第53話 心の境界の先
茜色の夕闇がゆっくりと村を包み込み、冷え込む夜の気配が静かに立ち込め始めていた。
私は一人、泥と血の臭いが残る木柵の跡地から、重い足取りで村の奥へと歩いていた。
右頬には、いまなおエマの手のひらの熱い痛みがジンジンと残り続けている。バノックの怒号、そして脳裏をよぎった亡きヨハンの冷たくなった身体の感触。それらすべてが、胸の奥を鋭い刃でえぐるように痛ませていた。
(俺は……なんて身勝手で、愚かだったんだ……)
「死んでもすぐに戻れるから」「命を賭して守ればいい」。
そんなものは、プレイヤーという特権に甘え、この世界で命を懸けて生きる彼女たちの尊厳と愛を踏みにじる最低の身勝手だったのだ。
傷一つなく生き返った私の姿を見た時の、あのエマの絶望に濡れた瞳。あの大粒の涙は、私が命を捨てたことで彼女の心に刻んでしまった、癒えることのない地獄の爪痕そのものだった。
やがて辿り着いたのは、村の端に佇むエマの小さな家だった。
窓からは、揺らめくささやかなランプの明かりが漏れている。だが、扉は固く閉ざされ、まるで世界から私を拒絶するかのように冷たく静まり返っていた。
私は冷えた扉の前に立ち、深々と息を吸い込んだ。逃げることなどできない。どんなに拒絶されようと、どんなに厳しい言葉を投げつけられようと、泥に塗れてでも私の本当の想いを伝えなければならないのだ。
「……エマ」
声を絞り出す。
返事はない。だが、扉のすぐ向こう側で、微かに呼吸が詰まるような気配がした。彼女はそこにいる。私の気配を感じ取り、身体を強張らせているのだ。
「エマ……聞こえているかい。……ごめん、本当に、ごめんなさい」
私は木扉に額を押し当て、泥に汚れた膝をそのまま冷たい地面へとついた。
「俺は……最低な奴だ。自分が異邦人で、死んでもすぐに戻って来られるからって……そんな身勝手な理屈で、君の前で自分の命を捨てた。『すぐ戻る』なんて言葉で誤魔化して、君がどれほどの絶望と悲しみに打ちひしがれるか、何一つ考えていなかった……」
固く結んだ拳が、溢れ出る自責の念で激しく震える。
「ヨハンが死んだ時、俺はこの土地の命の重みを知ったつもりでいた。なのに……いざとなると『自分は死んでもやり直せる』なんて甘えに逃げていたんだ。俺が投げ打ったその一回きりの命が、君の心をどれだけ深く切り裂いたか……バノックさんに怒鳴られて、やっと気づいた」
扉の向こうから、押し殺したような小さなすすり泣きの手応えが聞こえてきた。
「エマ……俺の命は、もう俺一人のものじゃない。君を置いて死ぬなんて、二度と言わない。身代わりになって死んで守るなんて……そんな綺麗な言い訳で逃げたりしない。これからは……泥を喰らってでも、どんな不細工な格好になっても、君と一緒に、生きて、生きて……生き抜いてみせる」
言葉が涙で震える。声の限り、魂のすべてを注ぎ込むようにして叫んだ。
「君と一緒に生きていきたいんだ、エマ……! だから……お願いだ、一度だけ……俺を見てくれ……!」
しんと静まり返る夜の静寂。
沈黙が永遠のように感じられた、次の瞬間だった。
ガチャリ、と重い木製のかんぬきが外れる音が響いた。
ゆっくりと開く扉。
そこには、ランプの光を背に受け、涙で顔をくしゃくしゃにしたエマが立っていた。
足首の痛みを耐えるように扉の枠にしがみつき、真っ赤に腫らした瞳で私を見つめている。その小さな胸が、激しい感情の波で大きく上下していた。
「……バカ」
かすれた、震える声だった。
「ハルさんの……大バカ……っ!」
「エマ……」
「あたしが……あたしがどれだけ怖かったか分かっているんですか……!? 貴方の身体から血が溢れて、冷たくなって……あたしの腕の中で動かなくなった時……あたしの世界が全部、真っ暗になったのに……っ!」
エマは溢れ出る涙を拭おうともせず、叫ぶように言葉を吐き出した。
「なのに……傷一つない顔で『無事でよかった』なんて……! あたしの悲しみも、苦しみも、全部嘘だったみたいに……あたしを置いていかないで……! 命を捨てるくらいなら……あたしの目の前で死ぬくらいなら、二人で一緒に傷ついた方がずっといい……っ!」
「……ああ。そうだな……本当に、その通りだ」
私は立ち上がり、涙を流す彼女の華奢な肩を、折れてしまいそうなほど強く引き寄せた。
「嫌です……もう二度と、あんな思いをさせないで……あたしを一人にしないで……ハルさん……!」
