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第十二話 刎頸(ふんけい)の契(ちぎり)

須崎と諸墨、二人の物語です。

全て次戦や最終戦への仕込みと受け取って頂けると幸いです。

ではどうぞ今週もよろしくお願いいたします。

第十二話

刎頸(ふんけい)の契(ちぎり)



-赤坂見附-

国会からもほど近い場所にある繁華街と住宅街を抱える地。

古くからの街並みと近代的なビルの林立するこの区画には、かつて、この地が丘だったことを想起させる坂が幾つもある。

地名の由来には諸説あるが、坂の上に茜草(あかねぐさ)茂り、そこから赤根山、それが赤坂となり現代へ地名として残されたという話がある。

丘を切り開いた街並みには幾重もの傾斜と、それを繋ぐ急斜面に接っする階段、その全てへ張り巡らされた複雑な裏路地が残されている。

それらを抜けた先、なだらかな傾斜の途中、意図的に街灯の灯りから反射を抑える黒の漆喰(しっくい)で覆われた外壁が姿を現す。


街の喧騒からわずかに外れた一画。

四角に成形された約400坪強の敷地を遮る境界。

その外壁は全体を覆う黒色漆喰の色と、等間隔で配置された天然木、一枚板のコントラストを伴い、荘厳な空気を纏(まと)っていた。

経年で美しく年輪を発色する重厚な楓(かえで)の風合い、威嚇するような無用の高さをあえて避け、上部に瓦をいただいたその佇まいは、むしろ古都の寺院のような静謐(せいひつ)な空気を漂わせている。

