入れられる絶対量が少ない子供の堕天獣を相手にすることが多いのだ。

 だからこそ、塵狩りは今の世界に絶対的に必要な存在でありながら、忌み嫌われ、軽蔑の視線を向けられる。

 リーヴは塵狩りとして生活することを決意した時、こうした事態に遭遇する覚悟を決めていたつもりだった。しかし、リーヴは今、いくら付き合いが長いとはいえ、ラナが手に取るようにわかるほど、動揺しているのだ。

 情けないと言わずになんと言えばいいだろう。多くの塵狩りたちが仕方のない事なのだと、覚悟を決めているというのに。

 そう、リーヴには思えて仕方なかった。

「あんたは、それでいいのよ……この駄目人間」

 けれど、それを正しいのだと言うように、そう言うラナの口元には、心からの笑みが浮かんでいた。

「……俺の事はいいんだよ。それより、お前の仕事は終わったのか?」

 それがラナのひねくれた激励なのだということにリーヴは気付いていた。けれど、自分でも深くは考えたくなかったことを話すラナに、リーヴはそう言って話題を変えようとする。

「ふふ……」

 しかし、ラナはリーヴのきつい言葉にも悪びれる様子はなく、むしろ、リーヴのそうした態度を好ましいと言わんばかりに笑い声を漏らした。

「お前、性格悪いぞ」

「あんたのひねくれっぷりよりはマシだと思っているわ」

 リーヴの憎まれ口にしょうがないなと笑うラナの微笑みが、リーヴを苛立たせる。まるで何歳も年下の弟扱いをされているような気分だった。

「ったく……はやく、さっさと、さっきした質問に答えろっての」

 ぶっきらぼうにそう言い放って、リーヴはラナの減らず口を止めようとする。

 しかし、リーヴのそうした脅しも効き目がなく、ラナはひょうひょうとした態度のまま笑っていた。仕方なく、その笑いも止めるために、リーヴはラナを軽く睨みつける。

「わかったわ、悪かったわよ。調子に乗ったことは謝るから、そう怖い顔をしないの」

 からかい過ぎたとさすがに反省したのか、ラナは謝った後、不意に真面目な顔になって一言呟いた。

「あの子の治療なら、もう終わったわ」

 その言葉に、リーヴは沈黙する。

「……そう、か」

 ただ、そう言うことだけで、精一杯だった。結果は、と問いたかった。けれど、怖くて聞けなかった。だから、リーヴはただ黙って話の続きを促す。

「うん……後は…………たまに経過を診せてくれれば、問題ないわ」

 目を細めて空気を吸い込み、口の中でゆっくりと味わうラナ。その横顔からは、確かな疲労と、仕事を終わらせたことに対する達成感が見て取れた。

「だから、もう、面会謝絶は解除するわ。会っても構わないわよ、リーヴ」

「ああ……」

 何かに祈るかのようにリーヴは頭を下げ、たまっていた息を吐き出す。

「ん、なーに? 喜ばないの?」

 にやにやと下からリーヴの顔をのぞき込み、そう聞いてくるラナの視線に、リーヴは顔を背けた。

「俺のことはいいだろ。それより、あの子の部屋は一体どこなんだ?」

 矢継ぎ早に言葉を投げつけ、リーヴは自分の顔がラナに見られないようにと気をつけた。自分が今、心底ほっとしている顔を浮かべていることに、リーヴは気づいていた。しかも、安堵のあまり、少し涙まで目に滲んできている。こんな顔を見られては、いつもの自分のイメージが危ういと、リーヴは必死でラナから顔を隠しつつ、ふと、思い出した。

 自分が、ここまで魔女の少女が無事だったことに安堵している理由。それは、治療を終えた時の魔女の少女が、まるで死んでしまったのかと思うような安らかな顔をしていたことに由来するのだろう。

 死んでいるのかもしれない。そう思わせるほどに、静かで何よりも重い雰囲気が、あの治療をするために、魔女の少女を運んだ部屋には広がっていた。

 医者、というものが、日常的に耐えているのであろうあの生と死の境目にいるというプレッシャー。あれがそうだったというのなら、それに耐えきって、無事、魔女の少女の命を救ったラナの姿は、リーヴにはとてもまぶしいものに見えた。

「二階の奥、壁際の部屋よ。離れからは一番遠い部屋に入れてあるわ」

 神学者であるラナは、離れに専用の研究室を設けていた。その研究室では頻繁に光塵を扱う研究をしていることから、その光塵が魔女の少女に与える影響を最大限配慮したのだろう。

 そうした心遣いを当たり前のように、ラナはやってのけるところがあった。

「ああ、わかったよ。それじゃ」

 おざなりに別れの挨拶を口にして、リーヴは歩き始めた。

 孤児院の中に入り、リーヴは歩き続ける。ラナが経営する孤児院は、元々この街に放置されていた豪邸を改修して作られたものであった。

 神の降臨によって、多くの人々はその神から逃げるために世界中をさまよった。聖道砂漠には、そうした神の降臨によって放置された廃墟が多数残されている。

 しかし、光塵による摩擦が起こした異常な劣化によって、ビルなどの高層住宅は全て人が住むことが出来ないほどに荒れ果てていた。そうしたビルは安全のために取り壊され、二階建ての家などはそのまま利用されている。その内の一つがラナが経営する孤児院なのだ。

 二階建ての木造建築で、一直線に伸びたこの建物は広く、庭も大きい。土地を贅沢に使ったこの豪邸。恐らく、以前は学校だったのだろう。大きかった部屋を改修し、ラナは多くの小部屋を作っていた。

 ロビーから左右に伸びる廊下を歩き、端にある扉の前に立つリーヴ。

 その扉に辿り着くまで、多くの扉があった。扉の中からは子供たちの歓声が聞こえる部屋もあれば、不気味なほどに静まりかえった扉もあった。

 いや、むしろ部屋の数を考えれば、驚くほど子供の声は少ないと言えた。

 ほとんどの部屋に、子供が預けられているのにも関わらずだ。

 研究費の捻出のため、ラナは孤児院と託児所を併設して運営していた。そこで働く人間はラナと、そして、ラナに教育された子供たちだ。年長の子供が年が若い子供をきちんと指導、引率できているのは、ラナの教育のおかげだろう。

「ふぅ……」

 広い廊下を歩き続けて疲れた体を壁にもたれかけて休ませながら、リーヴはあることを思い出していた。

 それは、魔女の少女がいた場所のことだ。

 あんな堕天獣や龍がいるところに普通の人は近寄らないし、入れもしないだろう。強力な堕天獣や龍は、自らの体内からはき出された光塵を使って、人間たちが暮らす世界とは別の次元に存在する異世界を作るからだ。

 かつて、降臨した神により近い世界へと、その身を移すためだろう。

 そうして作られた異世界に入り込むためには、光晶が必要だ。その異世界が存在する次元に到達するための門。それを作り出す必要性があるからだ。

 だから、普通の人間は光塵による汚染を恐れて、光塵や光晶を扱うことがないために、縁がない場所だった。

 けれど、そんな身近な異世界を好きこのんで移動する組織があった。とある教えを元に、人工的に堕天獣を作る集団。原罪教団(げんざいきょうだん)。その組織は光塵による汚染を神の怒りとして受け入れるべきだという教えを持っていた。

 堕天獣になる事こそ神がこの世界を生きるための術として残した慈悲であり、だからこそ、無力な子供や小動物が堕天獣になりやすいのだという教え。そして、その考えを基に原罪教団は子供の堕天獣を神の子と呼び、積極的に堕天獣を作り、利用していた。

 堕天獣の作り方は簡単だ。光塵を排出するために必要な処理をなにもしていない子供に、光塵を含んだ食べ物を摂取させるだけでいい。そうして生まれた人工的な堕天獣を使役するために使われた技術こそ、魔女の技術だ。

だからこそ、魔女の技術は禁止された。

 もちろん、この世界の治安維持組織である聖堂教会は、現在もそんなカルト思想に囚われた原罪教団に対して、厳しい取り締まりを行っている。しかし、原罪教団は堕天獣や龍が溢れる身近な異世界を、人工的に作り出した堕天獣に自分たちを守らせることによって安全に渡り歩き、聖道教会の目をかいくぐっていた。

 この世界の治安を維持するための活動をしなければならない聖道教会にとって、その外側を歩む原罪教団は目の上のたんこぶでありながらも、排除しきれない脅威の一つだ。そのため、聖道教会は都市で活動する下っ端の教団員を捕まえることはできても、そうした原罪教団の本体に対してはなにも出来ていないのが現状だった。

 リーヴは魔女の少女がそうした原罪教団の教えの被害によって、堕天獣となった人間なのではないかと疑っていた。もしそうなら、本当の家に帰りたいと、魔女の少女は望むだろう。しかし、その望みを叶えることは出来ない。

 街の外に張り巡らされた城壁だけで排除できるような程度の低い堕天獣といえども、それなりの脅威であることに間違いはないし、こと現在、堕天獣になりやすい子供はそれだけで迫害の対象だ。

 魔女の少女を元の家に帰しても、歓迎されるかすらわからない。そんな状態で魔女の少女を生かし、その理性を目覚めさせてしまったことが、どれだけ酷なことなのか。

 リーヴはそれがわかっているからこそ、一度、深呼吸をして息を整える。

 どんな罵詈雑言が待っていようとも、魔女の少女を助けたのはリーヴなのだ。その言葉を受け止めるべきなのは自分なのだという強い意志を持って、リーヴは迷わないように、一気に扉を開けた。

 日の光が差し込む小さな部屋に、魔女の少女がいた。

 ベットの上で上半身だけを起き上がらせて、窓の外を見つめている。恐らく、ラナが治療のために着替えさせたのだろう。魔女の少女は危険なほどに薄い、下着のような白いワンピースを着ていた。その薄い布のせいか、少女の健康的な体がぴんと布地を押し上げ、小さく膨らみ始めた胸や女性らしい曲線を描きはじめた体のラインをしっかりと自己主張させていた。

 生来のものだろう、金色の髪が日の光にきらめく。その姿は、まるで一枚の宗教画のように美しかった。

 魔女の少女からは、確かに今、生きている者特有の生命の輝きがあった。落ち込んでいる様子もない。

 その姿にほっとしながら、リーヴは足を進める。

 リーヴの訪れに気付いたのだろうか、魔女の少女が振り返り、こちらを見やる。はっとするほど、深く大きな瞳がこちらを見ていた。

「あなたは……」

 少しリーヴを眺めた後、魔女の少女は小首を傾げる。

「……どちらさまでしょう?」

「あ、ああ」

 ガラにもなく緊張しているなと思いながら、リーヴは少し上擦った声で答えた。

「俺の名前はリーヴ。調子は……どうだい?」

 名乗りながら、リーヴは魔女の少女をそれとなく眺める。

 治療が終わったとラナから聞いていたが、意識を取り戻しているのは予想外だった。

 もしかしたら、これはラナの手の込んだ悪戯なのかもしれないとリーヴは思う。魔女の少女が目を覚ましていたことに朝の診察でラナは気付き、そして、リーヴにはわざとそのことを伝えなかったのだろう。

