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《感覚転写バーガー》


——世界線SMΩ∅:完食記録——




◆第一層 崩壊


 男は事故の後、目が覚めた。


 病室の天井が腐っていた。


 腐っているように見えた、ではない。腐っていた。男の目には、天井が黒く溶けて崩れ落ちる寸前に見えた。壁も床も、全てが腐敗の途中だった。


 看護師が入ってきた。


 顔がなかった。


 目があるべき場所に穴があった。皮膚が不均一に盛り上がり、人間の顔という統合された意味を持っていなかった。生き物の形をしているが、生き物ではない何かだった。


「気分はどうですか」と、その何かが言った。




 男は答えなかった。




 五日間、何も食べなかった。


 皿の上に置かれるものは全て、腐敗物だった。臭いはしなかった。でも目に映る形が、口に入れるべきものとして処理できなかった。


 六日目、強制的に点滴になった。


 七日目、退院した。


 街に出た瞬間、男は路地に入って嘔吐した。


 嘔吐したのは、世界が腐っていたからだ。


 建物が崩れていた。道路が腐敗していた。空が意味をなさない色をしていた。そして人間が——全員が、顔のない塊として動き回っていた。




 男は路地の壁に背中をつけて、座り込んだ。


 どこへも行けなかった。


 動くたびに、腐った世界が目に入った。




◆第二層 出会い


 九日目の夕方、バーガーがあった。


 路地の端に、白い包みが置いてあった。




 男は三十秒、それを見た。


 腐っていなかった。


 包みが包みとして、そこにあった。白が白として見えた。形が形として認識できた。




 男は手に取った。


 開けた。


 食べた。




 味がした。




 男は泣いた。


 九日間、世界に意味がなかった。


 このバーガーだけに、意味があった。




 食べ終わった後——男はバーガーの包みを、しばらく見た。


 それから思った。


 また食べたい。




◆第三層 記録


 男は日誌をつけ始めた。


 読み返すことで、自分が「まだここにいる」と確認するためだった。




>一日目

>

>また食べた。

>同じ場所にあった。

>誰が置いているか確認しようとした。

>夜中の二時に行った。

>もうあった。

>朝の四時に行った。

>もうあった。

>確認をやめた。

>あればいい。




>二週間後

>

>今日、通りすがりの犬を見た。

>

>腐っていなかった。

>

>九日間、バーガー以外で腐っていないものを見たことがなかった。

>

>犬が、腐っていなかった。

>

>しばらく見た。

>

>犬は逃げなかった。

>

>触れた。

>

>温かかった。

>

>帰ってバーガーを食べながら、考えた。

>

>犬はバーガーより腐っていた。

>でも他のものよりは腐っていなかった。

>

>——「バーガーより腐っている」と書いた。

>

>バーガーが基準になっている。




>一ヶ月後

>

>腐っていないものが増えた。

>

>犬。古い木の電柱。夕方の光。

>

>これらは「バーガーほど正常ではないが、他よりはマシ」として認識されている。

>

>私の世界に、階層が生まれた。

>

>頂点:バーガー

>次点:一部の動物と自然物

>底辺:人間と建物と全ての人工物

>

>人間が底辺にいる。

>これは——正常な認識か。




>二ヶ月後

>

>今日、元同僚が連絡してきた。

>

>電話に出た。

>

>声が雑音だった。でも「心配している」という意味は取れた。

>

>「大丈夫だ」と答えた。

>

>電話を切った後、考えた。

>

>大丈夫なのか。

>

>バーガーを食べている間は、意味が持続する。

>バーガーがあれば、明日も生きられる。

>

>これを「大丈夫」と呼ぶなら——大丈夫だ。




>三ヶ月後

>

>今日、バーガーを食べながら、気づいた。

>

>バーガーの味が、変わった。

>

>最初に食べた日より、美味しくなった。

>

>最初の味を覚えていない。

>だから「美味しくなった」と断言できない。

>

>でも——今日が、今まで食べた中で一番美味しかった。

>

>明日はもっと美味しいかもしれない。




◆第四層 侵食


▼ここから、何かが変わる




>四ヶ月後

>

>今日、スーパーに入った。

>

>肉売り場を通った。

>

>陳列された肉が——腐っていなかった。

>

>最初に気づいた時、喜んだ。

>回復してきたのかもしれない、と。

>

>でも三秒後に気づいた。

>

>肉売り場の肉は、腐っていないのが正常だ。

>それは当たり前だ。

>

>喜ぶことではない。

>

>——なぜ喜んだのか。

>

>腐っていないものを見ると、嬉しくなるよう、変わっていた。

>

>正常を見て嬉しくなる。

