はじめ、はじまる 《前編》
その日、僕こと白金町肇はある女性と待ち合わせをしていた。待ち合わせ時刻は昼の十二時ちょうど、場所は僕の住む学生寮から徒歩十分ほどのファミリーレストランである。
しかしその日は平日なので普通に学校は登校日だった。一応まじめな生徒というのが、教師陣が僕に対して抱くイメージだと思うので、それを崩すわけにはいかないと思い、彼女に別の日にしてほしいと言うと、「いいから、来なさい」と電話越しに脅されてしまい、ぶるった僕は流されるまま学校をサボることになってしまったのだ。
それがつい先週のことである。
そして約束の日の朝、僕は今学生寮の玄関で靴を履き替えようとしている。しかしどうだろうか、やはり学校をサボるなんてことはやってはいけないことで、それを理由に約束をすっぽかすのはとても正当性の高いことなのではないだろうか。
要約すると、行きたくない。
理由は彼女に会いたくないからだ。
彼女が電話で言ってきた言葉などから、僕と彼女が親しい間柄だと予想した人もいるとは思うが、それは間違いだ。第一に僕と彼女は今まで一回しか会ったことがない。電話で対話したのだって約束を決めたとき一回だけだ。そして彼女と僕は年も大きく離れている。彼女はとても美しく、若々しく見えるので本当の年齢はわからないが、少なくとも二十代後半というのは確かだ。なぜ断言できるかというと、初めて彼女に会ったのが僕が五歳だったときで(初めてといっても僕はその日以来一度も彼女を見ていないのだが)、その時彼女は○○高校と書かれたスクールバックとセーラー服を身に着けていたから彼女が当時高校生だということは確かで、そこから考えると少なくとも出会った当初は十六歳だということがわかる。そして僕は現在十六歳、来月で誕生日を向かえ十七歳になる。なので、あれからおよそ十二年も経っていることになるので、彼女は最低でも二十八歳ということだ。
十七歳と二十八歳、しかも一回しかあっていない。十二年間、会いもせず連絡すら取っていない人間関係を親しいといえるだろうか。少なくとも僕は言えないと考える。だから彼女と僕は仲良くもなんともないのだ。
そしてさらに、仲良くないのに電話での彼女のあの僕の学生生活など気にしていないかのようなあの言葉、とても良い人には思えない。誰でも良い人ではない人間に喜んで会う人間などいるのだろうか。そんなもの特殊な性癖を持ったものではなければ喜ぶことなど無理だ。
ではなぜ仲良くない人間と会う約束をしているかというと、それは彼女と僕が交わした約束を果たすためだ。この約束というのは今日彼女と会うという待ち合わせの約束ではなくて、彼女と僕が初めて出会った今から十二年前にした約束のことだ。いや、約束というより契約という方が正しいかもしれない。
当時五歳だった僕は女子高生だった彼女と、とある契約をした。それを果たすために今僕は玄関で靴をはき、重い腰を上げて歩き出したのだ。正確には僕が契約を果たしたということを報告するために今待ち合わせ場所まで歩いているのだ。行きたくはないが、今日会うと約束してしまった手前、やはり行かないわけにはいけないので、ここは仕方ないと割り切っていくとしよう。そうだ、僕はただ学校をサボってファミリーレストランに行くだけだ。そう考えよう。そこにたまたま彼女がいるだけだ。うん。そう思うと少しは行く気が出てきた。流石は僕、と自分を褒めたい気分だ。
まだ待ち合わせ時間には早かったけど、念には念を入れて早めに寮を出た。
学生寮を出て早五分。帰りたくなってきた。
彼女と会う約束をした自分を殺したい。
ダッシュで逃げたいところなのだがそれはできない。なぜなら、十二年もの間連絡ひとつとっておらず、もちろん五歳のときも僕は彼女に連絡先など一切教えていないのに、先週彼女はなぜか僕の住所と連絡先を知っていて僕に電話をかけてきた。どうやって連絡先を入手したのか尋ねると彼女は「私には全てが分かるんだよ。だから逃げても無駄だ」と言われてしまった。そんな彼女から逃げたところですぐ見つかってしまうのがオチだろう。だから逃げられない。