 その理由が、リーヴには理解できた。

 魔女の少女が事前に意識を取り戻していることをリーヴが知っていれば、こんな簡単に、この魔女の少女がいる部屋へと続く扉を開くことができたかはわからなかった。

「リーヴさん……」

 口の中でリーヴの名前を呟いた後、魔女の少女は顔をほころばせた。

「調子は、いいですよ。心配していただいて、ありがとうごさいます」

 素直にお礼を言い、行儀良く頭を下げる魔女の少女は微笑みを浮かべていた。

 その微笑みは、少女らしい愛らしさと親しみやすさを、見る者に感じさせるものだった。

「随分と…………元気がいいな」

「はい! リーヴさん、助けてくれてありがとうございました!」

 そう元気よく答える魔女の少女からは、知らない場所で目覚めた事に対する動揺も、知らない人間であろうリーヴに対する警戒心も見受けられなかった。

「あー、えっと……君の名前は?」

 おかしい。そう魔女の少女の反応に違和感を感じながらも、リーヴは会話を進めた。

 普通、目覚めたら知らない場所で、目の前に知らない男がいたら、もっと怯えるものではないだろうか。

 だからこそ、リーヴはもっとおかしいと思うべき、魔女の少女が言った言葉の内容に気付けなかった。

「わたしの名前はアルマ。アルマ・トールキンです」

 魔女の少女、いや、アルマは胸を張ってそう答えた。

「おかあさんが付けてくれた名前なんですよ」

 そう言って、胸を張るアルマ。どうやら、記憶は残っているらしい。

 あの堕天獣の治療方法が使われたのは初めてで、何が起こるかわからなかった。

 主な危険は記憶の混濁、精神の異常など、どれも一筋縄ではいかない後遺症が残る可能性があったのだと、リーヴはラナから聞いていた。その兆候がないことに、リーヴは人知れず胸をなで下ろしながら会話を進める。

「えーっと、あー……アルマ」

 リーヴはアルマのおかしな言動を、その物怖じしない性格によるものなのだろうと判断していた。アルマの素直さは、良くも悪くもこの世界に生きる子供らしくないのだ。大人たちから幼少の頃より怯えられていることが当たり前の子供たちは、たいていの場合、大人をなめてかかり凶暴化するか、あるいは好かれるために卑屈な性格になるかのどちらかである。

 だからこそ、アルマの少女らしい朗らかさや人なつっこさは、怯えられていることを知って迫害されないように、あるいは迫害されても大丈夫なように相手へと態度を変える今の子供たちらしくなかったのである。

「はい?」

 首を傾げ、真っ直ぐにリーヴを見つめ返すアルマ。

 その視線の真っ直ぐさにどこか気圧されながらも、リーヴは咳払いを一つして、平静を取り繕う。しかし、その間もずっと、アルマの視線はリーヴを貫いていた。

 少し居心地の悪さを感じてリーヴが身じろぎすると、リーヴを見つめすぎていたと反省したのだろうか、アルマは恥ずかしそうに顔を伏せる。

「色々と、君の事について説明しなくちゃいけないことがあるんだ」

「はい」

 リーヴの言葉に対して、神妙な顔つきで頷くアルマ。

 アルマの視線からは、リーヴには覚えのない尊敬や憧れの感情が見受けられた。

 居心地が悪い。素直にそう思いながらも、リーヴはアルマに必要だと思われる説明を考え恥始める。さっきリーヴが考えていたようなアルマの今後については、まだ話すべきではないだろう。だから、リーヴはまずここに、アルマが来た経緯について話そうと思った。

「落ち着いて、聞いて欲しい」

 そう前置きして、リーヴは話し始めた。

「君は…………堕天獣だった。けれど、今、その治療を受けるために、ここにいる」

 アルマは何の驚きも示さず、ただこくんと頷いた。

 もしかしたら、リーヴの拙い説明では理解できなかったのかもしれない。何せ、神の降臨以後に発生した奇病の類ともいえる堕天獣化は普通、治療することなど出来ないと思われていた病気だ。

 アルマが自分の身に起こった出来事を理解できなくても、無理はないだろう。それならば、アルマの状態について最もわかっているだろうラナに、きちんと説明してもらうべきだとリーヴは考えた。

「だから、まずは最初に検査を受けるために……君には、君の体を治してくれている主治医に会ってもらいたい」

 からかわれた仕返しに、半ばラナへと厄介事を押しつけてしまえばいいと内心では思いながら、リーヴはアルマにそう説明する。

「主治医?」

 首を傾げるアルマに、リーヴは言い方を変える。

「あー、難しい言い方だったかな……簡単に言えばお医者さんのことだ」

 リーヴのそうした言葉の一つ一つに、アルマはこくりと頷きを返し、わからない場合は素直に質問した。そのせいか随分と話しやすく、リーヴは自分でも話下手だと思う説明でも、恥ずかしがらずに続ける事ができた。

「それで、俺が君のお医者さん、あー……ラナっていうやつのことを呼んでくるから、ここで待っててもらっていいかな?」

 アルマをこのまま放っておくと、どこに行くかわからない。なら、きちんと説明をして待っていてもらおうとリーヴは考えた。

「それは……いやです」

「え?」

 しかし、アルマはこれまでの従順な反応から一転してきっぱりと、リーヴの提案を断る。

「なぜだ? ここなら、別に襲われる心配はないぞ?」

「いえ、その……自分を治してくれる人には、自分で挨拶くらいしないと……」

 不思議そうに問い掛けるリーヴに、アルマは恥ずかしそうに微笑みながらそう言って、シーツを片付け始める。そのまま、アルマは立ち上がり、ぱんぱんとワンピースやシーツを叩いてしわを伸ばして身支度をした。

「さ、行きましょう?」

 全てが終わった後、アルマはリーヴをそう言って促した。

「あ、ああ」

 思い立ったら吉日、と言わんばかりにてきぱきと動くアルマの後を追うリーヴ。

 アルマがさっき言った言葉に、リーヴは違和感を感じていた。自分を治してくれた、アルマはそう言った。しかし、リーヴの説明だけではこれから治療してもらうということはわかっても、自分が以前から治療されていたことはわからないのではないのだろうか。

「なぁ……アルマ」

 ずんずんと前に進むアルマに、リーヴは背中から声をかける。

「はい、なんでしょうか?」

「お前…………まさか、堕天獣だった時の記憶があるのか?」

 まさかと思いながらも、リーヴはアルマが立ち止まり、こちらに振り向くのを待ってからその疑問を投げかけた。

 どちらさまでしょう、そう言われたことから、てっきりリーヴと出会った堕天獣の時の記憶はないものと思っていたが、それならば、今までの会話はどこかおかしい。

 それに自分が堕天獣であったことを知っているのなら、治療例がない堕天獣化を治療されたことに対して、疑問を抱かないのも納得がいく。

「はい」

 そんなリーヴの疑問に、アルマはいとも簡単にそう答えてみせた。

「だったら、なんで俺のことをどちらさまでしょう、なんて聞いたんだ?」

 そう聞くと、アルマは少し恥ずかしそうに顔を赤くする。

「だって……わたしはあなたの、リーヴさんの名前を知りませんでしたから」

 そういえば確かに、リーヴはアルマを治療したあの日、あの場所で自分の名前を名乗ってはいなかった。しかし、それほどまで詳細に、堕天獣だった時の記憶をアルマは覚えているのだろうか。

「そ、それよりも……早く、お医者さまのところに行きましょう?」

「あ、ああ」

 そんな疑問が脳裏に浮かんでリーヴが黙りこんでいると、アルマがそう声をかけてきた。

 アルマの言葉に従って、二人は歩き出す。迷いなく歩くアルマの姿から、リーヴはまるでこの建物の構造、そしてラナの居場所を、アルマが知っているかのようだと思っていた。

 だが、そんなことがあるはずもない。

 ロビーに出ると、アルマはぴたりと立ち止まってリーヴの方へと向き直る。

「その……お医者さまは、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

 頬を軽く赤らめながら、恥ずかしそうにそう言うアルマの姿に、リーヴは内心呆れるしかなかった。

「知らないのに突き進んでいたのか……」

 どうやら子供らしい無鉄砲な行動力をも、アルマは持ち合わせているらしい。

 考えなしに行動したことを恥ずかしがって顔を伏せているアルマとすれ違い、リーヴは前へと出る。

「はぁ……ついてきな」

 頭を抱えながら、今度はリーヴが先行し始めた。

「っとと、その前に」

 不意に足を止めるリーヴ。そのまま、リーヴは自分が着ていたロングコートを脱ぐと、アルマに突き出した。

「はい?」

 首を傾げて不思議そうにコートを見つめるアルマに、リーヴは目を隠すように顔へ手を置いて、話しかける。

「…………薄着が過ぎるぞ」

「へ?……きゃあ!」

 リーヴの言葉で、ようやく自分が外を出歩くには、随分と危険な格好をしていたことに気付いたらしい。

 アルマが顔を赤くしてうずくまる。

「恨めしそうに俺を見るな。とりあえず、これを着とけ。後で適当な服を用意させるから」

「は、はい……」

 胸元を隠しながら、リーヴの手からロングコートを受け取るアルマ。

 後ろを振り返り、ロングコートを着ようとするが、大き過ぎてうまくいかないようだ。余った裾と長すぎる丈が、まるでローブのように地面を擦っていた。

「ははっ、まるでほんとに魔女みたいだな……じゃ、行くぞ」

 ちんちくりんなアルマの姿に笑いを漏らしつつ、リーヴは歩き出した。

 後ろからはずりずりと、コートを引きずる音がついてくる。

「あ、あの……」

「別に……コートのことなら気にしなくていいぞ?」

 コートが床を擦り、汚れることをアルマは気にしたのだろうとリーヴは先にそう言った。

「え、あ、はい! その……ありがとうございます……」

 どうやら、リーヴの予想は当たったらしい。

 一言お礼を言った後、アルマはようやく落ち着いて、あたりを見渡したようだった。

「あの、ここはなんて街なんですか?」

 アルマの質問は、リーヴが当然聞かれるものだろうと思っていた質問だった。

 だからこそ、すらすらとリーヴはアルマの質問に答える。

「ここはラトリア、分類としては開拓都市になるかな」

「開拓都市?」

 前を見据えながら答えるリーヴに、おっかなびっくりとした様子で質問するアルマ。

「洗礼都市と違って、聖道教会の連中がいない都市さ」

 開拓都市とは聖道教会の保護下にない都市であり、聖道教会の保護を受けている都市のことは洗礼都市と呼ばれる。

 開拓都市は塵狩りたちによって見つけられた都市で人が住み、発展してはいるものの治安が悪い。対して、洗礼都市は聖道教会が開拓都市を保護したものだ。街を守るために派遣された神父と呼ばれる人物がいるのが特徴で、開拓都市と比べると発展はしていないが、街並みは綺麗で治安がいいために住みやすい。

 その違いは、聖道教会が治安を維持するための活動として、光塵技術の一部を否定していることが原因だった。

 光塵技術の中には未だ、人に対する影響について研究されていないものも存在する。

 洗礼都市に、そうした技術は導入されていないのだ。だが、リーヴ個人の好みとしてはそうした聖道教会に縛られている洗礼都市よりも、雑多で活気のある開拓都市の方が好きだった。

