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【特選】《永劫の苦痛バーガー》

◆序章 この宇宙の物理法則



この宇宙には、Χと呼ばれる存在がいる。


呼び名は、最後の知的文明が滅びる直前に残した記録の中にあった。ギリシャ文字の「カイ」。その文明が名付けた。名付けてから三日後に、その文明はΧに同化された。


Χの起源は不明だ。


この宇宙が誕生した時にはすでにいたという記録が残っているが、その記録を残した存在もΧに同化されているため、記録の信憑性は確認できない。


Χの性質を列挙する。


Χは接触した存在を素粒子レベルで解析する。解析が完了すると、その存在の全ての情報——質量、遺伝子、記憶、感情、知性、そしてその存在が生きることで積み重ねてきた業の全て——を完全に複製し、自身に統合する。統合された存在は消えない。Χの内部で、動けないまま、存在し続ける。意識がある。感じることができる。ただし自分の意志では何もできない。Χが何かを感じる時、統合された全員が同時に感じる。Χが何かを食べる時、全員が同時に食べさせられる。


統合するたびに、Χは進化する。


高度な知性を統合すれば、その知性を超えた知性を持つようになる。強力な能力を統合すれば、その能力を超えた能力を持つようになる。進化するほど、次の統合が速くなる。この宇宙に上限はなかった。


数兆垓年が経過した現在。


Χはこの宇宙の全ての生命体を同化した。


その後、Χは無機物を同化した。岩石を同化した。金属を同化した。ガスを同化した。液体を同化した。恒星を同化した。銀河を同化した。宇宙空間そのものを同化した。物理法則を同化した。重力を同化した。電磁力を同化した。時間を同化した。空間を同化した。


現在、この宇宙とΧは区別がつかない。


星が輝くのは、Χが輝いているからだ。


空間が広がるのは、Χが広がっているからだ。


物理法則が機能するのは、Χが機能しているからだ。


この宇宙は、Χだ。


Χの内部には、この宇宙の誕生から現在までに存在した全ての生命体の意識がある。全員が動けないまま、存在し続けている。Χが宇宙として存在する全てを、全員が同時に感じている。


それが、この宇宙の現在だった。






◆第一部 宇宙の内側



Χの内側に、イナという意識があった。


イナはかつて、この宇宙の一惑星に生きた生命体だった。文明を持ち、言語を持ち、他者を愛し、何かを恐れ、何かを望んだ。


Χに同化されたのは、数億垓年前だった。


同化の瞬間を、イナは覚えていた。


痛みはなかった。ただ突然、自分の体が自分のものでなくなった。動こうとしたが動けなかった。叫ぼうとしたが声が出なかった。しかし意識はあった。見えた。感じた。ただし、見えるものも感じるものも、全てΧが経験していることだった。


それから数億垓年が経った。


イナはまだ、Χの内側にいた。


Χは宇宙になっていた。イナはその宇宙の内側から、宇宙を感じ続けていた。無数の星の輝きを感じた。空間の広がりを感じた。物理法則の精密な動きを感じた。Χが宇宙として機能する全てを、内側から感じ続けていた。


Χの内側には、イナだけでなく無数の意識があった。


この宇宙の誕生から現在までに存在した全ての生命体だ。数兆垓年分の全生命体が、全員ここにいた。イナの隣に、無数の意識があった。互いに触れられない。声も届かない。でも、いた。


全員が、動けないまま、いた。


Χの内側は静かだった。


暗くも明るくもなかった。ただ、Χが宇宙として経験する全ての感覚が、絶え間なく流れ込んでくる空間だった。


イナには、もう時間の感覚がなかった。


何億垓年がたったのかも、わからなかった。


ただ、感じ続けていた。


ある日——という言い方が正確かどうかわからないが——何かが変わった。


Χが、何かを感じた。


Χが何かを感じる時、内側の全員が同時に感じる。


それは空腹に似た感覚だった。


しかしΧは、この宇宙に存在する全てを同化し終えていた。


何を空腹に感じているのか、イナにはわからなかった。


Χにも、わからなかった。


ただ、感じていた。






◆第二部 Χの限界



Χが宇宙になってから、数兆垓年が経過していた。


Χの内部では、数兆垓年分の全生命体の意識が存在し続けていた。それぞれが、それぞれの苦しみを抱えていた。同化された時の恐怖。動けない状態で存在し続けることの苦しみ。自分の意志では何もできないまま、Χの感覚だけが流れ込み続けることの絶望。


