第6話 鉄と土の匂う人
早朝の深い靄がゆっくりと引き、村の全貌が少しずつ白日のもとに晒されていく。
過疎村の小道を戻ってきた私は、村の中央近くでひときわ低く重厚な佇まいを見せる建物へと足を向けた。
屋根からは不揃いな太さの煙突が伸び、薄い黒煙がポツリポツリと立ち上っている。
風に乗って運ばれてくるのは、湿った泥の匂いを吹き飛ばすような、濃密な鉄と煤、そして熱せられた炭の匂いだった。
ここが、村で唯一の鍛冶場だ。
建物の前には、打ち捨てられたような鉄屑や、錆びついた農具の山が積み上げられていた。
その片隅に、昨日も目にしたあの老人の姿があった。
グラック老人。
粗末な革のエプロンを首から下げ、太く節の立った腕で重そうな鉄鎚を握りしめている。
彼が鍛冶場の炉の前で構えをとるたび、老いた体躯とは思えぬほど密度の高い圧迫感が周囲に満ちた。
コン、コン、と金属を叩く不規則な音が村の静寂に響く。
だが、その手つきにはどこか投げやりな、作業の反復だけをこなしているような冷めた雰囲気が漂っていた。
「……何の用だ、異邦人」
私が敷地に入り込むと、グラックは槌を振るう手を止めずに低く問いかけてきた。
視線はこちらに向けられず、赤く熱を帯びた鉄の小片だけに注がれている。
「おはようございます、グラックさん。昨日お借りしたお部屋の清掃が一通り終わりましたので、挨拶に伺いました」
私は足を止め、少し離れた位置から丁寧に頭を下げた。
グラックの手がぴたりと止まった。
彼は緩慢な動作で背を伸ばし、額の汗を汚れた袖口で拭うと、初めて私を正面から見据えてきた。
落とし口の深い、鋭く冷えた瞳。
そこには、長年この厳しく停滞した土地で生きてきた人間だけが持つ、過酷な経験の重みが宿っていた。
何十匹もの獣を解体し、過酷な自然と対峙してきた男の身体能力。
素手で戦えば私など一瞬で組み伏せられるであろう、圧倒的な生の格差がそこにはあった。
「清掃だと……? そんな無駄なことに時間を使っていたのか」
グラックの口から漏れたのは、呆れと嘲笑の混ざった溜息だった。
「あの小屋は、風雨を凌ぐためだけに置かれている。綺麗に磨いたところで、明日になればまた埃が積もるだけだ。余計な手間に意味などない」
「そうかもしれません。ですが、自分が過ごす場所を整えるのは、気持ちの踏ん切りをつけるためでもあります」
私がそう答えると、グラックは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「相変わらず、何を考えているのかさっぱり分からん奴らだ。神からは『異界の魂を宿す器が巡り来る』と預言されていたが……現れたのは、夜になれば呼吸すら止めて横たわる不気味な人形どもばかりだ」
グラックは手にしていた鉄鎚を、ガツンと重い音を立てて金床の上に置いた。
「命の脈動を自ら消し去るような真似をする肉体が、本当に同じ人間と言えるのか? お前たちが朝起きて動き出すたび、村の者がどれほど腹の底を冷やしているか、考えたこともないだろう」
その言葉に含まれた冷ややかな警戒の重さに、私は思わず言葉を呑み込んだ。
自室で安易にログアウトボタンを押し、日常へ戻っていたプレイヤーたち。
だが、この世界に残された「魂の抜けた素体」は、現地の人々にとって文字通り「命が消え失せた死体」そのものとして映っていたのだ。
毎日死体が現れ、毎日それが甦って無遠慮に歩き回る。
彼らが抱く本能的な恐怖と忌避感は、まさにその常識の外側にある不気味さから来るものだった。
「失礼な恐怖を与えてしまっていることは、本当に申し訳なく思っています」
私は姿勢を正し、静かに深々と頭を下げた。
「私たちにとって、あの状態を避ける術は今はありません。ですが……村の皆さんに不当な損害を与えたり、平穏を乱すような真似は決してしません。それを行動で示していきたいと思っています」
深々と頭を下げる私の姿を、グラックは無言で見つめていた。
長い沈黙が流れる。
鍛冶場の炉から弾ける炭の小さなはぜる音だけが、二人の間に響いていた。
「言葉など、いくらでも飾れる」
やがて、グラックがぽつりと呟いた。
「見れば分かる。お前の腕には筋肉もなく、手は豆の一つもなく滑らかだ。……まともに鉄を打ったことも、土を耕したこともない、ひ弱な身体だ」
彼の言う通りだった。
現実世界でデスクワークに終始し、書類と数字ばかりを扱ってきた私の手は、この世界で泥に塗れて生きる現地人のそれとはまるで違っていた。
「そんな軟弱な腕で、ここで何ができるというのだ。大人しく日陰に引っ込んでいろ」
グラックは吐き捨てるように言うと、再び鉄鎚を握り直し、熱した鉄へと視線を戻した。
だが、その言葉に拒絶のトーンはあっても、頭ごなしな敵意は感じられなかった。
彼はただ、あまりにもひ弱で不気味な異邦人が、何の手応えもなく壊れていくのを警戒しているようでもあった。
私は引き下がる前に、鍛冶場の足元に転がっている錆びた農具の山に視線を落とした。
「グラックさん。その手元にあるのは……クワの刃ですか?」
唐突な問いかけに、グラックが眉をひそめる。
「……そうだ。刃先が欠けて軸が歪んでいる。直すほどの価値もない廃棄物だ」
「もしよろしければ……その道具の修繕や、雑用を手伝わせてもらえませんか? 力の要る作業は無理でも、錆を落としたり、道具の整理ならできます」
グラックは呆れたように私を睨み返した。
「断る。お前のような素人に触らせる道具などない」
「邪魔はしません。ここで作業を見させてもらうだけでも構いませんか」
私が静かに食い下がると、グラックは短く舌打ちをし、それ以上私を追い払うような動作は見せなかった。
無視することを決めたかのように、再びコン、コンと一定の拍子で鉄を打ち始める。
火花が散り、熱気が私の頬を撫でる。
私はその邪魔にならない壁際に腰を下ろし、老鍛冶屋の無駄のない手つきと、打ち出される鉄の匂いを静かに見つめ始めた。
打ち解けたわけではない。信頼を得たわけでもない。
だが、この冷え切った過疎村で、生身の人間として歩み寄るための最初のわずかな接点が、確かにそこに生まれていた。