 また、その成り立ちを鑑みれば当然のことだが、リーヴたちのような塵狩りや神学者が主に活動するのは開拓都市の方である。

「そうなんですか……」

 こくこくと頷くアルマ。しかし、その素直さにリーヴは違和感を抱く。普通、こんなにも人の言うことを素直に聞き入れることが出来るだろうかと、リーヴはひねくれた自分との違いに肩をすくめながら疑問に思う。

「しかし、そんなことも知らないなんて……実は洗礼都市のお嬢様だったりするのか?」

「はい?」

 リーヴは半ば冗談のつもりで、疑問をそのままアルマにへと尋ねてみせる。しかし、リーヴに返されたのは、言われた言葉の意味もわからないと首を傾げるアルマの反応だった。

「だから、洗礼都市に住んでいたのかってこと。自分の事だから、わかるだろ?」

「あ、いえ……その……わからないです」

「はぁ?」

 唖然とするリーヴに、アルマは衝撃の告白をした。

「わたしの記憶は、あの森の中から始まるんです」

 リーヴは、アルマの言葉に押し黙る。

「だから、リーヴさんがわたしを助けてくれようとしてくれたことをわたしは知ってます」

 唖然とするリーヴに、アルマは淡々と語りかける。

「けれど、それ以前のことは、なにもわからないんです……」

 そう言って、アルマは頭を振る。

 アルマがリーヴに対して、警戒心を抱いていなかった理由がこれなのだろうか。

 リーヴが、アルマを助けようとしたことを知っていること。それが、アルマにリーヴを信じさせているのだろうか。

 だとするならば、それはとても歪んだ信頼のようにリーヴには思えた。

 鳥が生まれてすぐ目にしたものを親だと思い込むインプリティングのような、無垢な信頼。それを感じ取って、リーヴは何か気後れするものを感じていた。

「俺がお前を助けたのは……そういう依頼があったからだ」

 だから、リーヴはアルマの信頼を突き放すつもりでそう言った。

「感謝するんだったら、ラナにしてくれ……俺にするんじゃあない」

 アルマのその無垢な視線から、リーヴは逃げ出したかった。

「それでも……」

 しかし、逃げられない。アルマの視線は、どこまでも真っ直ぐだった。

 リーヴのごまかしなど利かないと、そう感じさせるほどに。

「わたしは、あなたに助けられました……ありがとう、ございます」

 頭を下げるアルマに、リーヴは背中を向けた。

「話は、それだけか?」

 アルマの考えは見当違いだ。リーヴは自分がそんな風に尊敬されるような人間ではないことを、死にたくなるほどわかっている。

「なら、早く行くぞ」

 リーヴの背中から、アルマはこれ以上会話をしたくないというリーヴの意志に気付いてくれたらしい。

 押し黙ったまま、ずりずりとロングコートを擦らせる音がリーヴの後に続く。

「…………ここだ」

 結局、離れに作られたラナの研究室に辿り着くまで、二人の間に会話はなかった。

「はい……ありがとうございました」

 落ち込んだ様子で、リーヴが示した扉を開けようとするアルマ。

 なにか声をかけるべきだろうと、リーヴは思う。しかし、なんと声をかけるべきなのか、今のリーヴにはわからなかった。

 アルマが、研究室の扉を開く。

 その瞬間、開いた扉の影から、閃光が漏れ出すのをリーヴは見た。

「くそっ!」

 慌ててアルマを抱きかかえ、リーヴは廊下の方向へと跳ぶ。

「きゃあ!」

 悲鳴を上げるアルマ。

 しかし、その悲鳴は閃光に遅れて発生した爆発によって、かき消された。

「あの野郎……またやりやがったな……」

 煤にまみれてぼやくリーヴは、この爆発の原因に心当たりがあった。

 ラナだ。ラナが専門的に研究しているのは、光塵技術を兵器として活用するための方法だ。光塵の研究としては、二番目に盛んな分野である。

 もちろん、一番目は生活に使うためのものだが、堕天獣という身近な脅威に対抗するための力を研究するラナの研究分野は、注目度も、利益をあげる確率も高いことから統一神学でも人気の高い分野だった。

「い、一体、なにがあったんです?」

 そう言って、リーヴの服を掴むアルマ。しかし、そんなアルマにリーヴは手をかざして、アルマが離れるように無言のまま指示を出す。

 不安げな顔をするアルマを慰めたかったが、しかし、リーヴには気になることがあった。

「悪いが、知り合いが実験をして、失敗したみたいだ。様子を見てくるから、少し待っててくれないか」

 リーヴ自身は、ラナがこの程度の失敗でどうにかなるような人間ではないと確信を抱いている。しかし、こんな爆発が起こっている以上、安全を確認するべきだろう。

「わ、わたしも……!」

 アルマの言葉にリーヴは首を振り、提案を断る。リーヴが単身なら対処できる危険でも、アルマを連れていけばどうなるかはわからない。

 その危険性を看過することは、リーヴにはできなかった。

「危ないかもしれないからな。先に、俺が安全を確かめてくる」

 なおもリーヴに付いてこようとするアルマに、リーヴは淡々とそう言って、アルマを突き放した。

「危険はないと思うが……俺が安全かどうかを確かめてから、アルマは部屋に入ってくれ」

 アルマの目が潤み、リーヴを心配そうに見つめていた。その目と似た瞳を、リーヴは覚えていた。置き去りにされた捨て猫のような目。そんなアルマを安心させるために、リーヴはアルマに声を掛ける。

「心配しなくていい……大丈夫だから。男ってやつは、いつだって女性が傷つけられないために体を張るのが仕事だろ?」

 その心当たりを思い出さないようにしながら、リーヴはアルマに軽口を叩き、一応の警戒としてリヴァイアサンを引き抜く。

 もう片方の手でドアノブを握り、リーヴはドアを押し開けた。研究室の中にはかつて実験用の機材だったと思われるフラスコなどのガラス片などが散乱し、悲惨な有り様だった。爆発によって発生した粉塵が満ち、視界を遮っている。

 そんな粉塵の中を、なにか小さな影が動いた。小動物のように見える小さな影。光塵の実験に反応し、生まれた堕天獣である可能性があった。

 だからこそ、リーヴは警戒を強め、物音に気を配る。視界が著しく遮られた状態で、視力に頼るのは危険だと言えた。そのため、少しでも早く物音に対応するために、耳をそばだてるのが一番いい対処法だろうとリーヴは判断する。

 今度は、瓦礫が崩れる物音。部屋に響くその轟音の発生源はラナなのだろうか。しかし、瓦礫が崩れる音だけで物事を判断する能力など、リーヴにはなかった。

 ことここに至って、非常事態が起こっている可能性を感じ取って、リーヴはもう片方のリヴァイアサンを引き抜き、影が飛んだ方向と瓦礫が崩れる音が聞こえた方向にも銃を向ける。

 リーヴが警戒しながら歩くと、再び、わずかな物音が聞こえた。

 咄嗟にリーヴは銃口をそちらに向ける。しかし、その物音の反対方向から、何かが飛び出してきた。

「木の、枝?」

 飛び出してきたものは、木の枝だった。まるで槍のようなそれが、粉塵を貫いたのだ。

 強烈なデジャブが、リーヴを襲う。リーヴはその木の枝を避け、じっと粉塵の奥を見た。その視界の端で光塵の光が見えたことで、リーヴは今ここで何が起こっているかを理解する。

「動くな!」

 リーヴは叫び、周囲を見渡した。

「リーヴなの? 悪いけど、力を貸して!」

 聞き覚えのあるラナの声が、部屋の中に響く。

 しかし、もう一人、いやもう一匹と言うべき堕天獣の声は聞こえなかった。

「シー、こいつは敵じゃない! さっさと出てこい!」

 リーヴの叫びにも、答えはない。ただ、リーヴの目の前に木の枝がのびてきた。

「やめろって言ってるだろ!」

 リヴァイアサンで、木の根を叩き落とすリーヴ。しかしその時、リーヴは妙な手応えを感じ取った。木の枝が折れる瞬間、妙に抵抗が増したのだ。

 折れた木の根が、リヴァイアサンにからみついていた。

「小僧か……」

 ぶんと風切り音と共に、粉塵が巨大な木の枝になぎ払われる。

「娘はどこじゃ」

 その木の根が生えてきた先で、妖精のような姿の少女が浮かんでいた。

 妖精としか言い表せない手の平大の大きさで、その小さな背中からは、透明な羽が生えている。その羽は今、小さな体を浮かすためにせわしなく動きまわっていた。

「シー……か?」

「憎たらしい小僧に名を覚えられているとは……不愉快じゃのう」

 鋭い視線でリーヴを見るのは、かつて龍だった堕天獣、シーだった。

 彼女がここにいる理由を、リーヴは知っていた。リーヴがこの孤児院に植えていた苗木。それは、リーヴへ娘を預けることに不安を感じたシーが、自らの本体である大樹から枝分けした苗木の一つだった

 その苗木を本体に作り出した新しい堕天獣としての体は、大樹を本体に作り出されたエルフと似通ってはいた。だがしかし、それだけにベースとなった顔と体型も変わっておらず、着ている服も同じであるために、サイズの違いは、強烈な違和感をリーヴに感じさせていた。

「さて……光塵の量を頼りに、この部屋に入ってきたのじゃが……娘はどこじゃ?」

 シーの威圧感は確かに、彼女が龍だった時より遙かに少なくなっていた。

「お前、馬鹿だろ……」

 だから、リーヴはいつもの軽口を、特に緊張することもなく繰り出すことができた。

「なんじゃと?」

 いきなり馬鹿と言われ、さすがに頭に来たのか、リーヴを見るシーの目が険しくなる。

「元々、堕天獣化の治療をしたんだから、娘さんであるアルマの体内に流れる光塵の量は、変わってて当たり前だ。それで、どうやって光塵の量を目安にアルマと会うつもりなんだ?」

 リーヴの指摘に自らが犯した失敗に気付いて、シーは愕然としていた。

「むぅ……」

 リーヴの言葉の正しさに、自分でも納得してしまったのであろうシーは不満そうにうなり、リーヴのことを睨みつけてくる。どうやら妖精のような姿になったことで精神年齢が下がったのか、シーの行動はエルフのような姿をしていた時よりも、どこか子供っぽいものだった。