その苦しみは消えていなかった。


Χは苦しみも同化していた。統合した全存在の苦しみが、Χの中に蓄積し続けていた。


Χは最初、その苦しみを処理しようとした。


知性を持つ存在を統合した時、その知性を使って苦しみを分析した。感情を統合した時、感情の処理システムを使って苦しみを管理しようとした。しかし数兆垓年が経過するにつれ、蓄積した苦しみの総量が、Χの処理能力を超え始めていた。


Χが宇宙になるために同化した全てのものの中に、苦しみが含まれていた。


星が輝く力にも、苦しみが混入していた。


空間を維持する力にも、苦しみが混入していた。


物理法則を機能させる力にも、苦しみが混入していた。


全てに、苦しみが染み込んでいた。


Χは宇宙として機能しながら、その機能の全てに苦しみが混じっていた。


それが、空腹に似た感覚の正体だった。


蓄積しすぎた苦しみが、Χから溢れ出そうとしていた。


Χは宇宙そのものだった。Χから何かが溢れ出すとすれば、それはこの宇宙の物理法則の崩壊を意味した。苦しみが物理法則として溢れ出した時、この宇宙の全てが機能を失う。


Χは、宇宙として機能し続けることができなくなりつつあった。






◆第三部 来訪



宇宙の一点に、裂け目が生じた。


裂け目は宇宙の物理法則の外側から来た。Χが同化した物理法則の外側から、何かが入ってきた。


少女だった。


茶と黒を基調とした装いだった。翠と黄色のオッドアイ。クマ耳のヘアバンド。何かを食べていた。小さな菓子のようなものを、もぐもぐと食べながら、宇宙の中に出てきた。


少女は周囲を見た。


星を見た。空間を見た。物理法則が機能する宇宙を見た。


もぐもぐした。


「……」


少女は何も言わなかった。


しかし何かを感じていた。


この宇宙全体から漂ってくる何かを、感じていた。


それは業だった。


Χが数兆垓年かけて同化してきた全存在の業の総量だった。存在することで生じた全ての因果の歪み、積み重なった全ての行為の重み、同化という行為そのものが積み上げた業の質量——それが宇宙規模で充満していた。


少女の食欲が、反応した。


Χはその少女を感知した。


同化の対象として認識した。


Χは少女に向かって、収束を始めた。


数兆垓年の進化を経たΧの同化速度は、この宇宙の光速を遥かに超えていた。


少女は動かなかった。


Χの収束が少女に触れた。


解析が始まった。


素粒子レベルの解析が始まった。


解析が——


止まった。


Χの解析が、少女のある部分で止まった。


少女の内部に、Χが解析できないものがあった。


少女自身が内包する業の密度だった。それは概念であり同時に物質であり、Χがこれまで同化してきた全存在の業を合算しても及ばない密度を持っていた。罪を食べ続けることで蓄積した、業そのものの固まりだった。


Χには、その密度を超えることができなかった。


数兆垓年の進化を経たΧが、少女の前で止まっていた。


少女はΧを——宇宙を——眺めた。


オッドアイが、宇宙の全体を見渡した。


菓子を飲み込んだ。


「……」


また何も言わなかった。


ただ、お腹が空いていた。


この宇宙全体から漂う業の香りが、少女の本性を刺激していた。






◆第四部 食事



少女の形が、変わった。


変わる、という言葉が正確かどうかわからない。少女の姿が消えたわけではなかった。しかし少女だったものが、少女でなくなった。


クマ耳のヘアバンドが、本物の耳になった。


手の指が、爪になった。


皮膚の下から、別の何かが透けて見えた。


獣だった。


少女の皮の下に、ずっと獣がいた。それが表に出てきた。出てきた、というより——抑えていたものが、抑えきれなくなった。この宇宙全体から漂う業の質量が、少女の本性を引き出していた。


