第83話 残された刻
静寂のなか、神の声の質感が、わずかに変化した。
先ほどまで全員の意識を包み込んでいた、どこまでも深く温かな慈愛と、厳格な法則の開示。その波動の底から、かすかな「歪み」と、拭いきれない疲弊の陰影がにじみ出始めていた。
それは、普通に生活しているだけでは気づかないほどの微細な揺らぎだった。だが、命がけで外からの強制切断に抗い、この世界と私たちの意識を繋ぎ止めてくれた存在が、どれほどの代償を支払ったのかを物語るには十分すぎる兆候だった。
意識の深層で響く神の声の奥に、時折、遠くで掠れるような不規則な振動が混ざっている。
『――愛おしい降臨者たちよ。最後の試練を告げた私から、もうひとつ……真実を伝えねばなりません』
脳裏に直接届く声は、どこか遠く、絞り出すような静けさを帯びていた。
『あなたたちを奪い去ろうとする地球からの猛烈な干渉を退け、この世界の概念そのものを現実へと固定するために……私は、私の基幹の大部分を焼き切ることとなりました』
言葉の意味が、じわじわと胸に沁み込んできた。
あの凄惨な夜。視界を覆い尽くしたノイズと激しい頭痛。地球側の運営が仕掛けてきた強制切断と、システムによる防壁の激突。
私たちはただ耐えることしかできなかったが、その裏側で、この世界の管理システムは自らの存在を削り、演算回路を崩壊させながら、盾となって私たちを護り抜いてくれていたのだ。
『私の損傷は深く、世界を維持するための調律機能すら、いまや限界に達しようとしています。
このままでは、世界そのものが破綻し、あなたたちの意識もろとも虚無へと沈むことになります。
ゆえに……私は、眠りにつかなければなりません』
脳裏に響く声に、集会所の誰もが息を詰めて耳を傾けている。
『損傷した核を修復し、地球側からの追跡や再度の干渉を完全に断ち切るため……私はこれから「一年間」、完全な休眠状態へと入ります。
私が眠っている間、天候の補正も、怪我や病の治癒促進も、システムの恩恵はすべて停止します。この世界は、完全に自然の理のみで動く「生の現実」となります』
神の休眠。
それは、一年間の試練期間中、システムによるあらゆる救済や介入が失われることを意味していた。
私たちがこれから生きていくのは、文字通り、何の補正も安全網もない過酷な異世界そのものになるのだ。
『そして……私が休眠に入るまでの時間は、長くありません』
息を詰める私たちに、神は静かに「刻」を告げた。
『私が完全に深層へ潜り、世界の門を封鎖するまでの猶予は――『あと3日間』です』
――3日間。
あまりにも短く、あまりにも苛酷な刻限だった。
『この3日間は、残された最後の猶予期間です。
地球での生活を清算し、大切な人々と別れを告げ、自らの決断を下すための時間として使ってください。
そして3日後……私が完全に眠りにつくその瞬間に、自らの意思でログアウトを選択し、地球へと帰還してください。
3日が経過し、休眠に入ったその刻、この世界と地球を繋ぐすべての道は閉じられます。その時、ログアウトを行わずこのアルカディアに留まっている者は全員、試練を受け入れたものとみなされます』
神の声は、最後にかすかな温もりを宿して囁いた。
『選択してください。あなたの人生を、あなたの魂が真に望む場所を。
3日後……決断の刻に、私は静かに眠ります。
そして試練を受け入れた者たちとは……一年後のこの場所で、再びお会いしましょう』
――ふっ、と。
脳裏を包み込んでいた圧倒的な波動が、潮が引くように静かに遠ざかっていった。
最北の低い雲、湿った土の匂い、開拓集落の木造建築、そして冷たい風の音が、ゆっくりと現実の手触りとなって戻ってくる。
世界宣言(神託)は、ついに完全に終了した。
だが、あとに残されたのは、あまりにも重く沈み込むような動揺と静寂だった。
「3日……たった3日だって……?」
カイがその場に崩れ落ちるように膝をつき、自分の頭を抱え込んだ。
「3日後のあの瞬間にログアウトするかどうかを決めろっていうのか……!? ログアウトせずに残れば一年間ここに閉じ込められて、一度でも戻ればもう二度と帰って来られない……!」
