第24話 森のざわめき
二月も終わりに近づき、吹きつける風の中にわずかな湿り気が混じり始めていた。
寒の底を脱し、雪の頂点は過ぎたものの、過疎村を囲む広大な針葉樹の森はなおも深い積雪に覆われている。
私は日課となったぼろ屋の軒下の雪落としを終え、グラック老人から譲り受けた木鍬の柄を布で磨いていた。
もう少し辛抱すれば、雪解けの水音が響き、耕した畑が再び姿を現すはずだった。
だが——その穏やかな予感を打ち消すように、北側の森から異様な音が届いた。
バサバサバサッ!
静寂に包まれていた森の梢から、群れをなした冬鳥が一斉に飛び立ち、白い空へと逃げ延びていく。
それだけではない。
遠くの木々が擦れ合うような重い低音が地鳴りのように響き、雪を踏みしめる多数の足音が村の北側の柵へ向かって一直線に近づいてきていた。
「なんだ……?」
私が木鍬を手に取り、村の北口へ駆け寄ると、そこにはすでに自警団のバノックと、木斧を構えたレンが固い表情で立ち尽くしていた。
バノックの視線は、森の境界線にある古い木柵の向こうへ注がれている。
彼の腰の狩猟斧はすでに鞘から抜かれ、鉄の刃が冬の鈍い光を返していた。
「ハル、後ろへ下がっていろ。……森の様子がおかしい」
バノックの低い声に、張り詰めた緊張が走る。
次の瞬間、森の樹皮や雪を強引に押し分けるようにして、数頭の巨大な黒い影が姿を現した。
それは、体長ふた回りもある大ツキノワグマと、痩せこけたアナグマたちの群れだった。
「クマ……!? バノックさん、二月のこの時期にクマですか!?」
レンが驚愕のあまり声を裏返させた。
本来、この二月という寒さの残る時期、山のクマやアナグマたちは大木の洞や岩穴の奥深くで「冬眠」に入っているはずだ。
体温を下げ、春の雪解けまで深い眠りについて命をつなぐのが、この過酷な自然の絶対的な摂理である。
それが、体中に泥と枯れ葉をつけたまま、目を開けるのも痛々しいような混濁した様子で雪原を這い出てきている。
それらの動物たちは、空腹で人間を襲うような素振りすら見せなかった。
冬眠を強引に破られた錯乱と、背後から迫る「何か」への圧倒的な恐怖から、ただ目を血走らせ、白煙のような息を吐きながら村の横を通り過ぎ、南の街道筋へと脱兎のごとく逃げ走っていく。
「冬眠中の獣が、穴を追われて逃げ出してくるだと……?」
バノックの手が、強烈な緊張で斧の柄を固く握りしめた。
獣たちだけではない。
続いて森の陰から現れたのは、浅黒い皮膚を持つ二足歩行の害獣——小鬼の群れだった。
彼らもまた、手にした粗末な石斧を投げ打ち、身を縮こまらせながら、恐怖に悲鳴を上げて雪に足を取られつつ逃げてくる。
村の木柵に突き当たると、待ち構えるバノックたちの存在すら目に入らないかのように、爪を立てて必死に柵を乗り越えようともがいた。
「あ奴ら……襲撃ではない。森の奥で冬眠中の獣すら起こしてしまうような、巨大な『何か』に追われているのだ」
バノックが静かに吐き捨て、一歩踏み出した。
パシィン!