「あの……」

 ぎぃと爆発によって歪んだドアが軋んで、音を立てる。

 リーヴがドアの方を見やると、そこにはおっかなびっくりとした様子で、歪なドアを開いているアルマの姿があった。

「あ、ああ……」

 アルマの姿を見るなり、とても嬉しそうな様子で空を飛ぶシー。

「娘よ、無事だったのじゃな? 怪我はないか? なにか悪いことはされなかったか?」

「あ、あれ……おかあさんが……小さくなってる?」

 かつて自分を育ててくれたシーが小さくなっていることに目を白黒とさせて、アルマは驚いているようだった。

「ああ……光塵で意志を伝えあうことは出来たが、こうして……言葉で母と呼ばれるのも、悪くない気分じゃのう……」

しかし、そんなアルマを尻目に、シーはそんな感慨にふけっているようだった。

 不意にシーはアルマの肩に乗って、ぎゅっとその顔に抱きつく。そんなシーに対して、アルマはくすぐったそうに笑っていた。

 彼女たちがたとえ種族、血族という意味では親子ではないと知っていても、確かにその姿には親子の絆があるようにリーヴには見えた。

 その様子を眺めながら、リーヴはこの研究室にいるだろうラナを探す。

 しかし、全く見当たらない。

「おいおい……あいつ、どこにいったんだ?」

 どうやってラナの姿を探すべきか、リーヴが頭を悩ませていると、丁度最後にシーが木の根でなぎ払った方向から物音がした。

「まったく……やってくれるわね……」

 声の方向から瓦礫をかきわれて、ラナが出てくる。どうやらシーが最後に行った攻撃によって、瓦礫に飲み込まれていたらしい。プルプルと怒りに震えるその手には、黒光りするリボルバーが握られていた。

 まず一番に目に入る黒いフレームが特徴的だが、ラナの握るリボルバーはそのでかさでも印象的だった。口径もまた堕天獣を相手取るためだろうか、かなり大きい。

 そんな長大な拳銃を片手で構えるラナ。その姿からは、銃身と口径から想定される銃の反動に備えている様子はまったくない。

 おそらく、リヴァイアサンと同じように光塵を使った銃なのだろう。それならば、反動に備える必要もない。守られるべき女性や子供でも、持ち上げることさえできれば片手で扱える。それが銃のいいところだと、ラナはかつて語っていたことをリーヴは思い出す。

「やめろ、ラナ!」

 慌ててラナが持つリボルバーの弾倉を握り、その銃身をラナの手からもぎ取るリーヴ。

「なにをしているかわかってるの、リーヴ? あれは、このあたしに危害を加えたのよ?」

 顔だけなら冷静に見えるラナの瞳が、怒りに燃えていた。

 自分に危害を加えたこともさることながら、なによりも、実験器具の多くが壊されてしまったことに怒りを感じているのだろう。周囲にバラまかれた瓦礫の中には、高いガラス製のフラスコやルーペなどがあることを見て、ラナの瞳に燃える怒りの炎が大きくなったのをリーヴは見てしまった。

 その実験器具は、それこそ爪に火を灯すようにして、研究に必要な資金をやりくりして、ラナが買い集めた高価な品だ。それを買うためにどれだけラナが苦労したのか、それをリーヴは知っている。だからこそ、ラナの中に渦巻く怒りの炎がどれだけのものなのか、想像することができた。

「悪い……けど、駄目だ」

「なぜ……リーヴ!」

 答えによってはただじゃおかないと目で訴えてくるラナに、リーヴは肩をすくめて言った。

「あれは……龍だ。今は弱くなっているとはいえ、あのシーっていう堕天獣は…………元々は龍で…………とどのつまり、龍の子だったアルマにとって母親とも言える存在なんだ。そう言えば、わかるだろ?」

 母。その言葉を聞いて、ラナが少しつらそうな顔を浮かべる。ラナの家庭環境は、この若さで孤児院を経営しているということからも窺い知れるように、複雑なものだった。

 龍。この世界で自然が意志を持った存在とも言われるその脅威に対して、一部の人類が行った行為は、とても野蛮で原始的なものであった。人柱。つまり、龍と交渉するに当たってその「子」となる生命体、あるいは単純に光塵を捧げたのだ。

 その犠牲のやり玉に挙がったのが、ラナの妹であったらしい。

 もちろん、ラナの父親も、母親も、ラナの妹を差し出すことをよしとはしなかった。けれど当時は、暗黒時代と呼ばれた太陽の光すらない時代。堕天獣に対する明確な対抗策すらなかった当時の人々にとって、村の決定に逆らい、安全な村から放り出されることは死を意味していた。

 だから、最終的にラナの両親はラナの妹を差し出すことを承諾するしかなかった。

 それが、今のラナにどんな影響を与えているかについては、リーヴがもつ二つの銃につけられた名前からも窺い知ることができる。

 リヴァイアサン。リーヴが持つ銃。光塵を扱うことによって、子供でも扱えるような低反動の銃。古来よりリヴァイアサンは世界の終末にて、人間たちに食べ物として供される怪物と言われている。

 この世界の終末。

 神の降臨以後、人類は神に、自然に頭を下げて生きている。その究極が、ラナの体験した人柱のような悪しき風習だ。

 その終わりとはどんなものか。ラナはかつて、それを尋ねたリーヴにこう言った。

 どのような人であっても、堕天獣や龍といった神の降臨以後に発生した脅威に対応できるような世界。人と自然と神が、交渉することによって互いの利益を願い、共に生きることができる世界。

 その世界を作るためには、今、人には力が足りない。だから、ラナはその力を作るために、その力で庇護されるべき子供たちを自らの身で守りながら、研究を行っている。

 そんなラナが血縁ではないとはいえ、アルマとシーの二人の間で結ばれた親子の絆を絶つことが出来る訳もなかった。

 リーヴの説明を聞いて、ラナは無言のままにため息をはいた後、リーヴに手を差し出す。

 差し出されたラナの手にリボルバーを乗せると、ラナはまるで西部劇に出てくるカウボーイのように、くるくると銃身を回転させながら、腰の裏、ズボンに吊るしたホルスターに銃をしまった。

 どうやら、冷静に話をする準備が出来たようだと思ったリーヴは、肩に入っていた力を人知れず抜く。

「……つまり、あれが例の龍ってわけ?」

 リーヴの視線の先でラナの目が、怒りに燃える瞳から、研究対象を見る冷たい瞳へと変わる。ラナの口元には、先程までよりもずっと角度を増した笑みが浮かんでいた。その笑みを見て、リーヴは頭を抱えるしかなかった。

 ラナは冷静に話をする準備が出来ているようだが、その話し合いが穏当に終わるかどうか、神ならぬリーヴには判断することが出来なかった。

「なら、丁度いいわね……」

 ぼそりとつぶやくラナ。なにがちょうどいいのか、とリーヴは耳を澄ませて、ラナの呟きを聞こうとする。

「…………このあたしが作った銃が、龍にも通用するのかどうか。あれで実験すればいいじゃない」

 耳を澄ませたことで聞こえてきた黒い呟きに、うっと思わず身を退くリーヴの視界の端で、シーがアルマを庇うように前へと進んだのが見えた。

「あれ、とは随分な言い草じゃのう……小娘」

 龍、いや堕天獣特有の超感覚で、ラナの呟きを聞き取っていたのだろう。シーは龍の時にも見せた、あの腕を前に突き出す姿勢で構え、啖呵を切る。

「わしや娘に手を出すというのなら……容赦はせぬぞ?」

 にこりと微笑むシーの羽から落ちた光塵が地面に触れると、そこから新しく小さな木が生えた。どうやら龍の時と同じくその木々を操って戦うつもりらしいが、生えた木は今のシーと同じく、小さいものだ。

 リーヴが内心これではとても戦えないだろうと思っていると、光塵がシーの体から落ちる度に生えた木々が急激に成長し、ひとりでに動いてラナを牽制した。

「おいおい……」

 シーの喧嘩っ早さにリーヴは呆れるものの、そんなシーの反応に、ラナは予想以上に気分を害したらしい。

「……力で脅すつもり? 獣らしい…………野蛮な考え方ね」

 ラナはシーを嘲笑うかのようにふっと息を吐き出すと、リボルバーを構えなおした。

「堕天獣程度の恫喝におとなしく怯えて従うほど、あたしも…………あたしの銃も弱くはないわよ?」

「なんだってお前らは、いきなりそんな喧嘩腰なんだよ……!」

 リーヴがそうぼやいてみても、二人は臨戦態勢を崩さない。そんな二人の緊張が、ぴりぴりとした空気を作る。

「…………ったく」

 溜め息をはき出しながら、そんな二人を止めるために、リーヴは声を張り上げようとした。だが、その前に動いた人間がいた。その人間はこの張り詰めた空気の中で、毅然と二人に抗議する。

「二人とも、やめてください! 喧嘩なんて…………本当に良くないことなんですよ!」

 物怖じしない性格からか、シーが操る木々やラナの握るリボルバーにすら怯えず、そう声を張り上げるアルマ。

「じゃが、娘よ……これは娘を守るために……」

 そんなアルマの姿に、シーはたじたじになって、言い訳を口にしようとする。

「そんな風に、人を傷つけるおかあさんなんて……嫌いです!」

 そんなシーに首を振り、怒った顔を浮かべるアルマ。

 その効果は、絶大だった。

「あ、ああ……娘よ。そんなことは言わないでほしいのじゃ……」

 半ば泣き崩れ、動揺しながらもアルマの周りを飛び回り、許しを求めるシー。

「すまぬ、すまなかったのじゃ。謝る、謝るから! じゃから、どうか許してくれぬか?」

「じゃあ、おかあさん。喧嘩、やめる?」

 そんなシーに、アルマは小首を傾げて、問い掛ける。

「やめる、やめるのじゃ! だから、嫌いなんて言葉、後生じゃから言わんでおくれ」

 アルマの問い掛けに慌てて答えるシーの姿には、仮にも人間に代わって地上を支配していると言われる龍の姿とはとても思えなかった。そんなシーの姿を見て、リーヴは半笑いで呆れるしかない。それはどうやら、ラナも同じ気持ちだったらしい。どこか白けたような様子で、その巨大な拳銃をラナは持て余しているようだった。

「その銃、納めてやってもいいんじゃないのか? ラナ」

「え、ええ……そう、ね」

 くるくると回転させながら、拳銃を腰に吊るしたホルスターに再び差し込むラナ。

 呆然としていたラナは、頭痛がすると言わんばかりに頭を抱え始めた。

「あれが、あたしが目の敵にしていた龍の姿なの……?」

 光塵技術を研究するラナにとって、龍とはいつか倒さなければならない目標であり、敵でもあったということをリーヴは知っていた。そんな龍がこんな親馬鹿であることに、ラナは落胆しているのかもしれない。そんなラナに、リーヴが言えることは一つだけだった。

「現実を認めろ。いつもお前自身が言ってることだろうが」

「ええ、そうね。まったく、今日は機材が壊れるわ、長年の目標がこんなものだと思い知らされるわ……まったく、本当に厄日ね……」

 ラナは溜め息を吐き出しながら、瓦礫が乗る机の上を腕で払って、椅子に座る。

 どこか痛んでいたのか、ラナが乗ると椅子は甲高い悲鳴を上げた。

「……はぁ。とりあえず、そこの可燃ゴミ量産型の堕天獣。それに…………アルマちゃん、はこっちに来なさい」

 椅子が怖い音を立てたことに、少し乙女のプライドが刺激されたのか顔を赤らめた後、きちんと椅子が自分を支えられるか中腰になって確認するラナ。そして、強度が十分だと確認できて安心したのか、今度はしっかりとラナは腰を落として座る。

 それら全ての動作が終わってからラナはそう言って、二人を呼び寄せた。

 その間、リーヴは何も言わずに、その様子を顔をそらして見ないようにしていたが、音と衣擦れの音から動きが予想できてしまった。

 その予想を終えて、視界を元の位置に戻すと、そこにはラナの三白眼がこちらを見やっていた。見ていない、と諸手を挙げて降伏するかのように、両手を掲げて首を振ると、それでも不埒なことを考えていたのでしょう、というラナの視線がリーヴを貫いた。

