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第84話 現実の清算

ログアウトの光が視界を塗りつぶすと同時に、特有の感覚が身体を襲った。


浮遊感のあと、重力という名の無機質な鉛が全身に伸しかかってくる。

鼻腔を突くのは、最北の開拓地に漂っていた湿った土や薪の匂いではない。密閉された部屋の、埃っぽく無機質なエアコンの乾いた空気の匂いだった。


かち、とヘッドギアを外し、ベッドの上に体を起こす。

薄暗いマンションの一室。液晶モニターの微かな明滅と、遠くを走る幹線道路の排気音が耳に届く。

画面の隅には、運営側が打った「サービス終了と強制アクセス遮断」の警告ウィンドウが無残に残っていたが、いまやそれも虚しい死骸に過ぎない。システムはすでに彼らの手を離れ、アルカディアはあの異世界の地に独立した現実に移り変わりつつあった。


自室の静寂の中で、私は自分の両手を見つめた。

皮が剥け、鍬や斧を握りしめてタコができた手のひら。

アルカディアで刻んだその傷跡は、VR機器を外したこの現実の肉体――佐々木晴樹としての手には存在しない。けれど、皮膚の奥に刻まれた筋肉の記憶と、エマの手の温もり、冷たい風の感触は、どこまでも鮮明だった。


「……行こう」


迷いはなかった。

三十二年間の人生の中で、会社での役職が上がり、銀行口座の残高や資金的な余裕だけは溜まっていった。けれど、それを使う時間も心のゆとりもなく、ただすり減るだけだった日々。あのデモムービーの片隅に映っていた静寂な森のログハウスに惹かれ、自分の知恵と技術がどこまで通用するかを確かめるために足を踏み入れたあの世界は、いまや私の真の居場所となっていた。


この世界で積み上げてきた記号だけの日常に、未練など一欠片も残っていない。

だが、投げ出して逃げるわけにはいかなかった。残していく家族や、社会的な手続きをうやむやにしたまま去ることは、あちらの世界で真摯に生きる決意に対する侮辱だと思えたからだ。


私はシャワーを浴び、いつものようにスーツに身を包んだ。

見慣れていたはずのネクタイを結ぶ手が、妙にぎこちなく感じられた。


朝の通勤ラッシュ。

駅のホームには、疲れ切った顔でスマートフォンを見つめる人々が溢れていた。誰ひとりとして隣の人間と目を合わせず、整然と並び、機械的に電車へと吸い込まれていく。

かつての私も、その風景の一部だった。記号として生き、記号として消費される日々。


オフィスビルへ到着し、直属の上司のデスクへと向かう。

出社してきた私を見て、上司はいつものように面倒そうな顔で書類から目を上げた。


「……佐々木君。朝からなんだい? 世間じゃあのVRゲームのトラブルで大騒ぎらしいが、君もなんだか最近顔色が冴えないな」


「おはようございます」


私は静かに頭を下げ、胸ポケットから用意してきた一通の封筒を取り出し、デスクの上に置いた。


「退職願です。本日付で辞職させていただきます」


「……は? 何を言っているんだ?」

上司が怪訝そうに眉をひそめる。


「急な話で申し訳ありません。ですが、私の意思です。引き継ぎ書類や担当業務のデータはすべて共有フォルダにまとめてあります。有給の消化も放棄しますので、このまま受理してください」


「おい、冗談だろ佐々木君……! 君の立場と役職で、こんな社会人として無責任なやり方があるか! 第一、退職してこれからどうするつもりだ!?」


語気を強める上司の声を、私は不思議なほど冷静に受け止めていた。

かつての私なら、周囲の目や世間の評価に怯え、謝罪を繰り返していたかもしれない。だが今の私には、守るべき伴侶がいて、耕すべき大地があり、仲間がいる。


「私には……行かなければならない場所があります。これまでお世話になりました」


再度深く一礼し、踵を返す。背後で上司が何かを叫んでいたが、その声が胸に届くことは二度となかった。


会社をあとにした私は、銀行の窓口と不動産管理会社を回った。


多忙と引き換えに淡々と溜め込んできた預金口座の全額。

保険の解約返戻金、資産をすべて整理し、ひとつの口座へと統合した。

マンションの賃貸契約も今月末での解約手続きを済ませ、違約金や清掃費用を口座から一括で引き落とせるように手配した。


身の回りの荷物は、ほとんど手をつける必要がなかった。

衣類も家具も、あちらの世界へ持っていくことはできない。大家と管理会社に連絡し、残置物の撤去費用を余分に口座に残して、処分を委託する委任状を作成した。


社会的、経済的な糸が、ひとつ、またひとつと解かれていく。

最後に残ったのは――最も太く、切ない親子の糸だった。


郊外にある実家の玄関前で、私は足を止めた。

見慣れた木造の戸建て。庭の植木鉢に注がれた水と、使い古されたサンダル。


インターホンを押すと、奥から聞き慣れた足音が近づき、引き戸が開いた。


「はーい……あら、晴樹かい!?」


出迎えた母が、目を見開いて私を見つめた。その奥の居間から、テレビの音を消した父が顔を覗かせる。


「急にどうしたんだ晴樹、連絡もなく……何かあったのか?」


「……父さん、母さん。ちょっと大事な話があって来たんだ」


居間の畳に座り、お茶を淹れてくれた母と、頑固そうな顔で煙草を揉み消す父と向き合った。

テレビのニュース画面では、例のVRゲーム『アルカディア』を巡る世界的な混乱が連日報道されていた。両親もまた、私がそのゲームに関わっているのではないかと心配していたようだった。


