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《巡礼する孤独の亡霊バーガー》


——世界線NEΩ∅:完食記録——




◆第一層 出現


 小説家の机の上に、バーガーがあった。


 朝、目が覚めたら置いてあった。


 包み紙に「サヨナラを食べよう」と書いてあった。


 男は五十一歳だった。


 二十三歳から小説を書いていた。


 二十八年間、書き続けていた。


 代表作が一つあった。三十二歳の時に書いた長編小説だった。その後、何を書いても「代表作には及ばない」と言われ続けた。


 十九年間、そう言われ続けた。


 バーガーを見た。黄金に光るバンズ。包み紙の「サヨナラを食べよう」という文字。


 食べた。


 理由を後で聞かれたら、こう答えただろう。


「腹が減っていたわけではない。ただ、その文字が、小説の冒頭の一行みたいだったから」




◆第二層 執筆記録


 男は執筆中、常にメモを取っていた。着想、断片、言葉の欠片。それを全部ノートに書いていた。


 以下は、摂食後に書かれたノートの全文である。




>一日目

>

>食べた。

>

>変な味だった。

>スコッチウイスキーと、バラと、土の味がした。

>

>食べた後、少し意識がぼやけた。

>夢と現実の境界が曖昧になる感じ。

>

>それから、言葉が出てきた。

>

>「雨が降り始めた頃、彼はまだ自分の名前を知っていた」

>

>どこかで読んだ文章ではない。

>でもどこかで読んだ気がした。

>

>ノートに書き留めた。




>三日目

>

>言葉が止まらない。

>

>自分が書いているのか、書かされているのかわからない。

>

>今日書いた文章:

>「彼女は百年前の海を知っていた。自分が生まれる前の海を。波の音ではなく、波に乗った誰かの孤独の音として。」

>

>これは誰の文章か?