否、逃げても無駄。
そうして改めて彼女の恐ろしさを思考しながら歩いていると、ついに待ち合わせ先のファミリーレストランについてしまった。左手の腕時計には『十一時三分』と表示されていた。どうやらさすがに出るのが早すぎたようだ。店内は平日ということもあり、かなり空いている状態だった。どうやら席を確保しておく必要はないと判断した僕は、そのまま店内には入らずそこから方向転換して近くの書店へと足を進めた。
書店とは言ったが、ついたのは古書店だった。
この古書店には何度か足を踏み入れたこともあり、何冊か本も買っている。このお店は六十代くらいの店主が一人で経営しているようだった(その店主以外の店員を見たことがなかった)。僕が店に入ると店主はパソコンになにやら本の販売数らしきものを打ち込んでいた。聞くところによるとパソコンはお孫さんに教えてもらったそうだ。そして僕が店に入ったのに気づくと店主は「学校は?」と聞いてきた。その問いに僕が苦笑いで答えると、店主はそのまま無言で仕事に戻った。
僕はあまり高い本が置いていない、本に傷や汚れがついてしまっている本の棚の前に行き、まだ読んでいなくて読みたくなるようなタイトルの本を探し始めた。
僕は特にどのジャンルが好きということはないのだが、自分にとって読みやすいのはミステリーだと思っている。
そして五分ほど経過したときに僕の目を引くタイトルの本を見つけた。本をパラパラとめくり、中を確認するとどうやらミステリーもので、裏面の値札には二百円とあったので迷うことなくレジへと向かいその本を購入して店を出た。
ファミリーレストラン前に戻ると腕時計には『十一時二十分』と表示されていた。まだ早かったが本も買ってきたので僕は店内に入って、ウエイトレスに待ち合わせをしているとつげ、案の定彼女がまだ来ていないということを確認して、案内された窓際の席で彼女を待つことにした。
水を持ってきたウエイトレスにドリンクバーを注文し、飲み物はセルフサービスなので席を立った。僕はアイスコーヒーをコップに入れて、ガムシロップなどは一切入れずに、ブラックのまま席に持って帰った。
持ってきたアイスコーヒーを一口飲んでテーブルに置き、さっき買ったばかりの本を読み始めた。彼女が来るまでおよそ三十分。
小説の内容が中盤に差し掛かってきたとき、ふと時間を確認しようと本を閉じた。そして、僕は溜息交じりに腕時計を見た。腕時計には『十二時四十分』と表示されていた。
「・・・・・・・」
どうやら彼女は大胆に遅刻しているようだった。
ここで約束をすっぽかされたと思わないのは僕が知る数少ない彼女の情報の一つに、彼女は絶対に約束は破らないというものがあるからだ。それがたとえ口約束であっても、それがたとえ相手が嘘をついていると知っていても、彼女は約束ならば絶対に守る。必ず。仲良くはないが、それだけは分かる。
時間は過ぎているが彼女にとっては時間というものは問題ではなく、今日会うというのが重要なのだ。
それは僕と彼女が交わした、初めて会ったときに交わした約束もまた例外ではない。だからこそ今日ここで彼女に会って、約束を、契約を果たすのだ。
彼女との再会を僕は今日果たすのだ。
そんなこんなで時間が経っていき。コップが空になったので新しい飲み物を注ごうと席を立ち、飲み物コーナーまでやってきてまたアイスコーヒーのボタンを押した。
その時、後ろから突然誰かに抱きつかれた。ぎゅうっと強く、優しく抱きつかれた。
抱きついてきた人物は背が僕よりも若干小さめなので、彼女はつま先立ちの状態で僕の右肩に顎をおき、左手は僕の背中をしっかりとロックして、右手で僕の頭を撫でながら「久しぶりね」と言った。
