第47話 ふれあいの温度
春の柔らかい陽光が、村の裏手にある牧草地を黄金色のグラデーションに染め上げていた。
吹き抜ける風には、湿った黒土の豊かな匂いと、新緑の芽吹く微かな芳香が混じり合っている。第二陣の喧騒が拍子抜けするような「静かな離脱」という形で幕を閉じ、この北の過疎村には、かつてよりも一層深く、静謐な日常が戻っていた。
だが、私の胸の内は、その穏やかな村の空気とは裏腹に、奇妙な重たさと焦燥感に満ちていた。
——「私……ハルさんのことが、好きです」
数日前、夕暮れの丘の上でエマから告げられた言葉が、いまだに網膜の裏側や耳の奥から離れない。
彼女の細い指先がそっと重ねてきた時の温もり。潤んだ栗色の瞳に映っていた、嘘偽りのない真っ直ぐな情愛。夜の静けさの中で一人布団に横たわるとき、その言葉と瞳が何度も脳裏に蘇り、胸のあたりを締め付けるような疼きを残していく。あのとき返した言葉に偽りはなかった。私にとっても、この過疎村で共に凍てつく冬を越し、泥にまみれながら生き抜いてきた彼女や村人たちは、ただの「ゲームのシステム上の住人」などではなく、かけがえのない存在になっていたからだ。
だからこそ、だった。
——私は、この世界に長く留まる存在ではない。
視界の端にいつでも呼び出せる、無機質なシステムウィンドウ。自分が現実世界からこの仮想の肉体へとダイブしている「異邦人」であるという、動かぬ真実。いつの日か、この肉体がどのような結末を迎えるにせよ、あるいは現実側の都合でログインを終える日が来るにせよ、私はこの世界の人間ではない。ふとした瞬間に現実世界へと強制的に引き戻されるかもしれないし、そもそもこの肉体がこの世界の時間の流れに永遠に耐えられる保証すらないのだ。
そんな「いつか消え去る」と分かっている異邦人が、現地で生きる少女の切実な恋心を受け止めてしまっていいのか。その温もりに甘え、心を通わせれば通わせるほど、別れの時に生じるであろう亀裂の深さは想像するだけで恐ろしかった。もし彼女の愛に本気で応えてしまったら、私がこの世界からいなくなったとき、彼女はどうなってしまうのだろう。取り返しのつかない罪悪感が、心の奥底で重く淀んでいた。
「……はあ」
私は手に持った木製の剪定バサミを止め、生い茂る果樹の枝を見上げながら小さく息を吐き出した。
NPCとの間に引いていたはずの心理的な境界線。システムとプログラムという冷徹な壁が、いつの間にか村人たちの泥臭い優しさや体温によって摩耗し、跡形もなく消え去っていることに気付かされる。壁が消えたからこそ、彼らの想いが直接突き刺さり、どう振る舞うべきか分からなくなっていたのだ。
「おい、ハル。そんなところでサボってないで、こっちの荷下ろしを手伝えよ」
不意に、背後からからかうような乾いた声が飛んできた。
振り返ると、無造作に肩に麻袋を担いだ村の若者——レンが、面白そうにニヤニヤしながらこちらを歩いてきていた。
無骨で日焼けした顔立ちは相変わらずだが、過酷な冬をこの村で共に生き延びた仲間としての連帯感が、彼の表情をどこか頼もしく見せている。同じ村の住人として、私たちは何度もこうして肩を並べて働いてきたのだ。
「サボってるわけじゃない。木の手入れだ」
「へえ、その割には顔に『人生最大の悩み事です』ってデカデカと書いてあるぜ」
レンは近くの切り株にドカッと腰を下ろし、腰から下げた水筒の水をあおると、私をじろりと観察した。
「どうした? また畑の害獣でも出たか? それとも、あの新しく来た変な身なりの旅人どもに何か言われたのか」
「……いや、そういうのじゃない」
私はハサミを置き、レンの隣の草地に腰を下ろした。冷たい春風が頬を撫でる。