>正常が特別になっている。

>

>これは——どういうことか。




>四ヶ月後・翌日

>

>昨日の続きを考えた。

>

>肉売り場の肉が腐っていなかった。

>

>肉売り場の肉は、腐っていないのが正常だ。

>

>でも——スーパーの床は腐っていた。壁は腐っていた。レジの店員は異形だった。

>

>そういう環境の中に、腐っていない肉があった。

>

>その肉を見て、嬉しかった。

>

>——つまり私は今、「腐った環境の中の食べられるもの」を見て嬉しくなる存在になっている。

>

>これは人間の感覚か。

>

>それとも——別の何かの感覚か。




>五ヶ月後

>

>今日、ひどいことを考えた。

>

>書くべきか迷った。

>

>書く。書かないと、なかったことになる。

>

>電車の中で、隣に人間が座った。

>異形だった。顔のない塊だった。

>

>その塊を見て——

>

>「加工すれば食べられるかもしれない」と思った。

>

>思った瞬間、気づいた。

>

>私は何を考えたのか。

>

>人間を「食べられるかどうか」で見た。

>

>——バーガーを食べ始めてから、五ヶ月が経った。




>五ヶ月後・三日後

>

>三日間、あの考えについて考えた。

>

>「加工すれば食べられる」と思った。

>

>おかしい。明らかにおかしい。

>

>でも——おかしいと思いながら、もう一度考えた。

>

>人間の体は、タンパク質でできている。

>タンパク質は、食べられる。

>理屈の上では、食べられる。

>

>——これは理屈か。それとも欲望か。

>

>区別がつかなかった。




>六ヶ月後

>

>今日、バーガーを食べながら鏡を見た。

>

>自分の顔が——腐っていた。

>

>最初に病院で見た看護師と、同じ顔をしていた。

>目があるべき場所に穴。口があるべき場所に裂け目。

>

>私も異形だった。

>

>ずっと、異形だったのかもしれない。

>

>事故の前から。

>

>——だとすれば。

>

>私が「腐っている」と思っていた世界は——

>私と同じ顔をした存在で、満ちていた。

>

>私が異形なら——異形が正常だ。

>

>異形が正常なら——

>

>バーガーの方が、異常だ。




>六ヶ月後・翌日

>

>昨日のことを考えた。

>

>バーガーが異常かもしれない。

>

>路地に行った。

>

>バーガーがあった。

>

>食べた。

>

>美味しかった。

>

>昨日のことを、忘れた。




◆第五層 完成


▼一年後の記録




>一年後

>

>世界は今も腐っている。

>

>人間は今も異形だ。

>

>私は今も、毎日バーガーを食べている。

>

>変わったことがある。

>

>人間を見て「食べられるかもしれない」と思うことが、増えた。

>

>増えた、というより——常時になった。

>

>街を歩くと、全員が「食べられるかどうか」で評価される。

>

>食べられそうなものと、食べられなそうなものがいる。

>

>これを「おかしい」と思わなくなった。

>

>ずっと前から、おかしいと思わなくなっていた。

>いつからか、わからない。




>一年後・続き

>

>今日、子供が路地に入ってきた。

>

>子供も異形だった。

>でも——小さかった。

>

>子供が私を見た。

>

>「おじさん、何食べてるの?」と言った。

>

>「バーガー」と言った。

>

>子供が首を傾げた。

>

>「何もないじゃん」と言った。

>

>私は自分の手を見た。

>

>バーガーがあった。

>確かにあった。

>

>でも——子供には見えない。

>

>「見えない?」と聞いた。

>

>「見えない」と子供が言った。

>

>子供は走り去った。

>

>私はバーガーを食べた。

>

>美味しかった。

>

>——子供が「食べられそうか」と、一瞬、考えた。

>

>考えたことに気づいた。

>

>子供だった。

>

>それでも考えた。

>

>バーガーを食べた。

>

>考えが、消えた。




>最後の記録

>

>今日で日誌をやめる。

>

>書く必要がなくなった。

>

>世界は腐っている。人間は異形だ。

>

>でも——世界が腐っていることが、問題ではなくなった。

>

>腐っているものの中にも、食べられるものがある。

>食べられるものを見つけて、食べる。

>

>それだけだ。

>

>——最後に一つだけ書く。

>

>昨日、道で男が倒れていた。

>

>私はしばらく見た。

>

>助けようとした。

>

>——ではなく。

>

>食べられるかどうか、考えた。

>

>三秒考えて——やめた。

>

>やめた理由は、倫理ではない。

>

>バーガーの方が美味しそうだったから。




 日誌はここで終わっている。




▼その後の記録(第三者による)