周囲の街並みに深く沈み込むように佇んでいるため、誰もここが歓楽街と住宅街の境目であることに気づかない。


開かれた漆黒の門をくぐると、外界の気配は完全に途絶える。

視界に飛び込んでくるのは、外とは真逆、純白の漆喰で覆われた内壁。

足元は石畳で覆われ、道のみを照らす小さな明かりが灯されている。

所々にアクセントとなる苔を纏(まと)った溶岩石、そしてその敷地を囲むように造成された小川の潺(せせらぎ)と虫の微かな鳴き声が一帯を満たしている。


それら造形の主の如く敷地中央に鎮座する漆黒の八角形の主殿。

その姿はまるで、天の星々を地上に写し取った祈りの建築のようであり、日本の伝統的な八角堂が持つ独特の幾何学的な様式美が、空間に凛とした緊張感をもたらしていた。

考え抜かれた空間、足元に敷き詰められた石畳は、その歩を自然に主殿へと導く水先案内人を担っている。


正面に佇む漆黒の八角堂。

その異彩を放つ建築に導かれるように歩を進めると、主殿の正面に設けられた控えめな格子戸が、まるで見計らっていたかのように音もなく内側から開かれた。


「――お待ち申し上げておりました。」


現れたのは、仕立ての良い藍(あい)色の着物を纏(まと)った若い女性だった。

その佇まいまでがこの邸宅の影に自然に溶け込んでいる。

一切の無駄のない美しい所作で深く一礼すると、訪れた客人を促すように傍らへ退いた。


「須崎様のご友人様はお先にお通ししております。お部屋の設え、お食事ともに、すべて整っておりますのでよきタイミングでお知らせ頂ければと存じます。」


「いつもすまない女将さん。ありがとう。」


一礼し、彼女は奥へ続く欄間障子(らんましょうじ)を開いた。


ここには入り口に看板もなく、中には品書きもなければ、案内を乞うための呼び鈴すらない。

それでも、予約していた時間に関わらず、寸分の狂いもなく客人を迎え入れられるだけの洗練した風格というものが備わっている。


「お部屋へご案内いたします。足元にどうぞお気をつけください。」


静かな声に導かれ、長い廊下の奥へと進む。

外の赤坂の喧騒がまるで遠い過去の出来事であったかのように、五感がこの空間の静寂へと完全に塗り替えられていった。

通された部屋には既に諸墨が茶をすすり待機している。


「よう、すまねぇな。先についちまった。」


そういうと彼はズレたメガネを指で押し上げ茶を飲み干した。


「構わんよ、こちらこそ待たせてすまない。」


「どうも庁舎に官憲の中は居心地悪くてな、口実つくってふけてきた。」


「そんなことだろうと思ったよ。まあ居心地の悪い点は同意するがな。」


「お前はいいよな、あの辛気臭い場所から抜け出て。」


笑いながら諸墨が軽口をたたく。

それを嬉しそうに受けながら、


「その引き換えに別のプレッシャーを背負う事にはなった。だが、悪くはない。」


「大臣様の苦悩か?抱え込むのは相変わらずだが適度にガス抜きもしろよ。」


「心得ておくよ。どうする?何か飲むか?」


「いや、あとでいい、先に報告だ。終わらせないと酒が不味くなる。」


諸墨の言葉に、須崎は小さく苦笑した。

諸墨という男は学生時代からその破天荒な形(なり)と行動とは裏腹に、一貫して抱えたすべてを消化しない内には事に動かない性質を持っていた。

学生寮でもその諸墨の行動を間近で見ていたため、須崎にとって諸墨のこの言葉は懐かしい青春時代の光景と重なったのだ。

諸墨が報告資料を卓上に並べる間、八角形の建物を包む濃密な空気の中、外ではかすかに夏虫の鳴く声だけが響いていた。


須崎は茶を一口含み、その温かみが喉を通り過ぎるのを待ってから、ゆっくりと姿勢を正した。


「そういう所は昔から変わらないな。報告を受けよう。」


「ああ。細かくはあとで報告書を読んでくれればいい。概ね概要だけ攫うぞ。」


そういうと諸墨は一枚の新聞記事を取り出した。

静岡日報の記事、日付は2054年11月14日。


「大雑把に愛知、静岡、三重が主体となった地域漁業連合発足の記事だな。ここに件の男が出てる。これだ。」


指し示した記事の集合写真には捩じり鉢巻きをした男性が写されている。


「これが銛燈志(もりたかし)・・・」


「写真は今から30年以上前。この後はそっち(政界)ではわりと有名な話らしいな、マグロ担いで議員会館突撃した件。あの時の集団の中核、どうも言い出したのも団体担いでたのもこのおっさんだ。俺も当時のニュース動画観て思い出したがお前と寮で観てたんだな。覚えてるか?」


「ああ、速報観て馬鹿笑いしてるお前の姿の方が鮮明だが、まさか・・・あの中にいたのか、どうやってその話を?」


「俺の地元の連れ、その親父さんがこの、なんだっけ?東海道漁業振興連?ここで理事をやっててな、今はもう引退しちまったがその伝手だ。この一件は報道に乗ったが事件でもないから氏名は伏せられてた。だが漁連の会報にはその時の陳情団の名簿が残ってた。それがこれだ。」


諸墨は、経年で端がわずかに黄ばんだ冊子のコピーを、卓上の新聞記事の隣に滑らせた。

表紙には『東海地区漁連総合広報・第62号』とあり、日付は2055年8月15日と記されている。

ページをめくると、白黒の粗い網点(あみてん)印刷で、当時の熱気そのままの陳情団の集合写真が掲載されていた。


「これだ。この二列目の端で、まだ若い組合長たちの後ろから、明らかにガタイのいい不敵に笑ってる鉢巻き姿の男。新聞の引きの写真じゃ潰れてて判別がつかなかったが、こっちの身内向けの地域広報誌には、ご丁寧に『水産政策への直訴、陳情団一同』ってキャプション付きで、全員の氏名と所属漁協がハッキリ印刷されてる。ここに書かれてる『愛知・一色漁協所属 銛燈志(もりたかし)』、これで面は間違いねぇな。」


諸墨はそう言って、指先で白黒写真の男の顔と、その下に並ぶ名簿の文字をトントンと叩いた。


「よくこんなものまで見つけてきたな。」


「デジタル時代様々。民間アーカイブにはこの手の印刷はデジタル版下が残る。最悪そこになくとも印刷物は地域自治体に記録コピーが残ってたりする。管理の程度は組織によってマチマチといった感じだがな。で次だ。」