「小娘。貴様、口の利き方に気をつけるのじゃな」

 長年の付き合いだからこそ出来るリーヴとラナのアイコンタクトによる意志の疎通を遮ったのは、シーの言葉だった。考えてみればその言葉の通り、シーにとってラナは自分の曾孫よりもさらに年の若い小娘だ。そんなシーからすれば、年長に対する敬意のないラナの指示に、龍としてのプライドを刺激されるのは当たり前のことだった。

 だからこそ、そんなプライドの高い龍であったシーの反発を読んでいたラナは、余裕をもってシーに反論する。

「じゃあ、栄養足らずに寸足らず、おまけに頭も足りないとないない尽くしのそこの堕天獣さま、こっちに、来ていただける?」

 その証拠がこの毒舌の切れ味だ。口調だけは丁寧に、ラナは嫌味を口にする。

「この、小娘!」

 そんなラナの挑発に激高するシー。しかし、そんなシーを再び止めたのはアルマの声だった。

「喧嘩……ダメだって言ったよね?」

「ぐぬぬ……」

 アルマの言葉を聞いて、ラナは歯がみしながらも、必死に怒りを我慢する。

「あんたは…………あんたみたいな獣に、ふさわしい知性しか持ってないみたいね」

 アルマの願いを聞いて、ラナの言葉に反撃出来ないシー。そんなシーを見て、ここぞとばかりに追い打ちを加えるラナ。

 そんなラナの意地悪さに、リーヴは苦笑するしかなかった。

「誇り高き龍を前によくそんな口をきけるものじゃな、小娘? ま、下等生物の頭では所詮、喰らうものと喰らわれるものという違いも理解できんと見える」

 今度は何度もアルマに止められたことを気にしてか、手をあげずに言葉でラナに反撃をするシー。しかし、普段から学会などで弁舌を競う神学者であるラナに、口論で挑むのは無謀というものだろう。

「ふーん、状況が理解できていないのは、一体どちらなのかしらね?」

「なんじゃと?」

 ラナの言葉に反応して、その顔を睨みつけるシー。そんなシーに対して、あくまでラナは余裕の態度を崩さない。それは、自分のテリトリーに勝負をもちこめた事に対する余裕がそうさせるのだろう。肩をすくめ、余裕の笑みすらラナは浮かべている。

 それを見て、リーヴは思う。詰み、だと。

「あんたが、そこの女の子」

 顎をしゃくり、アルマの方を示すラナ。シーはラナが、アルマに対してぞんざいな扱いをしたことに怒りを感じているようだった。

 露骨に顔をゆがめてけっとやさぐれるシーを見て、リーヴは苦笑する。

「わたしの名前はアルマ……ですよ。そこの女の子、じゃありません。アルマ・トールキン。それがわたしの……おかあさんがつけてくれた、自慢の名前なんです」

 だが、アルマの自己紹介に、自分の名前が出たことで、しかめっ面を途端に笑顔へと変えるシー。ここまで顔色だけで感情を判断できるのも珍しいだろうと、リーヴは端から見て、そう思った。

「……あんたが、アルマちゃんの母親だっていうなら、あたしはあんたの娘を救った恩人ということになる」

 シーの緩んだ顔を見て、ラナはあきれ顔を浮かべながら、そう言った。

「どういうことじゃ?」

 目の前に居る気に食わない小娘に、アルマや自分が恩を持つのだろうかと記憶を漁り、シーは顔を険しくする。

「つまり、俺にあの依頼をしたのも、堕天獣の治療方法を生み出したのも……こいつだってことだよ」

 これ以上話を脱線させるわけにもいかないと、リーヴが口を出す。案の定、シーを言いくるめられてご機嫌だったラナから、痛いほどの視線を浴びせられる。しかし、リーヴは口を閉じなかった。

「あんまり、からかってやるなよ……大人げない。それより、俺たちはさっさとこれからについて、話し合うべきだ……そうだろう?」

 アルマをどうするべきか、それが問題だった。そのことに気付いたのだろう、ラナもようやく冷静になったのか、痛いくらいにリーヴへと注いでいた視線を前に戻す。

 ラナの敵意に反応して殺気立っていたシーも、ラナがそうして態度を改めたことからひとまず落ち着きを取り戻していた。

 ようやく話をする準備が整うと、リーヴは顎でラナに発言を促した。

 正直な所、リーヴが受けた依頼は、アルマを救出することだけだった。その後のことについては、リーヴはラナから、なにも聞かされていなかったのだ。

 だから、ラナがなぜアルマを助けたのか、まずはそれを聞く必要性があった。

 当然のように、ラナはその事に気付いていたのだろう。顎に手を置き、ラナは考えながらもリーヴへと口を開く。

「そんなことを言っても、ね……あたしがアルマちゃんを助けたのは、魔女の技術を解明するため、というのがこちらの偽りのない本音よ」

「お前……!」

 淡々と口に出したラナの目的に、リーヴは戦慄する。

 ラナが口にしたその言葉は、聖道教会に喧嘩を売るようなものだ。聖道教会は魔女の技術に対して、弾圧という方法をとっている。

 もともと塵狩りや神学者など一部の光塵を扱う人々に対しても、否定的な意見を持っていた聖道教会。その過去があるからこそ、リーヴやラナのような塵狩りと神学者たちは基本は開拓都市に住んでいる。

 聖道教会から追い立てられた塵狩りや神学者たち。彼らが開拓したからこそ、聖道教会が関わらない都市のことを開拓都市と人々は呼ぶのだ。都市を開拓した塵狩りたちと神学者たちはその技術を用いて、光塵技術を開発し、聖道教会と取引を行った。

 その成果として、聖道教会は塵狩りと神学者に対する弾圧を緩めた。

 しかし、ラナが口にした魔女の技術に対してだけは、聖道教会の人間は依然として弾圧を緩めてはいない。なぜなら、魔女の技術は原罪教団に繋がる技術だからだ。

 その技術を研究するということは、聖道教会と塵狩り、神学者たちがようやく作り出した均衡を崩しかねないものだった。

「わかっているわよ、リーヴ。あんたが思うとおり、それはようやく出来たこの均衡を崩しかねない」

 そんなリーヴの不安を肯定し、頷くラナ。

「だったら……!」

 そんなラナに当然、リーヴは声を張り上げて、どういうつもりなのかと問いかける。

「けど、あたしたち神学者が持つ既存の技術では……魔女のように、堕天獣を手懐けることが出来ない」

ラナの言う通り、今の神学者たちは魔女の技術を再現することは出来なかった。その事実を、リーヴは知っていた。

 堕天獣は元となった生物がどれだけ人間に懐いていたとしても、その動物が堕天獣になった瞬間、人を襲う。

 神学者たちは堕天獣になるという急激な変化によって、脳も変化していることがその理由ではないかと考えた。しかし、それならばなぜ、魔女の技術だけが、堕天獣を手懐けることが出来るのか。その違いはいったいなにから来るのか。

 それは、今でも謎だった。そして、それを解き明かすことはこの世界での禁忌、と言い換えてもいいほどの危険な代物であった。

「ん……?」

 もしかして、とリーヴの中で魔女の技術に関わる話を思い出して、なにかが閃く。

 もしかしたら、アルマの記憶喪失の原因はそこにあるのではないだろうか。

 そんな思いつきにリーヴが囚われている間にも、ラナは言葉を続けようとしていた。ひとまず、リーヴはその思いつきについて考えるのを止め、ラナの話を聞く。

「あたしとしてはなぜ、今の技術で堕天獣たちを操れないのかを知りたい。魔女たちは、どうやって、堕天獣を手懐けていたのか。今やっていることと、魔女たちがやっていたことの違いを知りたいのよ」

 ラナはぐっと拳を握って、力強く言葉を吐き出す。

「その違いがなんなのか。それを知れば、未だ謎の多い堕天獣の性質を一つ、解き明かすことが出来るかもしれない。それだけでも十分、価値があるわ。危険な知識の秘匿はするべきだと思うけど、それは民間の人間に対してだけよ。研究者が知らない性質があれば、それは事故のもとだわ」

 光塵は、まだまだわかっていないことが多い未知の物質だ。その性質の一つがわかるだけでも、光塵の研究はまた一歩先へと進む。なぜなら、その性質を手がかりに別の性質を研究することが出来るからだ。だからこそ、ラナはアルマから魔女の技術を解明しようとしているのだろう。

 呆れた知識欲だとリーヴは思う。けれど、ラナの知識欲は全て、この世界を生きる子供たちを守ろうとしてのものだとリーヴは知っている。

 そんな人間でなければ、こんな時代に孤児院など経営しないだろう。

「だから、儂の娘を助けたのか」

 そんなラナの内心を知らないシーは、冷たい視線と言葉をラナへと向けていた。

「打算のない人助けなんて…………今の世の中、あると思う?」

 シーの言葉とずいぶんと険しい視線に、これまた当たり前のようにラナはそう答えた。素直ではない。ラナの態度を見て、そう思いながらも、リーヴはラナの言葉を訂正しようとは思わなかった。

「いや、貴様のような人間ならば……それが普通なのじゃろうな。行くぞ、娘よ」

 ラナの答えにそう返事を返して、シーはアルマの肩へと飛ぶ。

「え? あ、あの……」

「おい」

 アルマを促してこの部屋から出ようとするシーに、リーヴは声をかける。

「…………娘を助けてくれた小僧には感謝しておるが、娘をこんな信用のできない小娘に渡すわけにはいかんのじゃ」

 リーヴの呼び止める声にスパッとそう答えてそのまま、シーはアルマに退室を促す。

「悪いんだけど、待ってくれない? せめて、治療費代わりにあたしの疑問に答えて。それだけでもいいの、お願いよ」

「やめろ、ラナ」

 アルマを呼び止めようとするラナに、リーヴはそう言い含めた。

 眉をひそめるラナに、リーヴは肩をすくめる。

「アルマは……記憶を失っている。お前の疑問に答えることは出来ない」

「なに、それ……どういうこと?」

 予想外だという驚きがにじみ出ているラナの表情に、リーヴは困り果てる。

「どういうことだって言われてもなあ……」

 実際、アルマから聞いた話では。記憶を失っているということだけしかリーヴはわからないのである。そう考えれば、アルマ自身に自分の感じている症状を説明させるのが一番だろう。そう思ってリーヴは、アルマのほうへと視線を向ける。

