三十五、追いかけて追いついて
なんとか一階へ降りるとニナは玄関からではなく窓からの脱出を提案する。そして自分はここに残ると言いだした。
「奥様行って下さい! みんなのことは私が上手く誤魔化しておきます。私なら奥様が部屋にいると上手く誤魔化すことが出来ますから」
「でも……」
「奥様、私は奥様を信じると決めました。だって奥様は温かくて優しい人なんです。きっと旦那様もそんな奥様のことが大好きなんですよ。私はここで待っていますから、必ずお二人で帰ってきて下さいね!」
「へえ、ニナにしてはよくわかってるじゃん」
「エリク!?」
「ほら行くよ。迷ってる時間、ないよね?」
そうだ。迷っているうちにも旦那様は遠くへ行ってしまう。私は先に窓から外に出たエリクに続いて城を抜け出した。でも最初から、港にむかうつもりはない。
「ちょっと、そっちは崖だよ!?」
「知ってるわ。港に行くには時間が掛かるでしょう? ここからならすぐに追えるじゃない。ほら、あの船でしょう!?」
見晴らしの良い高台だ。港から出港した一隻の船が良く見えた。青い海に白い帆の美しい船は悠々と進む。どこへ向かうのかはわからないけれど、風向きは良好、今から港に向かって船を出したところで追いつけはしない。
船なら、ね。泳ぎなら誰にも負けない自信があるのよ!
けれど私は大事なことを失念していた。
エリクを置き去りにしそうな勢いで進んでいた私でしたが、道の終わりが見え始めると心臓が嫌な音を立て始めていることに気付いてしまったのです。ついには足が止まり、身体は震え始めていました。主に足が!
「何、どうしたの?」
「私、絶叫系が苦手だって忘れていたの……」
「なんて?」
高いところは平気だった。オーシャンビューも堪能させてもらっているところだ。でも落ちるとなれば話は別よ!
友達と行った遊園地でも、絶対にジェットコースターだけは遠慮したものねえ……
って、遠い目をしたって駄目なんだから! 早く旦那様を追いかけるんでしょ!?
エリクに啖呵を切っておきながら情けない姿を晒し続けるのはごめんよ。
「行く、行くわ。一刻を争うんですもの……そう、そうよね……だからエリク、お願いがあるの。目を瞑っているから背中を押してくれない!?」
応援という意味でも、物理的にもお願いしたいわね。
「嫌だよそれ完全に僕が犯人じゃん!」
「駄目?」
「駄目に決まってるからね!?」
「大丈夫よ! 私は海に落ちても平気なの。事件は何も起きないわ!」
言い争いながらも私は靴を脱いで準備を整えている。
「いや完全に絵が事件現場だよね!? 誰がどう見ても事件だから! 無理無理、僕絶対嫌だからね!? 僕がジェス君に殺されるよ!」
「そこまで言うのなら、仕方がないわね。私一人でも行きます。エリクは港に靴を届けてくれると助かるわ。心配しないで、ちゃんと旦那様と二人で帰るから!」
「いやこれ心配しかないよね!?」
「私、思うのよ。きっと、絶叫系も乗ってみたら楽しかったーーのかもしれないわ。私には隠された絶叫系の才能があったのかもしれない!」
「なんの話!?」
きっと私は覚醒していなかっただけで、本当は大の絶叫好きだった。そう思うとなんだかいけそうな気がする。
こわくないこわくない!
「こわくない!」
エリクの静止を振り切り、助走をつける勇気はないからそっと地面を蹴る。
「エスティ!」
あ――名前、初めて呼んでくれたのね。
でも私はもう止まれない。
恐怖のあまり声は出なかった。ただ歯を食いしばり目を瞑っているいちに身体は海に叩きつけられていた。
「はあ……はあっ!」
きっと一生分の勇気を使い果たしたと思う。けど旦那様が遠くへ行ってしまうことの方がよほど怖ろしい。そう思えばこれくらい!
……二度はないけど! やっぱり私に絶叫系の才能はなかったようです。
崖の上を見上げると、こわごわ顔を覗かせていたエリクに向けて手を振った。この海域が飛び込んでも大丈夫だということは人魚だった頃に調査済みだ。海に潜った私は旦那様の乗る船を目指して全力で泳ぐ。どこまでだって追いかけますよ、旦那様!
泳ぎながらも考えていたのはあの女性についてだ。旦那様がおかしくなったのは、あの人が原因だろうかと疑ってしまう。
洞窟で私たちの会話を聞いていたとして。私を罪人に仕立て上げて自分が王太子妃にでもなるつもりだったの?
いくら考えても正解はわからない。それにまだ、何か決定的な部分がかけている気がする。でも考え事はここまでだ。
人魚にかかれば帆船に追いつくことは容易い。船の元までたどり着くと、私は大声で旦那様の名を呼んだ。
「旦那様! ラージェス様、私ですエスティーナです!」
しばらくして、旦那様が船から顔を覗かせる。でもそれは私に応えてくれた訳じゃない。自分の名前を呼ばれたから振り返っただけのことだと思う。だって旦那様は私の顔を見ても何も言ってはくれないから。そして隣にはあの女性がいる。あまり嬉しくはないけれど、女性の方は私に興味を示してくれた。
「……追いかけてきたわね。別に見ていても構わないけれど、邪魔だけはしないでいただける?」
「邪魔?」
邪魔ですって? 私の邪魔をしているのは貴女でしょう!
「簡単なことですわ」
私の憤りには目もくれず、女性は蛇のように旦那様にまとわりつく。まるで見せつけるように、その手に短剣を掲げた。
「旦那様!? 何をするの!?」
私はとっさに叫んでいたけれど、旦那様は剣を突きつけられても眉一つ動かさない。
「何だなんて、お嬢さんだって教わったはずよ?」
見覚えのある短剣がマリーナ姉さんとの会話を思い出させる。
その短剣は旦那様をさすためのものだと言いたいの? なら、人間に戻るための行為を望む貴女は……そうね。金色の瞳に、私の声を封じたのがいい証拠。この人は私が人魚で、歌で人を操れると知っているのよ。
「貴女……あの時の占い師は貴女ね。その節はお世話になったと思っていたけれど、どういうつもりかしら。まさか人魚だとは思わなかったわ」
「あら、よくご存じなのね」
嬉しそうに顔つきで、軽やかな声が響く。何が嬉しいというの? 私はちっとも嬉しくないわ。出来ることなら、貴女には違う形でもうお礼を伝えたかったのに。
「私もね、女神様に愛されたお嬢さんほどではないけれど、昔から不思議な薬を作るのは得意だったのよ。ほら、見てちょうだい! 凄いと思わない? 王子様には私こそが恩人だと思い込ませたの。お嬢さんのことなんて今頃忘れているのよ。それなのにこんな所まで追いかけてくるなんて、健気なお嬢さんなのね」
不思議な薬を得意とする人魚は一人だけだ。
「随分とおしゃべりなのね。海の魔女」
彼女はまた、正解とでも言いたげに笑う。
「言ったでしょう? お嬢さんは特別なのよ。私、これでもお嬢さんのことは気に入っているの」