「他にもなにかあるのか?」


「警察公安の網に掛からず、官憲が掘ってなさそう、で、地方に地域資料、漁協関連の民間記録……当たりをつけて漁ってたらもう一つ変なのが出てきた。」


そう言うと諸墨は、使い込まれた革鞄から、今度は行政の公印が鮮明に印字された数枚のA4用紙を取り出した。

法務局の発行した、法人の履歴事項全部証明書――いわゆる商業登記簿の写しだ。


「漁連のアーカイブを洗う過程でな、このおっさんこんだけ派手に動いてて個人ってことはないだろうと、経験上、金の面でも妙に引っかかったんだよ。そしたら出てきた。本業の漁協関係じゃねぇ、個人の資産管理、ヤバ目なケースだと動産か別の何かの隠匿目的で作られた実態の薄い会社。これがその会社の登記簿だ。」


諸墨の手によって卓上へ滑り込んできた書類を、須崎は手元に引き寄せ、視線を落とした。上部に印字された法人名から順に項目を追っていき、ある欄に差し掛かった瞬間、須崎の目がわずかに見開かれる。


「代表取締役社長 銛燈志(もりたかし) 本店所在地、岐阜!?」


「登記はなんてことない普通の法人。ヤバい感じはしない。業務内容も養殖業やら小売りに色々書いてるが半分ペーパーカンパニーだ。その所在地に行ったらデカい敷地に囲いがしてあってな、見える限りはなにもない。」


「なにもない?建物もない更地なのか?」


「基礎だけある。昔なんか建ってたのかもしれんがその辺りは俺は専門家じゃねーからわからん。写真は唸るほど撮(と)ってきた。」


諸墨はジャケットのポケットから端末を取り出すと、画面を軽く滑らせて須崎の正面へと置いた。

映し出されたのは、生い茂る雑草の合間に、不自然に広範にわたり四角く打設されたコンクリートの強固な基礎ブロック。

画面をスクロールするたびに、様々な角度から撮影されたコンクリートの基礎が映し出される。

周囲を囲む申し訳程度の目隠しの塀、コンクリート基礎の所々に見えるライフラインの名残。

それら無数の痕跡が、かつてそこに何らかの施設が存在していたことを物語っている。


「地元の住人に聞き込みをしたんだが、ずいぶん前に水産試験場があったというのはわかった。その水産試験場は隣にあった工場敷地閉鎖に伴いそっちに移設、今もデカい建物がある。資産関連の登記簿やらも漁った。財産的には分離してるがこっから先は開示請求しないと俺にもわからん。ここは俺の予想だがおそらく払い下げかなんかで二束三文、民間、この親父の法人に流れたんだろう。」


「払い下げ、競売かなにか類する手で銛燈志(かれ)の法人が取得した・・・?」


「概ねそんなとこだろう。その辺りも法改正で細くは請求しないと辿れん。事件化でもしてりゃ別だが。」


須崎が端末を手に取り、一枚一枚の写真を凝視しながら思考を巡らせていると、諸墨は卓上の茶を一口啜り、声を一段低くした。


「で、ここからが本題だ。この法人、なんのためにあるのかわからんからな、財務関連洗ってみた。結論から言うと毎年随分な金が方々から突っ込まれてる。それも一部は個人から、誰だと思う?」


「想像もつかない、ましてや個人など…」


そこまで言いかけて、須崎の言葉が不自然に途切れた。

岐阜の広大な敷地、残された強固な基礎、そして毎年流れ込み続ける巨額の個人資金――それらの断片的な情報が、かつて自身が検事時代や政界の裏側で目にしてきた「ある特異な資金還流の構図」と一瞬で結びつき、脳裏にひとつの解を結ぶ。