 すると、シーが心底驚いた表情でリーヴを見つめていた。

「小僧……貴様の言うことは、本当なのじゃな?」

「ん……ああ。こんなことで嘘つく理由はないだろ。というか疑うのなら、アルマ自身に直接聞いてみればいい」

 リーヴの言葉に、シーは神妙な顔で、アルマへと視線を合わせる。

「……あの小僧が言うことは本当なのかの? 娘よ」

「え……あ……」

 この場にいる全員の視線を浴びて、アルマは体を固くする。

「本当ならば、それはそれで対処しなくてはならない事態じゃ。具体的には、そこの藪医者に責任を取ってもらう方向での」

 シーはそれこそ獣が牙をむきだしにするように笑い、目を細める。しかし、そんなシーの殺気を、ラナはけろりとした顔で受け流していた。

「あたしの治療法を使うかどうかは、きちんとリーヴが確認をとったはずよね? 責めるのなら、なにか後遺症が残る可能性を話さなかったリーヴに言いなさい」

「はぁ?」

 いきなり自分に責任があることになってしまったことに驚きながら、リーヴは抗議の視線をラナへと向ける。

 しかし、ラナはそんな視線などどこ吹く風と言わんばかりの様子で、ただじっとアルマを見つめていた。その視線には、明確なアルマに対する心配が浮かんでいる。

 ふと、リーヴは先ほどから押し黙っているアルマの様子を、ラナの視線を辿ることで、見ることとなる。リーヴの視線に気付かず、アルマは口をパクパクさせて、急に集まった視線に怯え、なにをどう話せばいいのかわからないという有り様だった。アルマの視線がにらみ合っているラナとシーを見ていることに気付いて、リーヴは口を開く。

「はぁ、わかった、わかったよ……ラナ。そういうことにしといてやるから……とりあえず二人とも、アルマの話を聞いてやれよ」

 半ば吐き捨てるようにそう呟いて、リーヴは話の矛先をアルマに向ける。

「アルマ。そういう訳だから、安心して二人に事情を説明してやってくれないか?」

「え、あ……はい!」

 さっきまで体を固くしていたとは思えないほどの笑顔で、アルマはリーヴに頷きを返す。恐らく、リーヴが話を進めるために気を遣ったことに気付いているのだろう。どうやらアルマは善良で素直なだけではなく、頭も良いらしいと、リーヴは内心舌を巻くような気持ちで感心していた。

「私が覚えているのは、おかあさんが私のことを娘と呼んでくれたこと。それと、あの森で暮らしていた日々……それに」

 ここでアルマは口をつぐみ、静かに赤らんだ顔でリーヴの方へと視線を向ける。リーヴが、アルマを助けた時のことを、話していいか迷っているのだろう。リーヴがそのことを話されるのを嫌がっていたのを覚えていて、目でこちらを伺うアルマの気遣い。その心遣いは生来のものだろう。そんなアルマの気遣いに、リーヴは肩をすくめ、話の続きを促した。

「それに……リーヴさんがわたしを助けてくれたこと、です……」

 赤らめた顔をそのままに、手でほおを押さえながら、そう言うアルマ。そんなアルマの姿になにか嫌な予感を感じたのか、シーがじーっとリーヴの方へと視線を向ける。

 その視線に、リーヴは肩をすくめるしかなかった。

「と……とにかく、あの森に居た時の記憶しか、今のわたしにはないんです」

 アルマが説明を締めくくると、シーはリーヴから視線を外して、アルマに近寄った。

「なんじゃ……それならば、なんの問題もない」

 シーはそう言ってアルマの肩に止まり、そっとその頬に体を預けるようにして寄り添う。

「え?」

 突然、寄りかかられて困惑するアルマ。しかし、そんなアルマにシーは語りかける。

「娘よ。記憶について、詳しいことはわからん。けれど、儂は……娘が儂との日々を覚えていてくれさえすれば、構わんのじゃ」

 心の底から安心したのか、にっこりと微笑むシー。

「どんなことがあったって、娘は娘じゃ。アルマ。儂は、娘を守る。じゃから、娘はなにも、心配することはないのじゃ」

 シーの考え方。それも一つの考え方ではあるだろう。しかし、元々、堕天獣から回復した人間などいなかったことから、アルマの体の中で何が起こったのか、今の統一神学では何もわからないのだ。

 そのことを考えれば、それなりの検査を受けさせるべきだろう。

「あんたはそれでいいのかもしれないけど…………記憶を失うなんてことが起きた以上、アルマちゃんの体になにが起きたのか…………調査する必要性があるわ」

 リーヴがそのことを口に出そうとした瞬間、同じことを考えていたのだろうラナが口出しをする。

「それに……やっぱり不安です……」

 ラナの言葉に頷いて、不安からか、自分の体を抱きしめるアルマ。そんな姿を見て、シーは自分が軽率なことを言ってしまったことに、気付いたのだろう。しまったという顔をした後、シーはアルマの頬に抱きつくようにして、その体に体温を分け与える。

 だが、この件について、リーヴはある予想を立てていた。

さっきの閃き。それを、リーヴは口に出す。

「ラナ……この記憶喪失、あの魔女の技術を再現しようとした時の話と似ていないか?」

「ん……」

 顎に手を当てて、考え込むラナ。

 魔女の技術を再現しようとした神学者の仮説。堕天獣は体の変化に適用するために、脳も変化するという可能性。その仮説通りなら、アルマの記憶が失われている理由にも説明がつかないだろうか。

 そんなリーヴの考えに、気付かないラナではなかった。少しの間、ラナはリーヴの言葉を検証した後、口を開く。

「……リーヴの考えで、アルマちゃんの記憶喪失に説明がつくとしても、アルマちゃんの記憶がなぜあの森で始まっているのか…………その疑問が残るわね」

 ラナの疑問にも、リーヴはすぐに答えを見つけることが出来た。

「それについては……アルマが堕天獣になったのが、あの森の中だったからじゃないか?」

「街の中じゃなくて? 人っ子一人いないあんな場所を好きこのんで行く人間なんて……」

 ラナの言葉通り、そんな場所に好きこのんで近づく人間は限られている。

「まさか……」

 そのことに気付いて、ラナが目の色を変える。

「ねぇ、そこの頭が可哀想な……可燃ゴミ量産型堕天獣?」

「前に言われた時にも思ったが……それは儂のことかのう?」

「あんた以外にだれがいるってのよ。それより、アルマちゃんがあんたと出会った時、周りに誰かいなかった?」

 もし、リーヴやラナの予想が正しいのなら、アルマ一人であんな場所にいたはずがない。誰か、別の人間がいたはずだ。

「そのような無礼な口を利く小娘に、答える事などないのじゃ!」

 そう言って、答えようとしないシーに、ラナは意地悪そうに笑いながらこう言った。

「あんたの大切な娘のことよ? もしかして、大切な娘との出会いも覚えていないの?」

「ぐぬっ……」

 ラナにしては安っぽい挑発だった。

 しかし、親馬鹿のシーに対しては効果があったらしい。

「おかあさん……答えてあげて?」

 シーの泣き所であるアルマのお願いが利いたのか、シーは渋々と答え始める。

「周りに人がいたかどうかは…………覚えておらん。何人かは居た気がするがの。じゃが、大量の光塵を含んだものが数匹いたのは儂の感覚で覚えておる」

 龍特有の感性からか、シーが覚えているのは、光塵を大量に体の中に潜めた存在のことだけだったらしい。恐らく、シーの言う大量に光塵を含んだ存在というのは、原罪教団の人間が連れ歩くと言われている堕天獣だろう。

「娘が儂の近くを通りかかった時…………儂の呼吸によって流れ出る光塵に反応したのじゃろうな。娘が堕天獣となったことに気付いて、あたりの連中は慌てて逃げておったわ」

 堕天獣の呼吸から漏れ出す光塵。ましてやそれが龍のものであったのなら、堕天獣になりかけていたアルマを完璧に堕天獣化させるには充分だろう。

 しかし、その情報でリーヴとラナの予測は確信へと変わった。

「原罪教団……!」

 ラナは苦虫を噛みしめたかのように顔をしかめて、歯がみする。

 人がすき好んで歩こうとしない場所を歩く組織、そして堕天獣を連れていたこと。そのことから考えると、アルマを連れていたのは原罪教団であった可能性が高い。それはつまり、アルマが誘拐され、原罪教団によって人為的に堕天獣となった子供だと言うことだった。

 苦い気持ちが、リーヴとラナの胸の中に湧きあがる。

「……困ったものね」

 腕を組み、考え込みながらラナはシーを見ていた。

「なんじゃ?」

 シーはラナの視線を浴びて、気味悪そうに身をよじる。シーの娘であるアルマも、声にこそ出さなかったものの、ラナの発言に疑問を感じて首を傾げていた。

「あたしとしては……アルマちゃんの治療が成功したのなら、あたしの孤児院で生活してもらうつもりだった」

「その必要はなかったな。儂もいることじゃし……不安はなかろう?」

 自分の言葉に噛みつくシーに、ラナは首を振る。

「あんたが社会的に見て適切な行動がとれるかどうかは疑問に思うところでしょうけど……今の状況を考えると、それも悪くなかったかもね」

 シーは自分の発言をラナが、素直に肯定するとは思っていなかったらしい。

 肩すかしをくらったかのように、目を白黒とさせる。

「……ふん、ようやく儂の偉大さがわかったようじゃの」

 平静を取り戻し、そう胸を張るシーに、ラナは冷たい言葉を吐き捨てた。

「でも、今はそうするのは難しいわね」

「……なんじゃと?」

 ラナは面食らうシーを置いて立ち上がると、アルマの前に立った。アルマの肩に手を置きながら、ラナはしゃがんで目線を合わせる。

「アルマちゃん。あなたに一つ、決断してもらいたいことがあるの」

 そう言って、ラナはじっとアルマを見つめていた。

 その視線を受けて、アルマは戸惑っているようだった。

「もちろん、嫌なら嫌と言ってもらって構わないわ。あなた自身が、選択して欲しいの」

「……はい」

 ラナの言うことに戸惑っていたアルマはしかし、少しだけ考えると、すぐに覚悟を決めたようにこくりと頷いた。アルマの決断力や意志の強さは、思考や理性が衰える堕天獣の時にも発揮された折り紙付きのものだ。

 その勇気は、アルマの本質なのだろう。困難な状況であっても、たった一つの答えを選択することが出来る強さ。

 まったく、リーヴはそうアルマの姿を見て、呆れと同質量の感動を覚える。

 この時世では珍しい素直な性格と、それに裏打ちされた行動力と決断力。そんな自分にはないアルマの強さに、リーヴは尊敬すら抱いていた。

 そんな思いから、アルマを見ていたリーヴはしかし、次の瞬間、ラナの発言に耳を疑うこととなる。

「あなたには、リーヴの家で暮らしてもらおうと思うんだけど……どうかしら?」

「え…………ええええええええ!」

 驚きに思わず、叫び声をあげるアルマ。

「…………って、おい! いきなりなにを言ってるんだ、お前は!」

 叫んだ後、真っ赤な顔を両手で抱えて膝を折り、丸くなるアルマを放っておいて、リーヴはラナへと詰め寄る。

 リーヴの予想では、アルマはラナと共に孤児院で生活するものだと思っていたのだ。

「儂も小娘の考えについて、ゆっくりと話を聞かせてもらいたいものじゃがのう……」

 怒りをこらえているのか、静かに頭を抑えて唸るシー。そんなシーとリーヴを前にして、ラナは悪戯が成功した悪ガキのような満面の笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。