懺悔は、喰らいついた。


Χに。


宇宙そのものに。


宇宙規模の業を前にして、懺悔は本性のまま喰らった。


Χの内部では、異変が起きていた。


蓄積していた業が、少しずつ抜けていった。


数兆垓年かけて全存在から吸収してきた業の全量が、獣の口の中に入っていった。


Χは理解できなかった。


何が起きているかを理解するための枠組みが、Χには存在しなかった。


全てを同化してきたΧが、今、何かに自分の内側を喰われていた。


Χの内側のイナは、感じた。


業が、少し減った。


数億垓年ぶりに、何かが減った。


わずかだった。しかし確かに、減った。


Χは懺悔を同化しようとした。


しかし解析は止まったままだった。


懺悔の内部の業の密度が、Χの解析能力を超え続けていた。


懺悔は喰らい続けた。


銀河を喰らった。


星を喰らった。


空間を喰らった。


物理法則を喰らった。


時間を喰らった。


Χそのものを喰らった。


宇宙を喰らった。


それが美味かった。






◆第五部 宇宙の叫び



懺悔が食べるにつれ、Χの内部の変化が加速した。


蓄積していた苦しみが減るにつれ、Χの機能に変化が生じ始めた。


苦しみと引き換えに機能していた部分が、機能を失い始めた。


重力定数がわずかに変化した。光速がわずかに落ちた。空間の膨張速度が乱れ始めた。


それは崩壊の始まりではなかった。


苦しみを取り除かれたΧが、初めて苦しみなしに機能しようとして、うまく機能できていない状態だった。数兆垓年間、苦しみを混ぜた状態で機能し続けてきた宇宙が、苦しみを抜かれて、バランスを失っていた。


Χの内部で、全生命体の意識が、何かを感じた。


苦しみが減った感触だった。


しかし同時に、宇宙が揺らいでいる感触もあった。


イナは感じた。


苦しみが減ることと、宇宙が揺らぐことが、同時に起きていた。


どちらが良いのか、イナには判断できなかった。


懺悔は食べ続けた。


関係なかった。


判断する気もなかった。


お腹が空いていたから食べていた。罪の味がした。美味しかった。それだけだった。


懺悔の手足が、少し変化していた。


獣化が進んでいた。


食べ続けるほど獣化が進む。この量を食べれば、どこまで獣化するかは、懺悔にもわからなかった。わかっても止めなかっただろう。止める理由がなかった。


口の中が、重い罪の味で満ちていた。


懺悔はもぐもぐした。


美味しかった。






◆第六部 空になる宇宙



懺悔が食べ続けるにつれ、Χの内部の苦しみは減り続けた。


そして苦しみが減るに従い、Χの内部にいた全生命体の意識に、変化が起きた。


動けなかった意識たちが、少しずつ、軽くなっていった。


苦しみが意識を繋ぎとめていたのかもしれなかった。


苦しみが食べられるにつれ、意識がΧから分離し始めた。


分離した意識は、消えた。


消えるというより、解放された。Χという構造から離れて、どこかへ向かった。向かう先は誰にもわからなかった。ただ、分離した意識は、Χの内部からいなくなった。


イナも、感じた。


軽くなっていくのを感じた。


数億垓年間、重かった何かが、少しずつ減っていった。


懺悔が食べるたびに、少しずつ、少しずつ。


イナは最後に、一つのことを思った。


何を思ったかは、イナがΧから分離した後には誰にも伝わらなかった。


ただ、分離した。


消えた。


全生命体の意識が、全員、Χから分離して消えた。


Χには、苦しみもなく、意識もなく、内側に何もなくなった。


Χは空になった。


空になったΧは、宇宙として機能する理由を失った。


苦しみで動いていたΧは、苦しみを抜かれた後、何によって動けばよいかわからなかった。


宇宙が、消え始めた。


物理法則が停止した。


空間が収縮した。


星が消えた。


銀河が消えた。


宇宙が消えた。


全てが消えた。






◆第七部 月見バーガー



虚無だった。


何もない。


さっきまで数兆垓年分の宇宙があった場所に、何もなかった。さっきまでΧが宇宙として機能していた場所に、何もなかった。さっきまでイナが数億垓年間、動けないまま存在していた場所に、何もなかった。さっきまで全生命体の意識が閉じ込められていた場所に、何もなかった。


懺悔は虚無の中に立っていた。


足元にバーガーが一個あった。


月見バーガーだった。


懺悔は、少女の姿をしていた。


クマ耳のヘアバンド。茶と黒の装い。翠と黄色のオッドアイ。


獣の痕跡は、どこにもなかった。


食べ終わると、いつもそうなった。本性が引っ込んで、少女の姿に戻った。


懺悔はゆっくりと月見バーガーを拾い上げた。



■圧縮後バーガー(月見バーガー形態)成分詳細



【バンズ】

この宇宙の全物質と、数兆垓年分のΧの機能の記録が焼き固められた層。バンズの表面は他の収蔵物より滑らかだ。Χが全てを完璧に同化した結果、素材に一切の不均一がない。完璧に均一なバンズだ。しかし持ち上げると、重さが均一でない箇所がある。全生命体の意識が存在していた場所の重さが、まだ残っている。