一人で抱え込んでいても答えが出ないモヤモヤを、この村で生まれ育ち、同じ泥を舐めてきた彼なら何か違う視点をくれるかもしれない。そんな微かな思いつきが、自然と口を開かせた。
「なあ、レン。……お前は、俺みたいな外から来た人間と接していて、時々変に思わないのか?」
「変に? お前がか?」
「ああ。俺はいつの間にかこの村に現れて、お前たちとは違う理屈で動いてる。いつか、どこかへいなくなっちまうかもしれない異邦人だ。……なのに、どうしてそんなに普通に接して、仲間みたいにしてくれるんだ?」
私の言葉を聞いた瞬間、レンのニヤニヤとした笑みがふっと消えた。
彼は持っていた水筒を静かに地面に置き、村の広場で働く他の村人たちの姿に視線を走らせた。その瞳の奥には、厳しい自然の中で生きる者特有の重みが過る。
「……なんだ、そんなことか」
レンは低く鼻で笑うと、ポリポリと頭を掻きむしった。
「お前がどこから来た何者なのかなんて、俺たちにとっては最初っからどうでもいいことだ。大事なのは、お前がこの村に来て、一緒に冬の寒さを、凍え死にそうになりながら生き抜いたって事実だろ」
「……」
「最初はお前みたいな変な格好の奴が来るなんて思わなかったし、不気味だとも思ったさ。だけどよ、目の前で本気で泥にまみれて働いて、村の子供を助けて、同じ鍋のスープを啜ってる奴がいたら、そいつがどこから来ようが関係ねえだろ。……お前はもう、この村の人間だよ、ハル」
レンの言葉は、飾らない素朴な響きを持ちながらも、不思議と胸のつかえをスッと溶かしていくような力を持っていた。
私が「異邦人だから」と勝手に引いていた線など、村の人間にとってはとっくに意味を失っていたのだ。彼らは私を、ただの一人の仲間として受け入れてくれていた。システム上のNPCなどではなく、同じ時間を生きる血の通った隣人として。
「……お前、意外と言葉の選び方がずるいな」
「なんだよ、これでも柄になく真面目に言ってやったんだぞ。……まあ、要するにだ」
レンはニッと不敵に笑うと、パッと立ち上がった。
「いつかいなくなるかも知れねえなんて、先の先の未来の心配ばっかしてんじゃねえよ。先のことばかり気にして目の前の現実から目を背けてたら、一番大切なものを取り返しがつかないところで落としちまうぜ」
そう言い残すと、レンは担いでいた麻袋を担ぎ直し、からからと笑いながら村の中心へと歩いて行ってしまった。
レンに言われた言葉が、妙に胸の奥深くへと染み入るように響いた。
未来がどうなるか分からないからと、目の前にある温もりや、エマが向けてくれた真っ直ぐな想いから逃げようとしていたのは、ほかならぬ自分自身ではないか。
自分が「いつか消える存在だ」という免罪符を盾にして、彼らの純粋な優しさから怖じけづき、傷つくのを恐れて目を背けていただけなのだと痛感させられる。私たちは今、この瞬間の現実を確かに生きているのだ。未来の不在を理由に現在の真実から逃げるのは、あまりにも卑怯ではないか。
夕げの支度が始まる頃、私はふと足を向け、村の広場へ歩き出した。
西の空に沈む太陽が、村の家々の屋根や木々を茜色に染め上げていく。その遠くに見える小さな人影の中に、エマの姿があった。彼女は夕暮れの淡い光の中で薪をまとめる手を止め、ふとこちらに顔を向けた。そして、私の姿に気付くと、パッと顔を輝かせ、まるで小動物のように嬉しそうに駆け寄ってくる。その頬は、夕日とは違う、淡い恋の朱色に染まっていた。
もう逃げない。
この温もりが本物であるなら、私もまた、嘘偽りのない言葉でその想いに応えなければならない。仮にいつか終わりが来るとしても、今この瞬間に彼女が注いでくれる熱量を、私は真っ直ぐに受け止めると決めたのだ。
私は足を止めず、夕風の中を真っ直ぐに彼女の待する場所へと歩みを進めた。