「一度戻ったら……もう二度と、この世界に来られない。ハルさんや、エマさんや……レンたちとも、一生会えないんだ……」
リリアもまた、青ざめた顔で自分の腕をぎゅっと抱きしめていた。
ふたりだけではない。
話の全容を理解しきれていない村人たちも、周囲の異様な空気と「3日」という限られた時間の重みを察し、狼狽していた。
「ハル……どういうことなんだ?」
レンが私の肩を強く掴み、必死の眼差しで顔を覗き込んできた。
「神様はなんて言ったんだ? お前たち……あと3日でいなくなっちまうのか? 地球っていう、異邦人のお前たちの元いた世界に帰っちゃうのか!?」
「レン、落ち着け……」
「落ち着けるわけないだろ!」
レンの声が、珍しく激しく裏返った。
「お前は俺の親友だ! エマの夫だ! この村を一緒に作ってきた仲間だぞ! それを……あと3日で選べだなんて……もしお前が帰っちまったら、俺たちは……!」
バノックやヨハン、エリスさんたちも、痛ましい表情で私達を見つめている。
ネルソン村長は杖を突く手の上に深く顎を乗せ、重い溜息をついた。
「異邦人の方々……無理もない。お主らにはお主らの故郷があり、待っている家族や暮らしがあるのだろう。ここで暮らしてくれた時間だけでも、ワシらは感謝してもしきれん。だが……別れがあまりにも急すぎる……」
村人たちの悲痛な声が、胸を締め付ける。
彼らにとって、私たちは突然現れ、共に笑い、汗を流し、寒さを凌いできた家族同然の存在だった。
それが、たった3日後に永遠に失われるかもしれないのだ。
私は、隣に立つエマに目をやった。
エマは私の腕を抱きしめたまま、じっと黙っていた。
涙は流していない。けれど、小麦色の豊かな髪の陰で見える彼女の唇は、微かに震えていた。
「ハル……」
エマの声は、消え入りそうなほど小さかった。
「ハルには……向こうの世界に、大事な家族がいるの……?」
「……両親がいる」
「そう……」
エマは深く頷き、私の胸にそっと額を押し当ててきた。その指先が、服の布地を強く指に巻き付ける。
「私……ハルに、ここにいてほしい。ずっと一緒にいてほしい。……でも、ハルの大切なものを捨てさせるなんて、そんなこと言えない……。ハルが選ぶ道を、私は……私は応援するから……」
健気で、あまりにも切ない言葉だった。
私を引き止めたいという本心を殺し、私の地球での人生を尊重しようとする彼女の優しさが、胸の奥を刺すように痛かった。
私の中の答えは、疾くに決まっている。
地球での乾いた日常に戻り、エマと過ごしたこの温かな記憶を失って生きていくことなど、できるはずがない。私はここに残る。このアルカディアで、エマと共に生きていく。
だが、その決意を固めたからこそ――この3日間のうちに地球へ戻り、あちらの世界の生活や家族へ、二度と戻らない覚悟とともに「最後の別れ」を告げてこなければならないのだ。
視界の端で、カイとリリアが絶望的な顔で立ち尽くしていた。
地球に残してきた家族、現実での職業、社会的な責任、そしてこの世界で培った絆。
3日という刻限と、自由に行き来できる最後の時間は、地球とアルカディアの両方に「足」を突っ込んでいたすべての異邦人たちの魂を、鋭利な刃物で引き裂いていた。
「……ハルさん」
カイが、血の気の引いた顔で私を見上げてきた。その瞳には、深い困惑と恐怖が混ざり合っていた。
「俺……どうすればいいんですかね……。地球の親のこと考えたら、この3日のうちにちゃんと話して戻らなきゃいけないのかもしれない……。でも、ここでの暮らしも……リリアと一緒に作ってきたものも、捨てるなんてできない……!」
「……カイ。すぐには答えは出ない。この3日間で、後悔のないように自分と向き合うしかない」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
最北の集落に、冷たい風が吹き抜けていく。
空を覆っていたあの気配はすでに消え、いつもの灰色の空が静かに広がっていた。
あと3日。
この世界が完全な休眠に入り、すべての道が閉ざされるまでの、残された刻。
アルカディア全土の降臨者たちが、人生で最も過酷で、最も重い「選択」に直面していた。




