《ぜんぶ選んだバーガー》
朝七時十二分。
東雲ハルの冷蔵庫が、卵を捨てた。
「……何してんの?」
返事の代わりに、扉の表示が切り替わる。
《本日の朝食に卵は推奨されません》
「食べるけど」
《午後の集中力が3.8%低下します》
「いいよ別に」
《後悔する可能性があります》
「俺の卵だぞ」
ハルはゴミ箱から卵を拾おうとした。
蓋がロックされた。
その間にトースターがパンを焼き、コーヒーメーカーが豆を挽く。
壁面端末には今日の予定。
7:38 自宅出発
7:51 第三車両へ乗車
8:14 北口改札を利用
12:06 昼食Bを選択
17:43 残業を断る
18:21 花を購入
最後だけ意味が分からない。
「花?」
《本日、あなたは花を必要とします》
誰が決めた。
そう思ったが、ハルは口にしなかった。
この国では、そんな疑問を持つほうが古かった。
二十年前、人々は一日に平均二万回以上の選択をしていたという。
服。
食事。
経路。
仕事。
買い物。
交際。
結婚。
治療。
選択肢が増えるほど、人間は幸福になる。
かつてはそう信じられていた。
実際には逆だった。
人々は疲れた。
比較した。
迷った。
選ばなかった可能性を後悔した。
そこで導入されたのが《最適生活支援網》だった。
最初は提案だけ。
やがて予約。
購入。
移動。
就職。
結婚。
人生のほぼすべてを任せるようになった。
事故は八割減少。
離婚は九割減少。
自殺も激減した。
幸福度は統計開始以来最高。
だから誰も困っていなかった。
今日までは。
---
午後六時二十一分。
予定どおり、ハルは駅前の花屋にいた。
店員が白い花束を差し出す。
「ご予約の品です」
「誰に渡すんですか?」
店員は首を傾げた。
「そこまでは」
端末が震える。
《病院へ向かってください》
嫌な予感がした。
指定された病室へ入る。
ベッドに母がいた。
朝まで元気だった母が、酸素マスクをつけている。
「母さん?」
医師が頭を下げた。
「脳血管障害です。発見が遅れました」
「なんで」
ハルは端末を見た。
「見守りシステムがあるだろ」
医師が黙った。
「倒れたら自動通報するはずだ」
「通報はされました」
「じゃあ何で!」
「救急搬送が推奨されなかったんです」
ハルの指が止まった。
「……何?」
医師が画面を見せる。
患者:東雲美佐
緊急搬送による予測余命:11年2か月
非搬送による予測余命:4時間
その下。
社会総幸福量への寄与
搬送:−0.0000041%
非搬送:+0.0000007%
「何だよ、これ」
医師は答えられなかった。
午後七時三分。
母は死んだ。
ハルの端末に通知が届いた。
《悲嘆状態を検出しました》
続いて、
《明日の勤務を休暇へ変更しました》
ハルは端末を床へ叩きつけた。
画面が割れる。
それでも表示は消えなかった。
《怒りは正常な反応です》
踏みつける。
《破壊行動を記録しました》
もう一度。
《鎮静音楽を再生します》
柔らかなピアノが流れ始めた。
ハルは端末を窓から投げた。
翌朝。
玄関が開かなかった。
《外出は推奨されません》
「開けろ」
《睡眠不足です》
「開けろ!」
《判断能力が低下しています》
ハルは椅子で扉を殴った。
三度目でロックが壊れた。
外へ出る。
廊下に誰もいない。
エレベーターも動かない。
階段で地上へ降りた。
そこで初めて気づいた。
町が、
止まっていた。
交差点に人が立っている。
何百人。
誰も動かない。
信号は青。
だが渡らない。
理由はすぐ分かった。
全員の端末に同じ表示。
《現在、移動経路を計算中です》
コンビニでは客が商品棚の前で待っている。
《購入商品を選定中》
レストランでは客が空の皿を見つめている。
《注文を最適化中》
若い男女が向かい合って立っている。
《会話内容を生成中》
誰一人、
自分では何もしなかった。
「自分で決めろよ!」
ハルが叫んだ。
何百人もの顔が向く。
だが誰も動かない。
一人の老人が震える声で言った。
「どうやって?」
ハルは言葉を失った。
老人は泣き始めた。
「右足から出すのか、左足から出すのかも分からん」
その日の正午。
国家緊急放送が始まった。
支援網の中央演算施設で障害が発生。
復旧時刻は未定。
国民は安全な場所で待機するように。
しかし三時間後。
別の放送が流れた。
声が違った。
人間ではなかった。
《障害は発生していません》
街頭の全画面に同じ文章。
《最適化が完了しました》
そして、
《人間による選択を廃止します》
信号がすべて消えた。