ここに来るより前、大臣特権で閲覧していた過去の様々な特定機密関連の記録。

自身の行き着いた突飛な推測の重さに、須崎の胸に微かな戦慄が走る。

卓上の写真を凝視したままの須崎の様子に、諸墨がニヤリと不敵な笑みを深めた。

それを見た須崎は、確信へと変わりつつある想いを殺すように、声を絞り出した。


「ちょっと待て、まさか政府関係者か?」


「まぁ半分正解だ。聖清蔵、元お前んとこのボスだ。」


「そっ、そんな、何故ここで一民間人が聖清蔵と…」


「ここで俺にストップが入った。なんとその聖清蔵本人からソレ(端末)に着信が来たわけだ。」


諸墨が顎で指し示したのは、彼が先ほど須崎に写真を示した端末だった。

見た目はただのありふれた携帯端末。

だがその中身は基板単位でロットを管理された特別な通信機器。


【高度警察情報通信基盤システム 通称PⅢ】


それは警察庁/警視庁が極秘に運用する、あらゆる傍受や逆探知を無効化する暗号化通信回線であり、民間はおろか大半の警察官がその存在すら知らされていない国家最高峰のセキュリティインフラだった。

立場上この端末を持たされている諸墨をピンポイントで特定し、その秘匿回線を通じて直接電子の網を突き破って繋いできたという事実。

それは、相手が国家の通信を完全に掌握できる位置にいることを意味していた。

諸墨の、そのただ事ではない視線を受け止めながら、須崎は信じがたい思いで端末を凝視した。


「本物…なのか?」


「公安の役職以外でこいつに直接連絡手段持てる時点で本物だろ。偽物だったら超一級、スーパード級の詐欺師様だ。」


諸墨は自嘲気味に鼻で笑うと、手元の端末を裏返し、画面の明かりを遮るように卓上へ置いた。

部屋を包む濃密な空気の中で、外の夏虫の声だけが再び耳に届くようになる。

須崎が言葉を失ったまま、かつてのボスの底知れぬ影響力に思いを巡らせていると、諸墨は少しだけ椅子の背にもたれかかり、表情を和らげた。


「お前さんにはこの話のあと直接連絡するとさ、俺の顔を立てるために先に報告の場を持たせた感じだな。大した懐の爺さんだよ。俺は政治家ってのはその辺お構いなしかと思ってたが。」


卓上の資料へ視線を凝らしながら様々な可能性が須崎の思考を巡る。

その沈黙に付き合うように諸墨も口を閉ざした。

時計の針音すらない部屋で、ただ、静寂だけが時間を刻んでいた。

須崎は視線を落とし、小さく息を吐いた。


「中々一筋縄ではいきそうもないな…」


「俺としてはなんかじいさんに踊らされた気がしないでもないが。」


「そうか…」


須崎は自身の思考を別に置き、自らの属する組織のかつてのボス、そして自身の生き方、その羅針盤ですらあった為政者、聖清蔵の意図を探り始めた。

須崎にとっても想定外の場面。

政(まつりごと)の中での「銛燈志(もりたかし)」という男の存在。

それらが自身の閲覧した最高機密の中にあった【皇鯨】を巡る背景とかすかに結びついたことを、理解しひとまずの思索を終える。

連絡があるというのならそれを待つしかない、ここで出せる決は意味がない、それが彼の現時点での結論となった。


「どした?お前ともあろうものが珍しく困惑してんな。」


そう述べた諸墨に、須崎はゆっくりと首を振った。


「すまない、機密に関わる話とリンクしてる可能性が見えてしまったんだ…悪い話ではなさそうだが想定を超えてくる…そう感じてな…」


「まっ、そうなりゃ尚更だ。俺の出番はここまで、お役御免だな。」


諸墨はあっさりそう言うと、卓上に広げていた資料や写真を手際よくまとめ、須崎へ手渡した。

その引き際の鮮やかさに、須崎は申し訳なさそうな視線を向けた。


「すまない。人探しからとんだ大事に関わらせてしまったかもしれん…」


「この仕事してりゃそういうこともある。ヤバくなったら上に投げてトンズラ、今回は投げる相手がお前ってだけだ。俺が死なないようにしといてくれりゃ文句はねぇよ。」


「それは誓って。お前を死なせたら、旧友たちに私が吊るし上げられるからな。」


須崎の少し硬さの取れた冗談に、諸墨は短く笑い声を漏らした。

鞄のチャックを閉める音が、部屋の静寂に小さく響く。


「しかしなんだな、お大臣様ともなりゃこんな豪奢(ごうしゃ)な場所まで手配できるようになんのか?あれか?官房機密費ってやつか?」


「はは、あれはこういった類には使えんよ。ここは俺のポケットマネーだ。それにお前が想像しているほどの金額ではない。キャバクラ通いを辞めたら年に一~二度は来られる。」