僕は少しも驚かずに「はい。お久しぶりです。万代能美さん」と答えた。その人物からはとても甘くて良い匂いがした。
そう、この僕に抱きついてきている人物こそが待ち合わせ相手にして、僕と十二年前に約束を交わした人、万代能美さんである。
能美さんは僕に抱きついたまま、僕は抱きつかれたまま「元気そうですね」と言った。
「そういう君も、生きてはいたんだね」
「はい」
「十年振りくらいかな」
「十二年振りですよ」
僕の指摘には何の反応もせず能美さんは「ところでさ」と話題を変えた。
「アイスコーヒーを飲むのかい?」
僕は能美さんの質問にただ「はい」と静かに答えた。
「それが好きなのかな?」
「はい。最近好きになりました」
僕のその言葉を聴いた能美さんはそれまで以上に強く僕を抱きしめて、それまで以上に優しく僕の頭を撫でた。
そろそろ僕は周りの人の視線が気になってしょうがなくなってきたので、能美さんに「席に座りましょうか」と提案すると、能美さんは「しばらくこのまま」と言って、本当にそのまましばらくの間僕を放してくれなかった。
僕のことを二十分ほど抱きしめた後、能美さんは「満足した」と一言だけ言ってやっと僕を離してくれた。そして開放された体を使って振り返ると十二年前から少しも衰えていない、素直に美しいと言える女性が僕の目の前にいた。
黒いゴシックロリータファッションに身を包み。美しい黒い艶のある髪を持ち、麗しい黒い瞳だった。
そして僕は能美さんと一緒に、さっきまで僕が一人で座っていた席まで戻った。
能美さんは席に着くと「遅れてごめんね、急な仕事が入ってしまって」と遅れてきた理由を説明した。
「それは別にいいんですけど、ちなみに能美さんは今、何の仕事をしているんですか?」
すると彼女は少し僕を睨みながら「女性の素性をあまり詮索するものではないでしょ?」と言った。どうやら聞いてはいけない仕事らしいので別の質問をした。
「今日は僕に何の用ですか?」
すると能美さんは先程より強く、怒りを交えたような目で僕を睨みながら言った。
「それをわざわざ言う必要はあるの?」
「いえ、すいません。戯言でした」
僕が答えると能美さんはにっこりと微笑みながら「わかればよろしい」と言った。その笑顔に心を奪われつつ僕は話を続けた。
「では何をお話すればいいですかね。全部というのは多すぎますし、要点だけ語っていきますか」
という僕の提案に能美さんは「私はそれで構わないけれど、その前にひとつ言わせて」と言って僕の目を真っ直ぐ見つめながら、前屈みになってテーブル越しに僕の首に抱きつきながら言った。
「また私に会ってくれてありがとう。本当に・・・ありがとう」
その言葉を言っていた時の彼女の声色からは、少し泣いているような印象を受けた。
僕は彼女からの感謝の言葉を、ただ目を瞑って静かに受け止めた。そして静かに「僕の方こそありがとうございます」と言いそうになったが、それは僕が言うのは何かおかしいと思い、言うのをやめてただ彼女の言葉の続きを待った。
しかし彼女はそこからしばらく微動だにせず穆然しながら、ずっと僕に抱きついたままでいた。
きっと僕は彼女がまた僕から離れたとき、やっと語り始めるのだろう。彼女との約束、契約を果たすために、正確には果たしたことを伝えるために語り始めるのだろう。
それは決定事項だ。十二年前からずっと決定されていたものだ。だから焦る必要はない、だってもうすでに十二年も待っているのだ。今更彼女が僕から離れるのを急かす必要は全くない。
だから僕は能美さんに抱きつかれたまま、じっとその時を待った。能美さんに抱きつかれて、その心地よい感触を堪能していた。
もう一度言う。僕は彼女が離れたら語る。
十二年という期間を経てやっと。
人生を語る。
これが初作品・初連載となります。時間はかかると思いますし、どうしようもない駄文ではありますが、なんとか続けていきますのでよければ見てください。