三十、私の帰る場所
「姉さーん、マリーナ姉さーん……そろそろ泣き止んではくれない?」
顔色を伺うと涙目で睨まれた。
「馬鹿言わないで! これが泣かずにいられる!? 妹が人間になってしまったのよ!」
現在、私たちは水槽越しに会話をしている。隠し部屋にいるのは私たち二人だけで、旦那様はマリーナ姉さんを海に帰すための手筈を整えてくれていた。大きな水槽を運ぶための荷馬車、信頼のおける人間、そして何より夜会が終わるまでは目立った行動が出来ないと予め告げられている。おかげで私たちはゆっくり話し合うことが出来た。
「久しぶりの再会なのよ。妹としては笑ってほしいわ」
「そんな風に可愛くおねだりしたって駄目よ!」
とはいえ旦那様が立ち去ってからというもの、繰り返すのは同じ会話ばかりだ。普段大人しい印象のマリーナ姉さんだからこそ、怒らせてはいけないと改めて思う。
「泣かないで、姉さん。レイシーにも言ったけれど、人間だって長生きよ。いつか終わりが来るとしても今日明日のことじゃないわ。何年も先の話で」
「そんなのすぐよ! ねえ、本当にわかっているの? 貴女、永遠の命が惜しくはなかったの? 王様にだってなれたのよ!」
「私はこの選択を後悔したことは一度もないわ。素敵な旦那様に恵まれて、美味しいごはんを食べさせてもらえた。そしてもう一度、マリーナ姉さんに会うことが出来た。今のところ人間になって良かったことしかないわ」
でも唇を噛みしめて眉を寄せるマリーナ姉さんにはきっと伝わっていないのでしょうね。
「いいえ、きっと貴女は後悔する。いつか女神様に許しを請う日が来るのよ。ああ、可哀想なエスティ……」
「心配してくれてありがとう、マリーナ姉さん。でも私は今、幸せよ。こんな私のことを好きだって言ってくれる人もいるしね」
「エスティは騙されているのよ!」
「そうかもしれないわね」
「ほら!」
「でも、たとえ騙されていたとしても私は後悔しないと決めているわ。あの人と取引を成立させた時点で、私はあの人を信じるって決めたのよ。それにいざとなったらいつものように上手く逃げてみせるわ」
助けた人間に捕まりそうになったことだってある。そんな時、私はいつもこの力で人間の手を逃れてきた。心配そうに名を呼ぶ姉の不安を癒すには及ばなかったけれど。
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日が昇ってからよりも夜の闇に紛れて行動するべきだという旦那様の指示でマリーナ姉さんは夜会が終わるとすぐに海へと運ばれた。旦那様が信頼出来る人間を素早く集めてくれたおかげだ。
水槽から海へと移ったマリーナ姉さんは国に戻る前、私に言った。
「エスティ、その人が貴女の旦那様なのね」
旦那様は最初に挨拶してくれたけれどマリーナ姉さんは聞く耳を持たなかった。ずっとそっぽを向いていて、まるで旦那様がいないもののように振る舞っていた。今だってそう。私を通して旦那様の存在を確認しようとしている。
でもマリーナ姉さんが受けた仕打ちを考えれば無理はない。マリーナ姉さんにとって人間は自分を捕らえていた憎い相手で、旦那様もそれをわかっているからこそ気にするなと言ってくれた。それどころか人間がそばにいない方がいいとまで言い、極力マリーナ姉さんの視界に入らないよう配慮までしてくれた。
「一応、お礼は伝えておいて。でも私は、その人を信じることは出来ない。だからエスティ、私と一緒に海の国へ帰りましょう」
マリーナ姉さんが私に手を差し伸べている。きっと姉さんは私が永遠を失っても変わらず妹として接してくれる。姉さんの戻った海にはこれまで以上に穏やかで、平和な日常化が待っているとも思う。
文字が読めなくて困ることもない。頑張って腹筋して、肩凝りに悩まされる必要もない。突然夜会に連れ出されて戸惑うこともない。慣れないヒールに苦労することもない。
でも私は、そんな生活が嫌いじゃない。念願のごはんが食べられて、それに……旦那様がいる。
私は旦那様の様子を盗み見た。会話は聞えているはずなのに、旦那様は少し離れた場所から見守っているだけだ。まるで決めるのは私だと言うように。もしも帰りたいと言えば、この優しい人は頷いてくれるのだろうか。
考えるだけ無駄なことね。だって私の答えは最初から決まっているもの。
「ごめんなさい。私、一緒には行けないわ」
「どうして?」
硬く鋭い声で問いかけられる。
「私の帰る場所は、もうこの人のところよ」
「そう……」
マリーナ姉さんは悲しそうに背を向ける。姉さんを追いかけたい気持ちもあるけれど、もっと寂しそうな人が隣にいては放っておけない。
「行かなくていいのか?」
姉の姿と波音が完全に消えてから、旦那様がぽつりと零す。振り返らなくても旦那様の表情がわかる気がした。
「そんなに寂しそうな旦那様をおいてはいけません。私は旦那様のそばにいますよ。ちゃんと、最後まで」
最後の示す日が命の終わりか、あるいは必要とされなくなる日かはわからないけれど、この命に限りがあるからこそ、旦那様のそばにいたいと思う。
普段は明るく振る舞っているくせに、案外寂しがりなこの人のそばにいてあげたい。
「だから、帰りましょう。早く帰って眠らないと、お腹がすいてしまいます。でもこんな時間い食べるのは罪深いですから、私は早く帰って大人しく寝たいのですわ!」
「いいのか? 俺と一緒に帰って」
いいに決まってるじゃないですか。そんなに確認しないと心配なんですか? 私、そんなに信用ありません?
「なんですか、新婚早々に別居の提案ですか?」
「まさかだろ」
旦那様は静かに笑い、私たちは手を繋いで帰る。
お城に帰れば夜とは思えない賑やかな空気が私たちを迎えてくれた。
「奥様っ!」
戻った途端、ニナから熱い抱擁を贈られる。起きているのはイデットさんくらいだと思っていたので驚かされた。
「ニナ!? 寝ていていいと伝えてもらったはずだけれど」
「奥様を放って寝られるわけないじゃないですかぁ!」
ぎゅっと抱き着いたままニナは叫ぶ。そんな様子を見かねて助け舟を出してくれるのはイデットさんだ。ただしニナを咎めることはない。
「奥様、どうかニナを責めないでやって下さい。ともに待つことを許したのは私なのです。なんでも自分がおかしな話をしたせいで奥様が呪われてしまったから帰宅が遅いだのと言い出しまして……奥様が無事に戻られるまで寝られないと言うのです」
「そうなの?」
確かに人魚を海に帰していて遅くなりましたとは言えないわけで、少し問題が起きたために遅くなると旦那様は伝えていたらしい。
「ニナ、ありがとう。待っていてくれて嬉しいわ。ただいま」
「奥様ぁ……私、本当に心配したんですからぁ!」
「大丈夫よ、こわいことなんて何もなかったわ」
貴女の話が一番怖かったわね! とは言わずに私もニナを抱きしめた。悲し気な姉の表情を前に少しだけ心が揺らいだのも事実。でもこうして迎えてくれる人がいることは、ここに帰ってきて良かったと思わせてくれる。
私の帰る場所は、ここでいいのよね。
祝・三十話!
もう少し続きます。
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