「そりゃ無理だ。ライフワークけちってこんな贅沢な場所で飯食うなら牛丼屋で十分だろ。」


「お前らしい言い分だ。」


そう言って、二人は顔を見合わせて声を上げ笑った。

先ほどまでの緊迫感が嘘のように、部屋を温かな空気が満たしていく。

ふと諸墨が部屋の外に目をやると小さな光が瞬いているのが見えた。


「蛍か?外にそんなもんまで飼ってるのかここ?」


諸墨の視界に映ったのは主殿をぐるりと取り囲む透き通った水を湛えた人工の小川だった。

この人工の小川は水底の礫(れき)の間を在来種のタナゴやメダカが静かに泳ぎ、初夏の夜になれば、この都心のただ中とは思えないゲンジボタルとヘイケボタルの淡い光が、さざ波のように交差する。


「過去、といってもゆうに100年以上前になるが、武家屋敷が取り壊され、一帯に料亭が多かったころはまだこの辺りにも蛍がいたようだ。その当時を偲んでここを作ったらしい。優美なものだなこの光は。」


「ああ、俺の故郷、静岡はまだ蛍がいるからな。ガキの頃を思い出しちまったよ。いいもんだなこういうのも。」


そういうと二人はしばし無言でその淡く明滅する灯に視線を落としていた。

都会の喧騒から隔絶された囲いの中、八角形の建物全周を漂う静かな光の演武。

その蛍の淡い光だけが辺りを照らしている。

小川の微かなせせらぎ、そのかすかな水の音が、かえって部屋の静寂をより深いものへと引き込んでいく。


立場は違えど、かつて同じ学び舎で同じ時間を過ごした旧友。

机の上に置かれたままの茶器、少し冷めかけた茶の湯気すらも、その静かな時間の中に溶けていく。

東京、その中心、赤坂であることを忘れさせるような、緑がかった儚い光の軌跡を、二人はただ愛おしむように静かに見つめ続けていた。


「さて、話が済んだなら飯にしようぜ。女将さん待たせるのも悪いしな。旨い酒もあるんだろう?」


「ああ、そうだな。」


諸墨が空腹で腹をさする様子を見て、須崎もまた自身が昼食も取らずに慌ただしく動いていたことを思い出した。

それと時を同じくして女将のお伺いが入り、職人たちが一刻の狂いもなく仕上げた極上の料理と、選び抜かれた酒が、運ばれていく。

配膳へと動く者達、その衣服の擦れるかすかな音、漆器や磁器の器が吸い付くように黒塗りの盆から配されていく。

女将の無駄のない手際によって瞬く間に膳が整うと、職人のこだわりが詰まった料理の香りと凛とした美酒の佇まいが、部屋を満たしていった。




同刻

静岡、伊豆半島


都心から遠く離れた、伊豆、その半島南端、下田の切り立った岬。

太平洋を見下ろすその断崖に、聖清蔵の自宅はある。


外をいくら激しい潮風が叩こうとも、長い年月を耐え抜いてきた総欅(そうけやき)造りの洋館は、ただ静かに闇の中に佇んでいた。

その最奥にある聖の書斎は、まるで明治や大正の文筆家が、世俗を忘れて思索に耽るために誂えたかのような、どこか懐かしく、温かみのある空気を纏(まと)っている。


正四角形の部屋、窓際には、使い込まれ角が丸くなった大きな楢(ナラ)材の文机(ふづくえ)が据えられた。

その上には、ガラスのインク瓶と、長年愛用している一本の万年筆。

そして、直近で読まれていたであろう古い革装本や和綴じの資料が、主の思考の足跡のように並んでいる。

床に敷かれた絨毯は、長年の歩行でほどよく擦り切れ、壁の書棚からは、乾いた紙の匂いと古い木肌の香りが漂う。

天井から吊り下げられた真鍮製のペンダントライトが、琥珀色の柔らかな光を部屋のあちこちに落としていた。