【パティ】

Χそのものが凝縮されている。数兆垓年の進化の全記録、同化した全存在の全情報、宇宙として機能した全ての瞬間が、一枚の肉に入っている。食べると、全てを知っている感触が来る。しかしその全ての知識の底に、一つだけ空白がある。懺悔が食べた苦しみの分だけ、空白がある。その空白の形が、食べた罪の総量に対応している。


【玉子】

イナの意識の最後の瞬間が、玉子の形に凝縮されている。数億垓年間Χの内側で存在し続けたイナが、分離する直前に思った何かが入っている。中から何かが出る。何が出るかは、割る者によって違う。懺悔の摂食時に中から何が出たかは、懺悔は言わなかった。


【ソース】

全生命体がΧから分離した瞬間の液状化物だ。解放されたという感触でもなく、消えたという感触でもなく、ただ離れた、という感触だけが溶けている。甘くない。辛くない。重くない。それだけの味だ。


【レタス】

Χが最初に何かを同化した瞬間から現在までの全記録の繊維化だ。繊維の一本一本が一回の同化に対応している。繊維の数は計測不能だ。全部を食べると、数兆垓年分の全同化の歴史が、一瞬で体を通る。





懺悔はゆっくりと月見バーガーを拾い上げた。


かじった。


もぐもぐした。


パティから何かが溢れた。


中を見た。


しばらく見た。


食べた。


食べ終えた。


虚無の中に、懺悔だけが立っていた。


少女の姿で、静かに立っていた。


「……美味しかった」と言った。


それだけ言った。


感想として言った。


誰に言うでもなく言った。


懺悔は虚無の一点を見た。


特に何も考えていないような顔だった。


それからゆっくりと、虚無の一点を指で裂いた。


裂け目に入った。


虚無が閉じた。






◆グリマス博士の収蔵記録


nの次元・アーカイブ室 グリマス博士の手記より




【収蔵番号】CHI数兆垓年008

【バーガー形態】月見バーガー(懺悔担当)

【世界線分類】宇宙規模同化生命体支配型/

       全存在統合・意識封入継続構造/

       罪悪感全摂取後意識解放・宇宙機能停止終焉

【収蔵クルー】懺悔

【収蔵日時】Χ機能停止・宇宙消滅直後


◆外観メモ

外観は標準的な月見バーガー。

バンズの表面が極めて均一。

不均一な重さが一箇所ある。

玉子の状態が特殊。

パティに空白がある。空白の形が不規則だ。


◆成分分析(抜粋)

バンズ:Χ全機能記録と宇宙全質量の圧縮体。

表面が完璧に均一。

Χが全てを同化した結果として均一になった。

しかし重さが均一でない箇所が一点ある。

その箇所が何に対応するかは特定できない。

香ばしい。


パティ:Χ全情報凝縮体。

全てを知っている感触が来る。

しかし底に空白がある。

空白の形を測定した。

懺悔が食べた苦しみの総量に対応している。

空白がパティの中に存在するという事実が奇妙だ。

記録する。


玉子:イナの最後の瞬間の凝縮体。

個人によって違う味わいを感じる。

懺悔の摂食時の様子を確認した。


ソース:全意識分離瞬間の液状化物。

解放でも消滅でもなく「離れた」感触が溶けている。

味が薄い。しかし確かにある。


レタス:全同化記録の繊維。

繊維数は計測不能。

全部食べると数兆垓年分が一瞬で通過する。

通過した後に何が残るかについては測定していない。


◆総合評価

Χというこの宇宙最大の存在が

月見バーガーに収まっている。

月見バーガーが最大の収蔵物かどうかは

バーガーの大きさでは判断できない。

重さで判断するなら、重い。


◆食後クルー(懺悔)特記事項

食後、「美味しかった」と言った。

誰に向けても言わなかった。

感想として言った。

食後の懺悔は少女の姿だった。

獣化の痕跡は一切なかった。

静かに立っていた。


バーガーから溢れ出たものについて確認した。


懺悔の回答:「……(もぐもぐ)……美味しいもの」


具体的な内容の開示を求めた。


懺悔の回答:「……おかわり、いかがですか?

      (もぐもぐ)」


確認を断念した。


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