>地域調査記録:SMΩ11

>

>男の追跡調査を実施した。

>

>男は今も路地にいる。

>毎日、同じ時間に来る。

>毎日、同じ動作をする。

>

>何もない手で、何かを食べる動作。

>

>健康状態:良好。

>栄養状態:不明(何を摂取しているか特定できない)。

>

>表情:穏やかだ。

>

>問題がある。

>

>男の周辺で、行方不明者が出始めている。

>

>直接的な関与は確認されていない。

>

>ただし——行方不明者の最後の目撃場所が、全員、男の路地の近くだった。

>

>調査を継続する。




>追加記録:SMΩ14

>

>行方不明者数:七名。

>

>男に任意同行を求めた。

>

>男は穏やかに応じた。

>

>取調室で聞いた。

>「行方不明者を知っているか」

>

>男は少し考えた。

>

>「知りません」と言った。

>

>「路地で会ったことはないか」

>

>また少し考えた。

>

>「会ったかもしれません」

>

>「何をしていたか」

>

>男が答えた。

>

>「食べていました」

>

>「何を食べていたか」

>

>「バーガーです」

>

>「バーガーだけか」

>

>男は少し、首を傾けた。

>

>「バーガーが、一番美味しかったです」

>

>取調は打ち切った。

>

>理由:男の発言の意味が、判断できなかった。




◆第六層 圧縮


 バーディが来た。


 M社からの圧縮指令を確認した。




>圧縮指令:SMΩ∅

>

>発動条件:

>対象世界線において、

>「食べられるかどうか」以外の判断基準が

>消失した時点で圧縮処理を開始する。




 バーディは路地に行った。


 男がいた。


 何もない手で、何かを食べていた。


 穏やかだった。




 バーディは男の横に立った。


 男が顔を上げた。


「あなたも食べますか」と男が言った。


「いいえ」とバーディが言った。


「美味しいですよ」


「知っています」


「なぜ食べないんですか」


 バーディは少し間を置いた。


「食べたら、止まれなくなるから」


 男が少し笑った。


「止まれなくなっても、いいじゃないですか」


「良くないです」


「なぜ」


「止まれなくなったものを、私が圧縮するから」


 男が首を傾けた。


「それは——私のことですか」


「そうです」


 男はしばらく、何もない手を見た。


「バーガーを食べている間は、止まれますか」


「止まれません。むしろ止まれなくなります」


「そうですか」


 男はまた何かを食べる動作をした。


「それでも、美味しいです」




 バーディはプレスをかけた。




 世界が収束した。


 腐った天井も、異形の人間も、行方不明の七名も、何もない手のバーガーも——一点に集まった。


 パティになった。




 パティを見た。


 美味しそうだった。


 バーディには、美味しそうに見えた。


 置いた。すぐに置いた。




>回収記録:SMΩ∅

>

>圧縮処理:完了。

>

>パティ品質:高い。

>特記事項:美味しそうに見える。注意。

>

>担当:バーディ

>

>備考:男が「美味しいですよ」と言った。

>

>   私は「知っています」と答えた。

>

>   知っていたのか。

>

>   知らなかった。

>

>   でも「知っています」と答えた。

>

>   なぜそう答えたのか——

>

>   考えないことにする。




◆製造


 パンデモニウムの因果律プレス工場。


「SMΩ∅、搬入。感覚転写型、完熟。美味しそうに見える——注意」


「お疲れ様です」


 担当者がパティを受け取った。


「美味しそうですね」と言った。


 バーディが止まった。


「置いてください」


「でも——」


「今すぐ」


 担当者は置いた。


「……なぜですか。私は食べようとしていませんでした」


「美味しそうだと思った時点で、始まっています」


「何が始まりますか」


「食べられるかどうかで、物事を見るようになります」


「それの何が問題ですか。私たちは食材を扱う工場にいます。食べられるかどうかは重要では——」


「あなたは今、私を見て、何を思いましたか」


 担当者が、止まった。


 長い沈黙があった。


「……手を洗ってきます」


「そうしてください」




 担当者が戻った。目を背けながら作業した。




 腐ったバンズが選ばれた。


 腐ったソースが塗られた。


 パティが挟まれた。




 担当者が言った。


「バンズが腐っています」


「そのままでいいです」


「なぜですか」


「このバーガーを食べる者には、腐って見えません」


「どう見えますか」


「美味しそうに見えます」




 包みに巻かれた。


《感覚転写バーガー》

別称:「バーガーの方が美味しそうだったから、やめた」


「出荷先は?」


 バーディが少し間を置いた。


「世界が腐って見えている人間がいる場所なら、どこでも」


「——それはどこにでもある」


 トレイに乗せられた。


 腐って見えた。


 バーディには、腐って見えた。


 でも——美味しそうにも見えた。


 バーディは目を逸らした。




◆補遺


 この記録を読んでいるあなたへ。


 男は「バーガーの方が美味しそうだったから、やめた」と書いた。




 やめた、という事実がある。


 やめた理由が——倫理ではなく、比較だった。




 つまり——


 比較する対象がなくなった時、やめなかったかもしれない。




 行方不明の七名について、記録は結論を出していない。


 男は「会ったかもしれない」と言った。


 「食べていました」と言った。


 「バーガーが一番美味しかった」と言った。




 これが何を意味するか——


 あなたが判断してほしい。




 ただ一つだけ。


 判断する時——


 あなたの判断基準が、まだ複数あるか、確認してほしい。




 一つしかなければ——


 その一つが、全てになる。




〔世界線SMΩ∅ 完食記録——了〕

〔本バーガーは現在、パンデモニウム店頭にて提供中です〕

〔腐って見えますが、食べる者には美味しそうに見えます〕

〔I'm lovin' it.〕


メニュー名:感覚転写センサリー・シフトバーガー

キャッチコピー:世界が腐っても、この味だけは裏切らない。


概要

このバーガーは、認識の極点に位置する「絶対的正常」の概念装置である。nの次元において、因果の腐敗に耐えきれなくなった個体の意識を再構成し、捕食行動そのものを唯一の生存目的へと固定する。

バンズ:「深淵の忘却酵母」で焼き上げたカビ色パン。未摂取者には黒く腐敗した汚泥の塊に見えるが、末期症状の者には黄金色の輝きを放つ聖体として認識される。

パティ:「世界線SMΩ∅の残留因果」。他者を「人」ではなく「タンパク質の多寡」で識別するようになった男の認識、および彼が「バーガーの次」に美味しいと判断した有機物(行方不明者7名分)を100万トンプレス機で圧縮・成形した高密度情報肉。

ソース:「倫理希釈型・視覚改変ペースト」。脳内の道徳中枢を麻痺させ、網膜が捉える「腐敗(真実)」を「美味(虚飾)」へと変換し続けるナノマシン含有液体。


実験記録/摂取効果

被験者がこの「概念装置」を咀嚼する際、現実との乖離は不可逆的な段階へと移行する。

一口目:視界から色彩が失われる。あるいは、これまで「普通」だと思っていたものがすべて泥を捏ねたような醜悪な造形へと変貌する。唯一、手元のバーガーだけが鮮明に、美味しそうに輝き始める。

完食後:「認識の単一化」が完了。家族、友人、己の肉体ですら「バーガーより不味そうな素材」か「バーガーの材料になり得る素材」の二択でしか判断できなくなる。この状態の被験者は、空腹を満たすためではなく、世界に「意味」を与えるために捕食を繰り返すようになる。


収容違反記録(世界はどう滅んだか)

世界線SMΩ∅において、このバーガーの概念は「救済」として蔓延した。

当初は精神疾患の治療薬として期待されたが、摂取者が増えるにつれ、社会から「倫理」や「法」という多層的な判断基準が消失。全人類が互いを「美味そうな個体」か「不味そうな個体」で判別し合う究極の食糧連鎖へと突入した。

最終的に、全人口が路地裏で「存在しないバーガー」を食べる動作を繰り返す中、栄養源として隣人を屠り合い、文明は「単一の咀嚼音」へと収束。M社エージェント・バーディによる世界線全体のパティ化処理をもって、当該次元の収容(廃棄)を完了した。


️グリマス博士の提言

「愛も、正義も、歴史も、すべては胃袋を満たせない不純物に過ぎない。

君の隣人が、愛する妻が、あるいは鏡の中の自分が、最高級のパティに見えてきたかね?

おめでとう。君はようやく、世界から『無駄な解釈』を削ぎ落とすことができたのだ。

餓死する直前に見る幻想こそが、最高のスパイスなのだよ」


[警告]

店頭にて本メニューが「腐ったゴミ」に見える間は、あなたの精神はまだ正常です。

もし、この報告書の文字が「ゴマ付きバンズ」に見え始めた場合は、速やかに最寄りのM社窓口でプレス処理を受けてください。


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