「晴樹……お前、まさかあのニュースのやつに……」


「父さん、母さん。落ち着いて聞いてほしい」


私は正座をし直し、まっすぐに二人を見つめた。


「私はこれから……遠くへ行く。二度と戻れない場所へ行くことになった」


「遠くって……どこへ行くんだよ急に! 仕事はどうしたんだ!?」

父が声を荒らげる。母も不安そうに私の手を握りしめてきた。


「仕事は辞めてきた。……説明しても、きっと信じてもらえないと思う。けれど、私はどうしても行かなければならない場所を見つけたんだ。そこで出会った大切な人と、共に生きていくと決めた」


私は鞄から、通帳と印鑑、手続き用の書類を取り出し、畳の上に静かに置いた。


「これは、今まで私が蓄えてきた全財産だ。マンションの解約や荷物の処分費用を差し引いても、二人が老後を過ごすには十分な額が残っている。それから……実家の維持費や雑務の手続きに必要な委任状もすべて揃えておいた」


「晴樹、何言ってるのよ……! こんなのお金なんていらないわよ! 一体どこへ行くの!? 事件にでも巻き込まれているの!?」

母の目に涙が溢れ出す。


「巻き込まれてなんかいないよ、母さん。私は……今までで一番、自分の意思で生きている」


私は母の手を握り返した。

温かく、少し痩せた母の手。幼い頃、この手で頭を撫でられ、育てられてきた。その恩を置き去りにして去る不孝を, 心が激しく咎める。


「今まで、勝手ばかり言ってごめなさい。何のために生きているのかも分からず、ただ仕事に追われて心配ばかりかけて……本当にすみませんでした。でも……今の私は、心から大切だと思える場所と、愛する伴侶に出会えた。だから、安心してほしい」


父は黙って私を見つめていた。

彼はずっと沈黙を守っていたが、畳の上の通帳と私の顔を交互に見つめ、やがて長く、重い溜息をついた。


「……引き止めても、行くんだな?」


「……はい」


「……そうか」


父は通帳にゆっくりと手を伸ばし、それを胸元に引き寄せた。


「お前がそこまで固い目をするようになったのを、わしは初めて見た。……理由を聞いても理解してやれんかもしれん。だが、男が腹を括って決めた道なら、余計な口出しはせん。……行け、晴樹」


「お父さん……!?」

泣き出す母の肩を、父が不器用な手で抱き寄せる。


そのまま去ろうと立ち上がりかけた私に、父が低く、しかし絞り出すような声で言葉を重ねた。


「……しかし、今日は……今日だけは、夕飯を食べて行きなさい」


――胸が、強く締め付けられた。


不器用で、口数の少ない父が差し出せる、最初で最後の親としてのわがまま。

母も涙を拭いながら何度も頷き、台所へと向かった。


その日の夕食は、何の変哲もない実家のカレーライスだった。

幼い頃から食べ慣れていた、少し甘めの味付け。

誰も多くは語らなかった。ただカトラリーの触れ合う音と、母の鼻をすする音だけが静かに響く食卓で、私は一口ひとくち噛み締めながら、実家の温もりを魂の奥底へ刻み込んだ。


「母さん、すまない。育ててくれて、本当にありがとう」


玄関先で靴を履き、私は腰を曲げ、深く、長く頭を下げた。

溢れそうになる涙を必死に堪えながら、両親に別れを告げた。


実家をあとにし、夜の街を歩いて自室へと戻った。


部屋の中には、もう何も残っていない。

佐々木晴樹としての社会的な肩書も、口座残高も、しがらみも、すべてを綺麗に清算し終えた。

今の私は、ただのひとりの「人間」だった。


ベッドの上に置かれた、黒いVRヘッドギア。

これが、二つの現実を繋ぐ最後の扉だ。


時計の針を見る。

神が提示した「3日間」の猶予期間。地球側での身辺整理を終えた私は、一刻も早く、あの愛おしい我が家へと帰りたかった。あちらで不安に胸を痛めているエマのもとへ。


私はベッドに横たわり、ヘッドギアを持ち上げた。

冷たい金属の手触りが、指先に伝わる。


(これで、最後だ――)


ヘッドギアを装着し、静かに目を閉じる。

起動コマンドを口にすると、光の奔流が意識を包み込んでいった。


地球という現実の檻を離れ、私は再び、自分が生きるべき真の現実――アルカディアの地へと向かって、静かに落ちていった。

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