「絶対にしにない。約束する……! 俺は君と一緒に生きる。何があっても、死んで逃げたりしない……君を護り抜いて、ずっと側にいる!」
エマの細い腕が、私の背中に強く回された。泥と汗に汚れた私の胸元に顔をうずめ、彼女は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
その温かな体論、激しい鼓動、背中に回された腕の必死な力加減。それらすべてが、私という存在を全身全霊で求めてくれている証だった。私は溢れる愛おしさに胸を締め付けられながら、彼女の頭を優しく撫で、その髪に何度も唇を寄せた。
部屋の中へと足を踏み入れ、静かに扉を閉めると、外界の冷気と喧騒は完全に遮断された。
暖炉の火とランプの橙色の光が、ささやかな室内を優しく満たしている。
私はエマを抱き上げたまま、深く腰を下ろさせた。彼女の足首の怪我を注意深く確かめると、骨に異常はなく、湿布と安静で治る程度の挫傷だった。私がそっとその足に触れると、エマは照れたように爪先を縮め、上目遣いに私を見つめてきた。
「ハルさん……頬、痛みますか……?」
「ううん……ちっとも痛くないよ。……いや、すごく痛かった。でも、この痛みのおかげで目が覚めたんだ」
「ごめんなさい……あたし、あんな強く叩くつもりじゃ……」
「いいんだ。あれは俺が喰らうべき当然の報いだ」
私は微笑み、彼女の小さな手を両手で包み込んだ。
エマは涙の残る頬を朱に染め、私の手のひらに自分の頬をすり寄せてくる。その吸い付くような肌の柔らかさと、指先へ伝わる甘い息遣いが、私の理性を優しく溶かしていった。
「エマ……愛している」
「あたしも……ハルさんが好き……愛しています。誰よりも……この世界で一番……」
どちらからともなく顔が近づき、唇が重なり合った。
最初は、お互いの存在を確かめ合うような、静かで柔らかな口づけだった。
だが、涙の味が混ざり合うその唇の熱さに拍車がかかり、お互いを求める熱情は瞬く間に深くなっていく。エマの吐息が甘く漏れ、彼女の細い指が私の首筋に深く絡みついてきた。
「ハルさん……あたしを……抱きしめて……」
囁くような彼女の声に、胸の奥で塞き止められていた情念が決壊した。
私は彼女の身体を優しく床の毛皮の上に横たえ、かぶさるようにして抱きしめた。
重ね合わせた衣服の下から伝わる、息を呑むほどなめらかな肌の感触。胸の高鳴りと、合わさる吐息の熱が、密室の空気をどこまでも濃密に変えていく。
エマの着物の紐を解くと、ランプの光に照らし出された彼女の白い肌が、照れと熱気で薄桃色に染まっていた。恥ずかしそうに両腕で胸元を隠そうとする彼女の細い手首を優しく捕らえ、指を絡ませる。
「美しいよ、エマ……」
「恥ずかしい……です……でも、ハルさんになら……あたしの全部を……」
幾度となく重ねられる熱いキス。
耳元、首筋、そして鎖骨へと唇を滑らせていくと、エマは頭を後ろへ反らし、「あ……っ」と甘い喘ぎ声をこぼした。彼女の肌の微細な震えと、体温の高まりが、ダイレクトに私の全身へと伝わって来る。
命を落とし、失いかけた絆。
だからこそ、いま触れ合っているこの一瞬の肌の温もり、指先の感触、甘い呼吸のすべてが、気が遠くなるほど愛おしく、尊い。
身体の境界線が溶けていくように、二人の肉体と魂が一つへと重なり合っていく。
「んっ……ふぁ……ハル、さん……っ!」
「エマ……離さない……絶対に……」
深く、深く満たされていく感覚の中で、エマは私を力強く抱き返し、幾度も私の名を呼び続けた。
流れる汗と、重なり合う熱い吐息。暖炉の爆ぜる音だけが響く部屋で、私たちは命の歓びを確かめ合うように、何度も夜の深みへと落ちて行った。
夜が明け染め、部屋の窓から静かな蒼い光が差し込み始める頃。
毛皮の温もりの中で、エマは私の胸元に顔をうずめ、穏やかな寝息を立てていた。
その栗色の髪からは甘い香りが漂い、重なり合った足からは豊かな体温が伝わってくる。彼女の長い睫毛が微かに揺れ、私にしがみつく腕にはまだ力が入っていた。
私は彼女を愛おしく抱き締め直し、窓の外の静かな村の景色を見つめた。
この世界で生きるということは、一度きりの命を背負い、愛する者と共に傷つき、共に歩んでいくということだ。
もう二度と、命を軽んじるような真似はしない。
私はエマの髪にそっと最後の口づけを落とし、これから始まる長い「第二の人生」を、彼女と共に力強く生きていくことを、胸の深層で強く誓うのだった。