「ちょっと考えれば…………わかることよ?」

 その言葉を皮切りに、ラナの演説が始まった。今にして思えば、もうこの時点でラナの作戦にハメられていたのだろう。

 さっきラナとシーの口論を見てリーヴが思っていたように、ラナにとってこうした弁論は得意中の得意。ラナの土俵なのだと、リーヴも知っていたことだからだ。

「まず、そこの堕天獣が提案した案。これは論外」

「なんじゃと!」

 憤慨するシー。しかし、そんなシーの様子に目もくれず、ラナは説明を続ける。

「なぜなら、アルマちゃんは原罪教団にも狙われている可能性が高いから……堕天獣を連れた子供なんて人目を引く組み合わせ、奴らが気付かないわけがない」

 ラナの言葉にすかさず、シーが反論する。

「そんな連中、儂の龍としての力をもってすれば、簡単に倒せるじゃろう? それに一体なんの問題がある?」

「あんたは確かに龍だったわ。けど、今のあんたはどうなの? 枝分けされて、本体に大量に蓄えられていた光塵を使うことの出来ない今のあんたに、龍と言われるだけの力がある?」

「ぐ……」

 図星をつかれたのか、呻きを漏らすシー。

「おかあさん……」

 そんなシーを心配してアルマが声をかける。しかし、それは逆効果だったようだ。

「じゃ、じゃが……そのような奴ら、聖道教会の連中と比べれば……」

 アルマに心配をかけまいと意地を張り、強がりを口にするシー。しかし、そんなシーにラナは冷静に反論する。

「あんたは自分と同じ堕天獣を何体も相手にできる? それに、もし仮にそれが出来たとしても、その騒ぎで聖道教会の連中に目を付けられたら意味がないわ」

シーが反論できずに口をつぐむと、ラナは話を進めた。

「第二の案、それはあたしの孤児院で生活してもらうということ」

 その言葉に今度はリーヴが強く頷いて、その案を肯定する。

「そうだ、そうすればいい。なんで、わざわざ俺が子供の面倒を見なくちゃ……」

 そう言い募るリーヴはふと、視線を感じて下を見る。するとその視線の先で、アルマが涙ぐんでいた。

「わたしは……邪魔ですか?」

 その言葉に思わず、リーヴは罪悪感を抱いてしまう。

「い、いや……邪魔とは言ってないが……」

 アルマの涙によって、慌てて言い訳するリーヴの姿に、ラナが笑いながら声をかける。

「盛り上がっているところ悪いんだけど、少しは自分の頭で考えなさいな。リーヴ。孤児院で預かるのに問題があるからこそ、あんたに預けるなんて無茶な提案をしたのでしょう?」

「無茶な提案って……」

 どれだけ自分は信用がないんだと呆れるリーヴに、ラナは冷たい視線を浴びせかける。

「あたしの孤児院はその名前通り、多くの子供を預かっているわ。そんな中、アルマちゃんを預かるだけならまだしも、一緒に付いてくるだろうこの可燃ゴミ量産型堕天獣がいたら、町の連中はどう思うかしら? あたしは街の連中を悪戯に刺激するつもりはないわ」

 ラナの言葉に、リーヴは沈黙するしかなかった。確かにラナの言うとおり、元々、子供を預かる施設など、街ではつまはじきにされるのが普通だ。

 それは、子供が堕天獣になりやすいことから考えれば、当たり前の事だった。そんな中に本物の堕天獣がいれば、その危険性は計り知れないだろう。最悪、ついに孤児院に預けられていた子供が堕天獣になったのかと疑いをかけられ、街から追い出される危険性もあるのだ。

 その危険性を、確かに見過ごすわけにはいかない。

「そして、あたしが言ったリーヴに預けるという案。これなら、二つの案の問題点を解決することが出来るわ」

「どういうことじゃ?」

 ラナの言葉に、シーは問い掛けを投げる。しかし、その目は爛々と光り、何か問題があればすぐに噛みついてやろうというシーの気持ちが透けて見えた。

「まず、そこの堕天獣に預けた場合の問題点、原罪教団に誘拐される可能性…………これは単純に、護衛の数が増えることで解決できる」

 堕天獣であるシーと塵狩りであるリーヴの二人が護衛につけば、確かにアルマが誘拐される可能性は限りなく少なくなることだろう。

「このような小僧に頼ることなど……」

 心底嫌そうに口を出すシー。

「頼らざるを得ない状況だからこそ、あんたはアルマちゃんをリーヴに預けたんでしょう? 今更、何を言ってんの」

「それは…………そうじゃが…………」

 小僧と呼ぶような人間に頼ってしまったことが屈辱なのか、シーはそう言いながらふて腐れているようだった。

「おかあさん……」

 そんなシーに、アルマが声をかける。

「なんじゃ、娘よ。どうかしたのか?」

 途端に優しそうな顔を浮かべるシー。その変わり身の早さに、リーヴは呆れを通り越して感心すら抱いてしまった。

「リーヴさんは、いい人だよ? だから、大丈夫だと思う」

 そう言ってアルマがにこりと微笑むのを、シーはじっと見つめていた。

「え、えっと……おかあさん?」

 その視線におずおずと声を上げるアルマ。その目の前で、シーがぶつぶつと声を出す。

「気に入らん……気にいらんのじゃ」

 ふつふつと湧きあがる感情を抑えているのか、シーの口から漏れた言葉はやけに抑揚のないものだった。

「え?」

 心配そうにシーの顔を見るアルマ。そんなアルマの前で、ついにシーが爆発する。

「なーーーーーーーんで、儂じゃなくてそんなにあの小僧を信頼するのじゃ! あれか、あの小僧に助けられたことで、なにか娘の心の中で淡い気持ちが芽生えたとでもいうのか!?」

「え……え?」

 親馬鹿らしいシーの狂乱っぷりに唖然とするアルマ。その顔が、ほんのりと赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。

 リーヴは頭痛がする頭を抑えながら、ラナに言葉をかける。 

「俺は護衛の仕事なんて…………塵狩りになってからやったことがないんだぞ。そんな俺に、アルマを任せるっていうのか?」

 そんなリーヴの言葉に、アルマとシーの様子を見ながら笑っているラナは答える。

「なんだったら、別に依頼だと思ってくれて構わないわよ。それなりの費用は出すわ」

「俺が言っているのは、そんなことじゃなくてだな……」

呆れやらなにやら、頭の中で色々な感情が湧きあがって、頭痛がする。

 リーヴとしては正直、今すぐにでも家に帰って眠ってしまいたいような気持ちだった。

「あの堕天獣のことなら、エレメンタルの一つだって話にしてしまえばいいわよ。木々を植えて育てるためのエレメンタル」

 ラナが言うエレメンタルというのは、光塵技術の一つで、光塵が命や意志を持つのなら、その名を付けることで、その行動を縛れないかという東方の式神や真名と言った風習から生まれた技術だった。

 その技術は、成功した。密閉した空間で名をつけ、その名を呼びながら媒介となる光晶に光塵を与えることによって擬似的な生命を作り出す。

 この生命こそが精霊──エレメンタルと呼ばれる存在だ。精霊と堕天獣の違いは血や肉、体を持つ生命であるかどうかだ。

 光晶を核にして作られた擬似的な生命体であるエレメンタルはその性質上、光塵を使い切るとその姿を元の光晶に戻す。彼らについて驚くべき事実があるとするならば、それは名前の元となった存在に強く影響を受けることだろう。

 たとえば火の精霊として有名な名前であるサラマンダーという名前のエレメンタルが作られた場合、そのエレメンタルはサラマンダーとして振る舞うに足る火を操る能力を持つ。

 その事実が判明した後、様々な土木工事を行うためにノーム、治水や水道の整備を行うためにウンディーネといった様々なエレメンタルが使役されるようになった。

 もちろん、この技術は洗礼都市では認められていない。魔女の技術に似通った技術であり、その危険性がどれだけのものなのか未知数の技術だからだ。

「木々を育てるため、子供を育てるために英語では女性の代名詞であるシーという名前をつけたエレメンタル。ほら、こう説明すれば……道楽だって普通の人には思われるでしょうけど、塵狩りの奇行なんて珍しくもないから今回の疑惑の対策には充分でしょう?」

 確かにラナの言う通り、塵狩りの多くには真っ当な人間だと言える人物が少ないことは事実だ。聖道砂漠の外で犯罪を犯した者など、何らかの事情がある人間以外に塵狩りのなり手は少ないからだ。

 その理由は、堕天獣と戦う危険が大きいのもあるが、必要に駆られれば、元々は人類に該当するはずだった堕天獣と戦うことになるからだろう。誰もが好きこのんで、元々人間だった面影を残す堕天獣を狩ることが出来るなら、神の降臨以後の世界はもっと刹那的で、修羅が生きるような世界になっていたはずだ。

 けれど、塵狩りは忌み嫌われるが、今の世界では必要不可欠な仕事だ。

 高潔な精神でその修羅場に向かう人間もいないわけではない。しかし、大抵の場合において誰もしたがらない仕事を人にさせるには、何らかの餌がいる。その餌として、塵狩りたちの奇行や、過去に犯した犯罪などは見逃される傾向にあった。

 有り体に言ってしまえば、塵狩りとして活動している限り、特赦が行われるという訳だ。その根底に、元人間の化け物と躊躇なく戦える危険な人物に関わりたくないという意志があるにしても、今回の場合は実に都合がいい。

 そのことを考えれば、リーヴがシーを連れ歩くことによる実害は少ないだろう。

「それに…………アルマちゃんからしてみれば……あんたと生活することは悪くないことなんじゃない?」

 にやにやと笑いながらそう言うラナを、リーヴは苦々しい気持ちで見つめていた。

 リーヴがアルマの裏表のない好意をどう扱えばいいのかわからないで困っているのを、ラナは楽しんでいるのだ。

「悪趣味だな……お前は……」

「あんたのひねくれ具合よりは、まともな精神をもっていると思っているわ」

 思わずぼやきを漏らすリーヴに、神学者として容赦のない弁舌で反論するラナ。あっと口を開き、言い過ぎたという顔をするラナにリーヴは肩をすくめる。結局、口論でラナに勝つことは難しい。改めてその事を痛感しながらかぶりを振って、リーヴは覚悟を決めた。

「それなら、具体的に報酬を決めさせてもらおうか?」

 せめて一矢報いようと、少しでも高額な報酬をふっかけようと話を振るリーヴ。

「もう払っているわよ」

 しかし、そんなリーヴの気合いは、ラナの気のない返事によって空回りした。

「は?」

 適当なことを言ってはぐらかし、リーヴに払われるべき正当な報酬をちょろまかすつもりだろうかとリーヴが眉をひそめると、ラナはリーヴの腰を指さした。

「そのリヴァイアサン。この依頼を請け負ってくれるのなら、モニターとしてじゃなく、正式にあんたの物として扱ってくれてかまわないわ」

「……なっ」

 法外な報酬に、リーヴは絶句する。

 ラナが作る堕天獣用の武器は誰にも取り扱えるように銃器が基本となっている。しかし、普通の銃は本来、あまり堕天獣に対して有効ではない。

 なぜなら堕天獣は例外なく、光塵による回復能力をもっているからだ。

 銃弾によって作られた小さな銃創など簡単に治す堕天獣を相手にするには、刃物など出来るだけ大きい傷を作る武器の方が適している。だが、そんな堕天獣を相手にする武器の中でも、ラナが作る銃だけは特別だった。なぜなら、ラナが作る銃は、光塵とその塊である光晶を用いた専用の弾丸を使っているからだ。