鋭い風切り音とともにバノックの投げた手斧が空を切り、先頭の小鬼の足元へ深く突き刺さった。
小鬼たちは悲鳴を上げ、バノックの放つ殺気に気圧されると、村の中へ踏み込むことを諦め、東側の谷沿いへと這うようにして逃げ去っていった。
逃走する生き物たちの足音が遠ざかると、北の森には再び静寂が戻ってきた。
しかし、それは冷たく重苦しい、不気味な沈黙だった。
風に乗って運ばれてくるのは、落ち葉の匂いでも雪の清冽な空気でもない。
冬眠の穴を根こそぎ暴いたかのような、湿った微かな土臭さと、焦げたような煤の匂い。
「バノックさん……冬眠中の獣まで起こすなんて、森の奥で一体何が起きているんでしょうか」
私が尋ねると、バノックは深く刻まれた眉間の皺をさらに強め、静かに首を振った。
「判らん。長年この森で生きてきたが、こんな異常事態は見たことがない。森の最奥……大樹の根元あたりで、山そのものを揺るがすような異変が起きているのは確かだ」
そこへ、騒ぎを聞きつけたグラック老人が、大きな鉄槌を手にして息を切らせながらやってきた。
「おい! 北の柵で大きな音がしたようだが、何ごとだ!?」
「グラックの親父……信じられないよ。二月なのに、冬眠中のクマや穴ぐらの動物たちが、怯えて山を下りてきたんだ」
レンの説明を聞いたグラック老人は、手にした鉄槌を重々しく地面へ突き立て、絶句した。
「二月に冬眠の穴を追われただと……? バカな、森の奥深くで地響きでも起きたというのか。一体何が潜みおったのだ……」
眉をひそめて森の奥を睨みつける村人たち。
その中で、私は以前、意識の片隅で目にした情報をふと思い出していた。
(……そういえば、以前あの掲示板の書き込みで読んだことがあったな)
大都市ルミナリアで家賃や食事代を払えず、NPCの警戒に遭って追われるように都市を去った一部のダイバーたち。
彼らがグループを作り、身を守る拠点や資材を求めて、この北側の深山へと足を踏み入れ、手当たり次第に木を伐採して勝手に開拓を始めたという報告が挙がっていたはずだ。
知識も備えもないまま山に入り、無謀な穴掘りや大規模な伐採を行った結果、冬眠中だった野生動物の巣穴を掘り返し、あるいは奥地に潜んでいた害獣の群れを刺激してしまったのではないだろうか。
真偽はまだ定かではない。
しかし、異邦人たちの軽率な行動の余波が、現実にこの過疎村へと波及し始めている可能性は極めて高かった。
バノックは腰の鞘へ斧を戻すと、私とレンの顔を交互に見つめた。
「ハル、レン。原因が何であれ、春が近づき雪が解け始めれば、奥から押し出された獣や害獣がさらに村の近くへ出没する恐れがある。明日から村の北口と東口の木柵を強化するぞ。グラック、鉄の補強金具を打てるか?」
「フン、理由はどうあれ村が脅かされるなら容赦はせん。ワシの鍛冶場をフル稼働させて、頑丈な杭頭と補強板を作ってやるわ」
「ハル、お前の手仕事の知恵も借りる。柵の土台を固め、水路から引き込んだ外堀の補強に取りかかってくれ」
「はい、承知しました。自分のできる限りの手作業で、村の防御を固めます」
私が力強く答えると、バノックは無骨な手を私の肩へ置き、深く頷いた。
春の足音が聞こえ始めた矢先に突きつけられた、冬眠すら許されない森の決定的な異常事態。
だが、私たちの胸にあるのは、かつてのような手遅れの絶望ではなかった。
この手で土を耕し、水路を直し、冬の屋根を守り抜いてきた確かな自負。
そして、過疎村の仲間たちとともに汗を流し、支え合ってきた強い絆がある。
夕刻、静まり返った北の森を静かに見つめる。
深く沈む夕陽が、白銀の木々を赤く染め上げていた。
これから訪れる春は、ただ穏やかなだけの季節ではないかもしれない。
森から押し寄せる脅威と向き合い、この過疎村と小さな芽を守り抜くための「新たな闘い」が始まろうとしていた。
私は握りしめた木鍬の柄の感触を確かめながら、どんな異変が訪れようとも、泥臭くこの土地を守り抜く覚悟を、静かに、そして深く胸に刻み込んでいた。




