《終点までお召し上がりくださいバーガー》
始発電車は、午前四時四十四分に発車する。
終着駅には、午前四時四十三分に着く。
誰も、そのことをおかしいとは思わない。
この国では、電車に乗れば一分だけ過去へ行ける。
ただし、
一駅につき一分だけ。
それだけの鉄道だった。
少なくとも、誰もがそう思っていた。
一
高校生の真壁ユズは、毎朝六時十二分の各駅停車で学校へ通っていた。
六駅。
乗車時間十八分。
到着すると、時計は六時六分になっている。
移動に十八分かかるのに、十二分若返っている。
「今日も十二分得した」
友人たちは笑う。
通勤客も同じだった。
会社まで三十分乗れば二十分戻る。
遠距離通勤ほど得をする。
だから都市は細長く発展した。
富裕層は郊外へ移住した。
毎日三時間かけて都心へ通勤し、三時間以上若返る。
一方、駅のない地域では普通に老いる。
やがて寿命は、
住所ではなく、
定期券で決まるようになった。
ユズの祖母は百三十七歳だった。
毎日、環状線を十一周している。
「もうやめなよ」
ユズが言う。
「嫌よ」
祖母は化粧をしながら答えた。
見た目は四十代だった。
「死ぬなんて、乗り換えを失敗した人がすることでしょう」
笑って駅へ向かった。
その日の夕方。
祖母は帰ってこなかった。
二
鉄道会社から連絡が来た。
事故ではない。
行方不明でもない。
《過剰遡行》
聞いたことのない言葉だった。
ユズは駅員室へ乗り込んだ。
「おばあちゃんはどこ?」
駅員は画面を隠した。
「規則でお答えできません」
「百三十七歳なんです!」
「ですから」
駅員は小さな声で言った。
「乗りすぎたんです」
ユズはその夜、祖母の定期券を使った。
改札を通る。
午後十一時五十八分。
終電。
環状線へ乗る。
一周。
二周。
三周。
午前零時を過ぎても電車は止まらない。
乗客が少しずつ減る。
十周目。
ユズの制服が新品になる。
十二周目。
靴の傷が消える。
十五周目。
スマートフォンから、今日撮った写真が消えた。
十八周目。
昨日のメッセージが消える。
二十周目。
車内放送が変わった。
『次は、十三番ホーム』
ユズは顔を上げた。
この路線に十三番ホームなどない。
窓の外が真っ暗になる。
電車が停車した。
扉が開く。
ホームには、
大量の人間が立っていた。
赤ん坊。
子供。
若者。
老人。
全員、裸足。
そして、
全員が切符を口にくわえていた。
その中に祖母がいた。
ただし。
五歳くらいだった。
「おばあちゃん?」
少女が振り向く。
「だれ?」
ユズの胸が冷えた。
祖母は若返ったのではない。
戻りすぎた。
身体だけではない。
記憶も。
人生も。
百三十七年から、
すべて引き算された。
やがて誕生より前へ。
その先に何があるのか。
ユズは少女の手を掴んだ。
「帰るよ」
ホームのスピーカーから声。
『お客様はまだ乗車中です』
「降りた!」
『いいえ』
床が震えた。
『あなた方は、生まれた時から乗車中です』
三
十三番ホームの壁が開いた。
向こう側に、
巨大な線路があった。
幅は数百キロメートル。
その上に、
街が載っていた。
東京。
大阪。
海。
山。
日本列島。
全部。
さらに遠くを見る。
別の線路には大陸が載っている。
その隣にも。
そのまた隣にも。
惑星そのものが、
無数のレールの上を走っていた。
ユズは理解できなかった。
「電車じゃない……」
そう。
人間が電車で時間を遡っていたのではない。
世界のほうが走っていた。
宇宙全体が巨大な鉄道網だった。
駅とは、時間を固定する杭。
電車へ乗ることで、人間は一時的に杭から離れる。
だから世界が前へ進んでいる間だけ、
乗客は相対的に過去へ置いていかれる。
鉄道会社は時間を作ったのではない。
宇宙の構造を、
公共交通として利用していただけだった。
では誰が線路を敷いたのか。
答えはすぐに現れた。
ホームの奥から、
巨大な車掌が歩いてきた。
人間の形をしている。
だが制服の胸元から上がない。
首の代わりに、