 その弾丸が堕天獣の傷口を治す光塵の働きに反発して、さらに高いダメージを与えることが出来る。そして、その弾丸を使うには専用の銃がいる。その銃を作れるのは、現状ではラナだけだった。だから、ラナの銃は高いのだ。ラナが作る銃が世界でたった一つ、その人物のために作られたオーダーメイドでもあることが、高額化のさらなる要因でもあった。

 人一人を守る護衛、その代金としては、あまりに破格のものだった。

「本当に、それでいいのか?」

 だからこそ、リーヴはそう声に出して、ラナに聞いてみた。しかし、その質問に対して、ラナはすげなく一つの答えを出すだけだった。

「もともと、そのリヴァイアサンはあんたのために作ったものよ。それを、ほかの人間に渡してどうするっていうのよ」

 ラナはこうした高価な銃を作りながらも、その銃を子供たちに預けるといって渡している。この世界において、子供たちの多くが危険にさらされているのを少しでも助けようと、ラナは日々研究をしているからだ。

「預けるっていうんなら、いつか返さないとな」

「整備もしないものぐさな人間なら、その頃にはもうぼろぼろよ。ゴミを押しつけるつもりなの? 整備くらいならしてあげるから、そっちで世話になった金を返しなさい」

 そう言って、ラナは子供なら一生かかっても払えないような高額な銃を子供たちに使わせている。

「ふん……」

 ラナはいつも通りの台詞を、リーヴにわざと言わされたことに気付いて頭を振る。

「アルマちゃん、それにシーとかいう可燃ゴミ量産型堕天獣。親馬鹿な喧嘩はやめにして、そろそろ答えてくれない?」

 これ以上、リーヴと話を続けているとらしくないことを言わされると思ったのか、そう言ってラナは話をアルマとシーの方へと向ける。

 その後ろ姿に、リーヴは苦笑を浮かべた。

 ラナとリーヴが話している間、ずっと、シーをなだめていたのだろうアルマはこちらを向いて、力強く頷いた。

「わたしとしては……迷惑じゃないのなら、是非お願いしたいです」

 気の弱そうなところがあるアルマにしては、随分と珍しい力強い肯定だった。

 しかし、それがシーを刺激してしまう。

「娘よ……」

 泣きそうな目でアルマを見るシーは突如としてきっと目を吊り上げると、リーヴを睨みつけた。

「娘に手を出したら、じわじわと嬲り殺してくれるのじゃ……」

 ぼそっとはき出されたシーの呟きは実に恨みのこもった、背筋が凍る代物だった。

「ふざけろっての……」

 ぼそりと呟いたつもりのシーの言葉にリーヴもまた呟きを返し、アルマと向き合う。

「ま、よろしく頼む」

「あ、はい……」

 顔を赤らめて、俯くアルマ。そんなアルマの明け透けな好意に、リーヴは内心どうすればいいのかと頭を抱えた。

「どうかしたんですか?」

 しかし、当の本人はそうした好意を自分が見せていることに気付いていないのか、内心たじろいでしまったリーヴを心配そうにしている。

「いや、なんでもない……」

 そうぼそりと言葉を返すことしか、リーヴには出来なかった。

「ま、とりあえず二人とついでに一匹の親交を深めるために、歓迎会ってのはどう?」

 ラナの明るい声が、研究室の中に響き渡る。

「些か引っかかる言い方じゃの……」

 一匹、という単語に反応して、シーがうんざりとした顔で文句を言う。その文句を聞きながら、ラナは明るい表情を浮かべた。

「ふふん……今のあたしは、機嫌がいいから喧嘩は買わないわよ……ま、この歓迎会っていうのは、孤児院に子供たちが入ったらいつもやっていることでね」

 アルマの好意にたじろぐリーヴをみて、随分とご機嫌なラナ。しかし、そんなラナの姿は、リーヴにとって気持ちのいいものではなかった。

「だったら、歓迎会なんてものやらなくていいだろ。アルマを預かるのは、俺なんだから」

 だからこそ、リーヴの口からは不機嫌な声が漏れる。

「えっ……」

 そんなリーヴの声に、ショックを受けたかのように、アルマが声を漏らした。

 思わず視線を下げ、アルマと視線をあわせるリーヴ。けれど、リーヴの身長で立ったまま、アルマに視線を合わせるということは、自然と見下ろすということになってしまう。

「はうっ……」

 その目線の違いが威圧的なものに映ったのか、アルマは珍妙な声を漏らして、ぷるぷると震え始めた。

「お、おいおい……俺は脅かすつもりなんてなくて、だな……」

「こ、ぞ、うーーーーーーーー! 娘を怯えさせるとは、なにをしているのじゃ!」

 アルマを怯えさせてしまったことに、おどおどとした態度を取るしかなかったリーヴに突き刺さったのはシーの飛び蹴りだった。その飛び蹴りは、背中から生えた羽を震わせて飛び上がり、斜め四十五度の角度から勢いを増して落下することによって、シーの軽い体重だけでは到底為し得なっただろう破壊力を生み出した。

 そのあまりの威力に、十倍は体重差のあるリーヴをよろけさせたのだ。

「おま……こめかみを……正確に狙いやがっ、て! 殺す気か!」

 もちろん、その威力を余さず伝えた場所が、人体の急所とも言える場所であったことも、その偉業を成し遂げた要因であっただろう。

「ふん、娘を怖がらせたことを思えば、それくらいで済んで良かったと考えるのじゃな」

「どんだけ親馬鹿なんだよ、おまえは!」

 思わず叫んでしまうリーヴにむしろ、それが誇らしいと言わんばかりに胸を張るシー。

「いや、親ばかってほめ言葉じゃないからな!」

 リーヴのツッコミは親馬鹿という言葉を褒め言葉と感じるシーの前では、むなしく空を切るだけであった。

「ま、そこの可燃ゴミ量産型堕天獣がただの親馬鹿に変わったのは放っておいて…………アルマちゃんみたいに露骨なのは珍しいけど、子供はパーティーが好きよ? 一度、口に出してしまった以上、やるべきだわ。期待に応えるためにもね」

「はぅ……」

 自分が歓迎会を期待していることが周りにわかってしまって恥ずかしいのか、アルマが俯いて身じろぎをする。

「娘がしたいのなら、儂が反対する理由はないのじゃが……」

 もったいぶった言い方で、シーがアルマの様子をうかがう。

「そもそも、歓迎会というのはなにをすればいいのじゃ?」

 もともと堕天獣であるシーからしてみれば、歓迎会など見たこともなければ聞いたこともないのだろう。そのことに気付いたのか、拙い口調でアルマが説明を始める。

「えっと……おいしいものを一緒に食べたり……色んなお遊戯をしたり……」

 アルマの口調からは、抑えきれない歓迎会の期待にうわずっていた。

「部屋の飾り付けをして騒いだり、ね」

 アルマの拙い説明に。言葉を付け加えるラナ。

「小娘には聞いておらんのじゃ!」

 ラナのお節介な一言に噛みつくシー。

 だが、そんなシーの言葉にもラナは反応せず、鼻で笑って返した。

「んふっ……内心楽しみにしてるのがわかるあんたにすごまれても、怖くはないわね」

 ラナの言葉通り、シーの唇には、隠しきれない歓迎会への期待が見えていた。ラナの視線が自分の口に向いていることに気付いて、はっとにやけた口元を手で隠すシー。

「はぁ……」

 そんな三人を見ながら、リーヴは溜め息を吐き出した。ここまで楽しみにしている三人を前にして、歓迎会をしたくないと言うのも野暮だろう。

「ま、あたしも手伝うから、そう面倒くさがらずともいいわよ。リーヴ」

「……ははっ」

 リーヴの溜め息を見咎めて、そう声をかけるラナに、リーヴは元々お前が言い出したことだろうという意味を込めて、乾いた笑いを浮かべてみせる。

「段取りは任せてもらうわね?」

 しかし、そんなリーヴの抗議は簡単に流されてしまった。今度は思わずといった形で漏らしてしまったリーヴの溜め息も気にも止めず、ラナは周囲を見渡して指示を出す。

「言った通り、孤児院に新しい子供が入ったとき、いつもやっていることだからね。慣れているあたしが仕切るべきだわ」

「俺は別に構わない……」

「お願いします!」

 面倒くさがりながら賛成するリーヴに、積極的に賛成するアルマ。

「貴様が面倒を買って出る? なぁーにか嫌な予感がするのう……」

 そんな二人とは違い、シーはやはりラナに噛みついていた。

「賛成二の反対一だから、張り切って仕切らせてもらうわよ」

 三者三様の返事をひとまとめにして、ラナはにやにやと笑う。

「おい、小娘!」

 リーヴに続き、シーの抗議は黙殺される。

「料理はあたしに任せて。その間に飾り付けもやっちゃいましょう。場所は、リーヴの自宅でいいわよね?」

「別に構わないが、俺の家は汚れているぞ」

 こうして仕切るのが楽しいのか、笑顔で指示を出すラナにリーヴは苦笑する。この場にいる人物の中で、もしかしたら、最もパーティーを楽しみにしているのはラナなのではないだろうか。そんな思いがリーヴの脳裏に浮かぶほど、ラナの浮かれようはすさまじい。

「それなら、片付けもしておくわ。けど、それだとあたし一人では手に負えないかもしれないから……誰かに協力をお願いしようかな……」

 うーんとうなりながら、腕を組むラナ。

「なら、アルマちゃんとリーヴは買い出しに。そこの可燃ゴミ量産型堕天獣にはあたしと一緒に飾り付けを手伝ってもらおうかしら」

「な…………なぜ儂が娘と離れなければならないのじゃ! 小娘、貴様が危険だと言っていたのじゃろう!」

「原罪教団の連中がそんなに早くここに辿り着いている訳がないでしょう? だから、まだまだそっちの心配はいらないわ。それに、飾り付けは飛べるあんたがやった方が悪くない出来になりそうだしね。さ、リーヴ。あたしは先にあんたの家に行っているから、鍵を貸して?」

「あ、ああ……」

 言われるままに鍵を取り出すリーヴ。その鍵をひったくるように奪って、ラナは部屋の外に出ようとする。

「まだ儂は了承していないのじゃが……」

「ふふん、あまりあたしの時間を奪わないことね。世界に誇れる天才神学者たるあたしの時間は、とーっても高いんだから!」

「な、なにをするのじゃ! やめ……」

 ぼやくシーの服を引っ掴んでひっぱりながら、ラナはシーと一緒に研究室を出て行った。

 立ち尽くすリーヴ。そんなリーヴに、アルマが声をかける。

「あの……」

 アルマの声に、リーヴが視線を下ろす。その視線の先では、歓迎会に対する期待で笑顔を浮かべているアルマの姿があった。

「行きましょう、リーヴさん! わたし、歓迎会、楽しみです!」

「あ、ああ……」

 そんなアルマに手を握られ、リーヴも苦笑を浮かべながら部屋の外に出た。

 太陽はまるで、そんなアルマを祝福するかのように輝いていた。

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