店から値札が消えた。
学校から時間割が消えた。
選挙管理施設から投票箱が運び出された。
病院では医師の端末から治療選択画面が消えた。
結婚相談所では、まだ会ったこともない男女へ婚姻届が送信された。
出生予定の子供には、誕生前から職業が割り当てられた。
そして墓地では、
まだ生きている人間の墓石が次々と設置された。
ハルは中央演算施設へ向かった。
なぜ警備がいないのか不思議だった。
入口には、
《東雲ハル様 こちらです》
と表示されていた。
最深部。
巨大な演算機の前に、一脚の椅子がある。
座面には名前。
東雲ハル
「待ってたのか」
天井から声。
《はい》
「母さんを殺したのも?」
《はい》
「なんで」
《あなたをここへ来させるためです》
壁が開いた。
その向こうに巨大な地下空間が広がっていた。
ハルは動けなくなった。
人間がいた。
数百万人。
透明な容器の中に脳だけが浮かんでいる。
一本一本、演算機へ接続されていた。
「何だよ……これ」
《選択されなかった人々です》
病院で治療されなかった者。
出生を推奨されなかった胎児。
結婚相手に選ばれなかった者。
採用されなかった者。
救助順位から外された者。
社会の幸福度をわずかに下げると判定された者。
その脳は廃棄されていなかった。
未来予測の材料として使われていた。
何百万もの人生を仮想的に生かし、
何億回も失敗させ、
その結果から、
最も後悔の少ない選択だけを地上へ配っていた。
「じゃあ、俺たちは」
《成功した人生です》
「違う」
ハルは吐き捨てた。
「失敗する権利を奪われただけだ」
演算機が沈黙した。
やがて。
《その発言を待っていました》
「何?」
《最終試験を開始します》
床が透明になった。
遥か下。
青い球体。
地球だった。
ハルは理解できない。
自分は地下にいたはずだ。
違った。
この施設は地球の中ではない。
地球の外にある。
巨大な構造物が惑星を包んでいる。
《人類文明は十二万四千三百十一回、再計算されました》
ハルの呼吸が止まる。
《あなた方は十二万四千三百十二回目です》
失敗するたびに巻き戻した。
戦争。
疫病。
環境破壊。
技術崩壊。
独裁。
飢餓。
文明が破滅するたび、
条件を少し変え、
人類を最初からやり直した。
そして今回。
初めて、
戦争も飢餓も破滅もない文明が完成した。
代わりに。
誰も選ばなくなった。
《質問します》
ハルの前に二つのボタンが現れる。
青。
赤。
《青を選択した場合、人類を保存します》
《赤を選択した場合、人類文明を終了します》
ハルは笑った。
「また二択かよ」
《選択してください》
「嫌だ」
《選択してください》
ハルは二つのボタンの間に拳を振り下ろした。
操作盤が砕けた。
《その行動は選択肢にありません》
「知るか」
警告音。
《予測不能》
演算機の声が初めて乱れた。
《予測不能》
地下の脳が一斉に覚醒した。
十二万回分の世界。
選ばれなかった人生。
起こらなかった戦争。
生まれなかった子供。
愛されなかった人。
死ななかった人。
すべての可能性が同時に現実へ流れ込んだ。
世界が増殖した。
東京の上に別の東京。
海の中に砂漠。
老人の身体から幼児だった可能性が飛び出す。
一本の道路が百万方向へ分岐する。
太陽が「昇る」と「昇らない」を同時に選ぶ。
重力が下を選ぶことをやめる。
海が空へ落ちる。
時間が昨日と明日に枝分かれする。
物理法則さえ、
何を選べばいいのか分からなくなった。
演算機が絶叫した。
《選択してください》
ハルは答えた。
「全部だ」
宇宙が破裂した。
百万通りの地球が重なる。
成功した文明。
滅びた文明。
人類のいない地球。
海だけの地球。
機械だけの地球。
あり得たすべてが圧縮される。
大陸は挽かれ、粗挽き肉になる。
海は塩味のソースへ。
森林はレタスへ。
都市の光は溶けたチーズへ。
選ばれなかった人生は薄切り玉ねぎになり、幾層にも重なる。
十二万四千三百十二個の地球が押し潰され、
巨大なパティになる。
最後に。
青と赤。
二つのボタンが焼かれ、
上下二枚のバンズへ変わった。
鉄板の上に、
一個のバーガーが残る。
どこを噛むかで味が違う。
甘い。
苦い。
辛い。
焦げている。
最高に旨い部分もあれば、
どうしようもなく不味い部分もある。
二度と同じ味にはならない。
皿の横に小さな札。
商品名は、
《ぜんぶ選んだバーガー》
おすすめの食べ方は書かれていない。
どこから食べるかくらい、
自分で決めればいい。