古い丸時計が付いていた。
時計の針は、
逆回転している。
『乗車券を』
ユズは祖母の定期券を差し出した。
車掌は首を振る。
『これは乗車券ではありません』
「じゃあ何?」
『食券です』
ユズは動けなくなった。
車掌が壁を叩く。
何億枚もの定期券が貼られていた。
人間の名前。
年齢。
乗車履歴。
そして右端に、
見慣れない数字。
熟成率。
祖母。
137年。
環状線4,812,992周。
熟成率99.8%。
ユズ。
16年。
熟成率11.4%。
『時間を戻していたのではありません』
車掌が言う。
『時間を練り込んでいたのです』
四
人間は、長く生きるほど味が濃くなる。
だが普通の寿命では足りない。
百年。
二百年。
千年。
同じ人生を何度も時間へ通す。
喜び。
後悔。
恋愛。
退屈。
怒り。
全部を何重にも折り畳む。
鉄道は、
人間を長時間熟成させるための装置だった。
ユズは祖母を抱き寄せた。
「誰が食べるの」
車掌は答えなかった。
代わりにベルを鳴らした。
カン。
宇宙中の駅で、
同時に発車ベルが鳴った。
『熟成完了』
線路が動き始めた。
いや。
最初から動いていた。
今までゆっくりだっただけだ。
地球が加速する。
山が後方へ伸びる。
海が帯になる。
都市が線になる。
人々は駅へ殺到した。
「乗れば戻れる!」
電車へ飛び込む。
だが戻れない。
どの電車も、
十三番ホームへ向かっている。
世界中から列車が集まる。
地下鉄。
新幹線。
貨物列車。
路面電車。
百年前の蒸気機関車。
まだ発明されていない透明な車両。
すべて同じホームへ到着する。
そして乗客を吐き出す。
人間が積み重なる。
老人が若返る。
若者が子供になる。
子供が赤ん坊になる。
さらに小さくなる。
細胞。
肉。
脂。
記憶だけが残る。
祖母もユズの腕の中で縮んでいく。
五歳。
三歳。
赤ん坊。
最後に、
小さな赤い肉片になった。
それでも声だけ聞こえた。
『次はちゃんと、終点で降りるからね』
ユズは泣いた。
自分の手も小さくなっている。
だが突然、
車掌の時計が止まった。
一秒。
世界も止まる。
ユズは十三番ホームの端に、
一本のレバーを見つけた。
《折返》
これを引けば、
全部戻せる。
祖母も。
世界も。
人類も。
線路も。
ユズは手を伸ばした。
そして、
やめた。
祖母の言葉を思い出した。
死ぬのは乗り換えを失敗した人。
違う。
誰も失敗していなかった。
終点があるから、
旅だった。
ユズは隣のレバーを引いた。
《終着》
初めて、
宇宙中の線路が途切れた。
五
地球が脱線した。
月がレールから飛び出す。
太陽が横転する。
銀河を束ねていた枕木が砕ける。
時間そのものが線路から外れた。
過去と未来が正面衝突する。
恐竜の群れが高層ビルを駆け抜ける。
まだ生まれていない子供が老人とすれ違う。
春と冬が同じ空から降る。
列車が空を走り、
海底駅へ突っ込む。
宇宙の始発と終点が、
同じ場所へ到着した。
衝突。
音はしなかった。
代わりに、
香りがした。
焼けた肉。
時間を何百万周も通過した人類は、
深く熟成したパティになる。
赤身の中に、
人生の脂が細かな層を作る。
線路は熱せられ、
細長いベーコンへ。
駅舎の屋根は砕かれ、
香ばしいフライドオニオンになる。
信号機の赤はトマト。
黄色は濃厚なチーズ。
青は刻んだハーブへ変わる。
海は塩気の強いソース。
朝焼けは甘いマスタード。
そして無数のホームが上下から折り畳まれ、
二枚のバンズになった。
最後に十三番ホームの時計が、
一枚の丸いピクルスへ縮む。
針は、
午前四時四十四分。
そこで止まった。
鉄板の上に一個。
何千年も乗り続けた時間の匂いがする。
包装紙は、
古い路線図だった。
すべての路線が中央の一点へ集まっている。
そこに商品名。
《終点までお召し上がりくださいバーガー》
その下に、
小さな注意書きがあった。
途中下車はできません。
そして今度は、
折り返し運転もなかった。