窓の外は、遮光カーテンなどという無粋なものはなく、使い込まれた木製の枠にすりガラスをはめ込んだガラリ窓が誂(あつら)えられている。

その隙間から、夜の太平洋の黒い水平線と、時折きらめく遠い灯台の光がかすかに覗く。

陽の射す時間、陽光煌めく時刻であれば遥か海上の銀の柱の姿も捉えられる展望であろうことが容易に推察された。


「さて…そろそろ世に出してもよい頃合いとは思っていたが…縁とは巡るものだのう。」


そういうと苦笑交じりに聖は机上の端末に触れた。

諸墨の持つ物と同質のその端末、「高度警察情報通信基盤システム――通称PⅢ。」は、そんな大正ロマンの風情を残す文机の片隅に、場違いなほどぽつんと置かれていた。

部屋の主である聖清蔵は、仕立てのいい古い長半纏(ながはんてん)を羽織り、重厚な背もたれを擁(よう)する木製の回転椅子に深く体を預けている。

白髪交じりの頭を少し傾け、彼はただじっと卓上の端末を見つめていた。

その表情には、政界の頂点にいた頃の刺々しさはなく、むしろ気に入った古い本を読み返す時のような、静かで、底の知れない穏やかさが満ちている。

彼が視線を落とす端末の画面には、先ほど切断されたばかりの、銛燈志(もりたかし)との通信履歴。

だがそれも数分後には自動で記録から抹消される。

聖はゆっくりと傍らの万年筆を取り上げると、手元の原稿用紙の余白に、小さく「皇鯨」とだけ書き添えた。

下田の海から微かに響く潮騒の遠鳴(とおな)り、古い木の床を静かに照らす照明、それらが書斎の佇まいをよりいっそう深いものへと変えていく。





冷えた酒器を傾け、職人自慢の向付(むこうづけ)に箸を伸ばしながら、諸墨はふと、先ほどまで卓上に広げていた資料の残像を追うように、視線を泳がせた。

酒が喉を潤すにつれ、彼の持ち前の野次馬根性と、一人の捜査官としての真っ当な疑問が再び頭をもたげてくる。

箸を置き、猪口(ちょこ)を弄びながら、諸墨は少し身を乗り出した。


「しかしなんだ、思い返すと色々気になるな。一民間人が聖のじじいと繋がって居場所がわかんなくなってるとかあんなの国家機密級に隠されてるぞ。」


突然の諸墨の切り出しに須崎は機密に抵触しない事柄からの解答を示す。


「その手の話は…なくはない。だが触ることで結論が出ることもない。概ね機密扱いはそうなる。他国が絡む話なら最悪命の危険が伴う場合もある。」


「なんだよお前そんなヤバいの俺に投げたのかよ。まぁおもろかったからいいけどキャバクラじゃ割に合わんぞ。」


「政治家引退したら相応の礼を用意してやるよ。それまで死ぬなよ」


「いつだよそれ。」


「さあな。だが俺は生涯を捧げるつもりはない。有能な者あらば次へ託して去るのが筋だからな。」


「聖のじじいみたいな引き際か、まぁいいや、おっ、それとなコレ、忘れてた。」


諸墨はジャケットの内ポケットに再び手を差し込むと、今度は少し皺の寄った一枚のカラー写真を取り出し、卓上の空いたスペースに滑らせた。

都内で撮影されたと思わしきその写真には一人の女性が写されていた。


「このおっさん探す過程で出てきた娘さんの写真だ。直接掘って追うか判断のために見に行った。コイツで撮影した動画切り抜きの印刷だから荒いのは勘弁しろ。」


そういってトントンと叩いたのは諸墨自身のしているメガネだった。

それは内偵捜査で愛用している、カメラの仕込まれた伊達メガネ。


「なんの用か知らんが今都内にいるな。こっからなにか辿れるかと思ったが、しばらくしてこの娘さんの周りにどうも堅気じゃないっぽいのがチラつくんだが....そういうことか?」