>

>自分の文章だ。でも自分ではない誰かの記憶が入っている気がする。

>

>まあいい。こういう感覚は珍しくない。

>良い文章が書けている。それだけでいい。




>一週間後

>

>今日で原稿用紙三百枚分を書いた。

>

>七日間で三百枚。

>かつて最速だった時でも月に百枚だった。

>

>速すぎる。

>でも止められない。

>

>書きながら、自分が誰なのか、少し曖昧になる瞬間がある。

>書いている登場人物と自分の境界が、薄くなる感じ。

>

>小説家ならよくある感覚だと思っていた。

>

>でも今日、鏡を見たら、少し透けていた。

>

>気のせいかもしれない。

>光の角度だと思う。




>二週間後

>

>妻が「最近どこかに行ってしまいそう」と言った。

>

>私は答えようとした。

>

>でも何を答えればいいか、わからなかった。

>私自身が今どこにいるか、わからなかったから。

>

>書いている間、私はダブリンにいる。

>書いている間、私は赤土の村にいる。

>書いている間、私は百年前の船の上にいる。

>

>ここに帰ってくると、ここが遠い。

>

>妻の顔が、登場人物の顔に重なる。




>三週間後

>

>今日、書いていた登場人物が死んだ。

>

>悲しかった。

>

>こんなに悲しかったのは、初めてかもしれない。

>自分で書いた登場人物の死に、こんなに泣いたのは。

>

>いや——

>

>私は「書いた」のだろうか。

>

>それとも「見た」のだろうか。

>

>その登場人物が死ぬのを、私は知っていた。

>知っていたのに、止められなかった。

>

>あるいは——

>

>私は書く側ではなく、見る側に変わっているのかもしれない。




>一ヶ月後

>

>妻が泣いていた。

>

>「あなたが透けていく」と言った。

>

>私は手を見た。

>確かに、少し透けていた。

>向こうの壁が、手の平の向こうに見えた。

>

>妻に触れようとした。

>触れた。触れられた。まだここにいる。

>

>でも「ここにいる」という感覚が、薄かった。

>

>私は今、どこにいるのか。

>

>書いている物語の中にいるのか。

>現実にいるのか。

>

>どちらにも、いる気がする。

>でもどちらにも、完全にはいない気がする。




>六週間後

>

>今日、気づいた。

>

>私が書いている物語の主人公は、小説家だ。

>三十二歳の時に代表作を書いた男だ。

>その後、何を書いても「代表作には及ばない」と言われ続けた男だ。

>

>——これは私の話だ。

>

>でも、私が書いているのか。

>それとも私が、誰かに書かれているのか。

>

>どちらかわからない。

>

>ただ、どちらでも構わない気がしてきた。

>

>物語の中でも、ここでも、どちらでも生きている。

>それでいいかもしれない。




>二ヶ月後

>

>体が、かなり透けている。

>

>妻が毎日泣いている。

>でも私は書くのを止められない。

>

>止めたくない、というより——

>止め方がわからない。

>

>私はもう、物語の外にいる時間よりも、

>物語の中にいる時間の方が長い。

>

>今日、妻に手紙を書いた。

>

>「二十八年間、読んでくれてありがとう。

>私はしばらく、物語の中にいます。

>帰り方がわかったら、帰ります。」

>

>書き終わって、置いた。

>

>次の章を書き始めた。




>最後のページ

>

>書いている。

>

>どこにいるかわからない。

>

>でも言葉が出てくる。

>

>出てくる言葉を書く。

>

>それだけをしている。

>

>————

>

>今日、物語が終わった。

>

>最後の一行を書いた。

>

>「彼はペンを置いた。それがどこなのか、彼にはわからなかった。でも、それでよかった」

>

>書き終わった。

>

>————

>

>包み紙だけが、残っている。




◆第三層 波及


▼男が消えた後


 男が残した原稿が出版された。


 妻が送り出した。


 本は売れた。


 読んだ人間が言った。


「どこかで読んだことがある気がする。でも初めて読む。この感覚は何だろう」


 別の人間が言った。


「読んでいる間、自分がどこにいるかわからなくなった」


 また別の人間が言った。


「読み終わった後、自分の名前を確認した」




▼三ヶ月後


 本が百万部売れた。


 読んだ人間の十パーセントが、軽い変容を起こした。


 「自分が誰かの物語の登場人物ではないか」という感覚を持つようになった。


 「今起きていることが、どこかで読んだことがある気がする」という感覚を持つようになった。


 日常の言葉が、どこか文学的になった。


「今日の夕飯、何にする?」という問いに、


「夕暮れが窓を赤く染める頃、彼女は冷蔵庫を開けた」と答えた人間が出た。


 本人は気づかなかった。




▼一年後


 世界中の文字が、少しずつ意志を持ち始めた。


 看板の文字が、毎朝少し変わっていた。


 「出口」という文字が「出口はここではない」に変わっていた。


 「営業中」という文字が「彼女はずっとここにいる」に変わっていた。


 誰が変えたか、わからなかった。


 変わっていることに、気づかない人間が増えた。




▼三年後


 人々が自分の名前を忘れ始めた。


 忘れた、というより——名前よりも「役割」で自分を認識するようになった。


「私は主人公だ」と言う人間が増えた。


「私は脇役だ」と言う人間が増えた。


「私は今、何ページ目だろう」と呟く人間が増えた。




>社会記録:NEΩ41

>

>世界から「固有名詞」が消えつつある。

>

>人々は名前ではなく、

>「語り手」「聴き手」「傍観者」「悲劇の人物」

>といった役割で互いを呼ぶようになった。

>

>争いは減った。

>物語の中では、登場人物は与えられた役割を演じるから。

>

>でも「明日」という概念が薄れた。

>物語には次の章があるが、

>登場人物には「次の章がどうなるか」はわからないから。

>

>誰も「明日の計画」を立てなくなった。

>「次の展開を待つ」だけになった。




▼十年後


 地球が一冊の書物になった。


 海がインクになった。


 大陸が羊皮紙になった。


 人々は文字になった。


 誰も死ななかった。


 文字は死なないから。


 ただ——「新しい明日」が来なくなった。


 物語は百年のサイクルを繰り返した。


 同じ章が、何度も、繰り返された。




◆第四層 圧縮


 バーディが来た。


 地上には包み紙だけが残っていた。


 無数の、白い包み紙が。


 M社からの圧縮指令を確認した。




>圧縮指令:NEΩ∅

>

>発動条件:

>対象世界線において、

>物理的な地球が書物へと完全変質し、

>因果律が循環の渦に飲み込まれ停止した時点で

>圧縮処理を開始する。




 バーディはプレスをかけた。


 世界が収束した。


 全ての文字が、全ての物語が、全ての「どこかで読んだことがある気がする」という感覚が、男が残した最後の一行が——一点に集まった。


 パティになった。


 読もうとすると文字が見える、でも読めない、薄い琥珀色のパティが、一枚。




>回収記録:NEΩ∅

>

>圧縮処理:完了。

>

>パティ品質:文学的。

>特記事項:パティに文字のような模様がある。

>     読もうとすると変わる。

>     同じ文字が二度と現れない。

>

>担当:バーディ

>

>備考:地上に包み紙が無数に残っていた。

>   一枚だけ、文字が書いてあった。

>

>   「二十八年間、読んでくれてありがとう」

>

>   誰に向けた言葉か、わからなかった。

>   でもバーディは、自分に向けられた気がした。

>

>   気のせいだと思う。

>   回収した。




◆製造


 パンデモニウムの因果律プレス工場。


「NEΩ∅、搬入。文字変質型、完熟。パティに文字あり——読まないこと」


「お疲れ様です」


 担当者がパティを見た。


 文字のような模様があった。


 読もうとして——やめた。


 発酵した思考のバンズが選ばれた。ヴィネグレット・ローズソースが塗られた。パティが挟まれた。


 包みに巻かれた。


《巡礼する孤独の亡霊バーガー》

別称:「帰り方がわかったら、帰ります」


「出荷先は?」


 バーディが少し間を置いた。


「二十八年間、同じことを続けてきた人間がいる場所なら、どこでも」


 トレイに乗せられた。


 包み紙に「サヨナラを食べよう」と印字された。




◆補遺


 この記録を読んでいるあなたへ。


 今読んでいるこの文章は、誰が書いたものか。


 記録者の名前は、どこにも書いていない。


 バーディの名前があるだけだ。


 男の名前も、どこにもない。




 ふと確認してほしい。


 今、あなたはどこにいるか。


 読んでいる間、少しでも「どこかで読んだことがある気がした」か。


 自分の名前を、今すぐ言えるか。




 言えるなら、大丈夫だ。


 まだ物語の外にいる。




 ただ一つだけ。


 この記録を読み終えた後——


 続きが読みたいと思ったか。


 続きがあるような気がしたか。


 もしそうなら——


 あなたは今、何ページ目だろう。




〔世界線NEΩ∅ 完食記録——了〕

〔本バーガーは現在、パンデモニウム店頭にて提供中です〕

〔包み紙に「サヨナラを食べよう」と書いてあります〕

〔I'm lovin' it.〕


メニュー名:巡礼する孤独の亡霊ノスタルジア・エグザイルバーガー

キャッチコピー:「迷子になったあの子も、100年後のあなたも、みんなまとめてスマイル。さぁ、サヨナラを食べよう。」


概要

この個体は、文学的記憶の残滓を極限まで圧縮し、実体化した「概念装置」である。摂取者は、単一の存在でありながら、数千の人生を同時に再体験する。

バンズ:「彷徨える意識の円環」。24時間かけて発酵させた思考のパン。表面には黄金の麦畑のような輝きがあるが、その正体は「自分を探し続ける少年の視線」が結晶化したもの。触れると、戻るべき場所を永遠に失う喪失感に襲われる。

パティ:「100年の沈黙を練り込んだ忘却の肉」。幾世代にもわたる一族の繁栄と没落、そして血塗られた愛の記憶を、M社独自のミンサーで粉砕・成形したもの。噛むたびに、かつて存在した一族の悲鳴と、彼らが愛したスコッチの香りが溢れ出す。

ソース:「星を焼くバラの猛毒ヴィネグレット・ローズ」。大切な存在を飼い慣らす際に生じる「責任」という名の粘着性液体。一滴でも舌に触れれば、全宇宙の孤独が自分の心臓に依存しているかのような錯覚を引き起こす。


実験記録/摂取効果

一口目:意識がダブリンの街並みから、赤土の湿った村へと多層化する。被験者は、自分が「ライ麦畑で崖に向かって走る子供たち」を止める役割なのか、あるいは崖を突き落とす側なのか判別不能に陥る。

完食後:被験者の肉体は透明化し、手に持っていたバーガーの包み紙だけが残される。被験者の全存在は、1冊の「終わらない物語」として世界線に上書きされ、現実空間からは抹消される。彼は永遠に星から星へ、あるいは頁から頁へ、終わりのない放浪を強制される。


収容違反記録(世界はどう滅んだか)

n次元のプロトタイプが漏洩した際、世界中の「文字」が意志を持ち始めた。人々は自身の名前を忘れ、他人の回想録の一部として吸収されていった。

最終的に、物理的な地球は巨大な「一冊の書物」へと変質。海はインクへと変わり、大陸は風化した羊皮紙となった。文明は「100年のサイクルを繰り返す1日の記録」の中に閉じ込められ、因果律は循環の渦に飲み込まれて完全停止した。現在、この世界線において「新しい明日」は定義すらされていない。


グリマス博士の提言

「君たちはいつも、どこか遠くへ行きたがる。あるいは、失った過去を愛でたがる。ならば、このバーガーを与えよう。

ここには君たちが愛した悲劇も、抱きしめたかった孤独も、すべてが完璧な栄養バランスで配合されている。

『永遠に終わらない物語という名の監獄』こそが、彷徨える魂に与えられる最高のスパイスなのだよ。」


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