第10話 ツバメと契約を交わす話
「……思っていたより、時間は無さそうだね」
牡丹と別れた後、何かを考える前に自室に戻った。
ノートを手に取り、ペンをカチカチと鳴らす。向かいのベッドでは、ツバメが足を揺らしながら座っている。
その無邪気さと裏腹に、猶予は少しずつ失われていく。
「今までとは違って、八畑神楽は牡丹の身体が殺す。罪を犯してでも、望みを叶えるつもりね」
「あれは、本人の意思なの?」
「欠片は、そうでしょうね。ほんの少しでもそう思っていれば、悪魔はいくらでも唆せるわ」
カーテンを閉め、電気を点ける。時計の針が前に進むにつれて、決断に迫られているのだと感じる。
椅子の上で胡坐をかき、流れに任せて一回転をした。
「隙を見れば心を覗き、心を覗けば魂を奪う。もう、取り返しのつかない所まで来ているんじゃないの?」
ふっと息を吐く。夜畑神楽と日芽野牡丹、それぞれの境遇を箇条書きにしてみた。
日芽野が手を引くためには、彼の死が必要になる。しかし彼女以外に、夜畑に対して殺意を持つ者はいない。
一見すると介入の余地は無いように思える。しかし……
「……リスクはあるけど、一つ手がある」
「えっ?」
「私も、夜畑は死ねば良いと思ってる。だからこそ、あんなゴミのために、日芽野さんが犯罪者になる必要は無いよ」
ふと携帯の電源を入れる。自分の裏垢は、およそ十。
次に、日暮隼人のラインを開く。事の経緯を知った彼は、いつでも動き出せる状態にある。
できる。可能性は低くとも、土俵に上がる材料は揃った。
「あんたの力が要る。協力してくれる、ツバメ?」
「……一つ、聞きたいことがあるわ」
しかし、彼女はうんとすぐに頷かなかった。一転して真剣な面持ちとなり、こちらの目を見つめる。
「叶芽ちゃんは、どうしてあの子を助けようとするの?」
「……は、何でいきなり?」
「分かってるでしょ? もう、ただの他人が口を出す範疇は超えているのよ」
自分の心を、不意に鷲掴みにされたような感覚があった。
振り返ってみれば、違和感がある。一歩間違えれば死ぬような場所に、立ち続けることへの重圧。
そうまでして彼女を助ける理由は、ただの一つも無いはず。
「私はあくまで、貴方の望みを叶える存在。だから、納得できるような理由を頂戴」
彼女の表情と、ノートを交互に見比べる。首を捻りながら、本当の自分を探して一呼吸。
「助けたいと、思ったから……」
違う。これは自分の、本当の意思とは言えない。
「……ううん、あの子は顔が良いから」
嘘をついて飾らない。ネットに書き連ねるように、ただ思ったことを口にする。
見知らぬ誰かに汚いと蔑まれても、ありのままの姿を。
「傍に置いておけば、良いアクセサリーになる。夜畑がいなければまともだし、暇潰しにはピッタリかな」
目を背ける道もあった。放っていても彼は死に、退屈だった毎日は幸せに満ちるのだから。
でも、それだけでは足りない。瞬きをし、視線を上げる。
「今ここで失うのは、余りにも惜しい」
「……ふっ」
ツバメは俯く。動かしていた足をピタリと止め、全身の力を抜いて沈黙する。
もしや、求めていた答えとはかけ離れていたのだろうか。
口をへの字に曲げる。どうしたものかと狼狽えた瞬間、彼女の表情に再び動きがあった。
「はははっ、あはは……そうよ。私の認めた子なんだから、そうじゃないと」
「何がおかしいの?」
「今の叶芽ちゃん、最ッ高に輝いてるわよ」
決して、笑い物にされるつもりで出した言葉ではないのに。
まるで自分のことのように、ツバメはガッツポーズをして微笑む。こちらに向かって、透けた親指を立てた。
あまり釈然としないが、不思議と悪い感覚とも思えない。
「良いわ、力を貸してあげる。あのゲス男の鼻っ柱、気が済むまで折ってしまいましょう」
彼女の口角が上がる、自分も、それに応じて笑顔を見せた。
汗が滲んでいた手が、徐々に冷えて元に戻っていく。先が見えるようになれば、手の震えも無くなる。
「決行はいつ?」
「……明日。日芽野さんの意表を突くなら、早い方が良いよ」
「そうね。ホタルが動くよりも、先に」
再びスマホの画面を見た。頼みたいことがあります、と十秒余りで打ち、ついでに適当なスタンプを送り付ける。
間も置かず既読が付き、自分が目を逸らす前に返信が来る。
時計の針が前へと進む。既に、彼を潰すための策略は始まりを告げていた。
「……じゃあ、その作戦とやらを私に教えて?」
「ツバメ」
「ん、どうしたの?」
入浴を済ませ、半ば乾いた髪を白いタオルで拭く。
リビングで水を飲み、自室へと戻っていた。本当なら明日に備えて眠りたいが、そうもいかない。
ツバメに声をかける。横になるには、一つ心残りがあった。
「あんたは悪魔だよ。人の幸せを憎み、人の涙を笑う」
「そうね。叶芽ちゃんは別だけど」
「……でも、夜畑もまた化け物。認めたくないけど、悪を制するには、悪の力が要るんだろうね」
悔しかった。事情はあれど、誰かの思い通りに動くのは。
手を上げかけ、躊躇して下ろす。迷った末に、差し出すことを決めた。
「契約書を出して。私も、覚悟を決めるから」
ツバメは目を丸くする。求めていた癖に、おかしな表情。
「へぇ、嫌がってたのに?」
「あんたは私を殺せない。日芽野さんや夜畑の標的がもし私になったら、どうなるか分からない」
罪を背負っても人を殺す。その感覚は分からないが、相当の覚悟があるということだけは見える。
ならば自分も迷わない。そう思って、彼女に身を委ねた。
先程と違い、返事は早い。どこからか取り出した契約書の、署名欄を軽く叩いて押し付ける。
「ある日突然、私が叶芽ちゃんの人生を奪うかもしれないのよ。それでも良いの?」
「もしあんたの魂胆がそうだとしても、すぐには動かないはず。それに……」
外の風が止んだ。ただ、ペンを進める音だけが、明るくも静かな部屋の中で響き渡る。
最後の、芽の文字。憎しみも、自戒の意味も込めて、力一杯に斜めの線を引く。
「私は日芽野さんと違って、隙は見せないよ?」
書面を見せる。彼女が指を鳴らすと、契約書は光と共にツバメの体内へと取り込まれた。
「これで契約は完了。私の道具として、せいぜい働いてもらうからね」
「……よろしくね、叶芽ちゃん」
「うん。よろしく頼むよ、ツバメ」
透けていた足が実体となる。幽霊のような姿をしていた彼女は、自分にしか見えない一人の生物へと。
手を握る。ツバメと契りを交わし、契約者になった証。
仄かに温かさが伝わってくる。そこには、人間と何ら変わらない柔らかい感触があった。
続く