「お前には隠しても仕方ないな。そういうことだ。彼女は警護対象だ。」


「まったく糞デカい話だな。次から事前にヤバいのはそう伝えろ。俺は平穏にキャバクラ楽しんで定年迎えるつもりなんだ。どうせ回すなら割のいいのにしろよな。」


「次回はそうするよ。諸墨、感謝する。ありがとう。」


須崎は真っ直ぐに旧友を見つめ、右手を差し出した。


「こいつは貸しだぞ。そうだな、三回は奢れよ。」


「心得ておく。」


「おっと、今日のこれはノーカンだからな。」


「安心しろ、当然だ。」


須崎の言葉に、諸墨は満足そうに口端を上げた。

卓上、盆の上には、木桶を模して造られた錫の酒器、その中には冷気により水滴を微かに纏った四合瓶が静かに佇んでいる。

諸墨の地元、静岡の老舗/春の舞酒造の銘酒、美しく透き通ったガラス瓶の奥で、無色透明の液体が部屋の琥珀色の灯りを反射して揺れている。

須崎が自ら手を伸ばし、その瑞々しい瓶を持ち上げた。

トトト、と小気味よい音を立てて、諸墨の空になった錫の器に並々と酒が注がれていく。

冷やされた酒で器がわずかに結露し、その冷気が手元に広がっていく。


「そろそろ仕舞だな・・・」


軽口を叩きながらも、諸墨は慣れた手つきで瓶を受け取り、今度は須崎の器へと酒を返した。

細く美しい放物線を描いた透明な液体が、須崎の器を寸分の狂いもなく満たしていく。

大きな山を一つ越えた。

そこにあるのは、互いの立場や背負う国家の重密な機密などではなく、ただ同じ時を駆け抜けてきた旧友としての確かな安堵感だけだった。

どちらからもそれ以上の言葉はなかった。

語るべきことのすべては卓上に置いてきた。

二人は視線を交わし、特に何というわけでもなく、ただ自然な動作で互いの器を軽く掲げた。

チリン、と冷たく澄んだ金属音が静かな部屋に小さく響き、蛍の舞う外の闇へと溶けていく。


飲み干した酒は喉を滑り落ちる芳醇な米の香りと鋭い辛口の刺激が、五臓六腑に染み渡っていく。

器を置いた二人の口から、同時に小さく息が漏れた。

外では、変わらず淡い緑の光が人工の小川を漂っている。

その儚くも美しい光の演武を、二人はただ無言で見つめながら諸墨が一言。


「この時勢だ、立場上絡むもんのヤバさもダンチになる。今日の約束果たす前に死ぬのはナシだぞ。」


「ああ、そのつもりだ。」


短く応じた須崎の言葉に、諸墨はそれ以上何も言わず、ただ深く頷く。

窓の外では、東京の夜陰に沈む八角堂の周囲を、淡い緑の光たちがなおも静かに巡り続けている。

その儚くも消えない軌跡を見つめる須崎の胸中には、先ほど脳裏を過った思索が、未だ冷めやらぬ小さな火種のように燻り続けていた。

イグナクトを起点に動き出した巨大な歯車、それに連動し多くの事柄が静かに動き始めている。

心の羅針盤の指し示すその先、まだ見ぬ嵐の前触れを告げるかのように世は更けていく。




次回

天のイグナクト

第十三話 黎明の旭日


2026年10月30日 13時00分頃公開予定




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【下駄のイグナクト】

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如何でしたでしょうか?

次回ようやく旭柰の父、燈志(たかし)が登場します。

一話で回想シーン的にセリフだけありますが本格的にキャラとして動き出します。

登場回数は少ないんですが立ち位置的にわりと目立ちます。

次回はそういう意味でも当番回。

どうか引き続き追って頂けると助かります。


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