第二十四話 ともだち
うああああああああああああああああっ!
僕は心の中で咆哮していた。
盤面は崩れた。ルナは盤の中央で丸くなり、神官の駒は床に落ち、ゴーレムの前線はもう戻せない。勝負は流れた。引き分けという形にするしかない。けれど、あれは終わりではなかった。僕はまだ負けていない。ヴァンもまだ勝っていない。あの細い隙間は見えた。次に騎兵が走れば後衛へ届くことも分かった。神官を壁にすれば止められる。捨てればまだ続く。苦しい。大きく不利になる。けれど、まだ選べた。まだ戦えた。まだ、負けるなら負けるところまで行けた。それなのに、盤が崩れた瞬間、僕はほんの少しだけほっとしてしまった。その瞬間から、ずっと胸の奥が気持ち悪かった。だから叫んだ。心の中で。
授業用の木剣は、僕の手には少し合わない。前後に伸びた鍔のある両刃剣を模した形で、僕が本来扱う刺突向きの細剣や片手剣とは重さの乗り方が違う。それでも、軽い。軽いと言われる本物の細剣よりも、ずっと軽い。だから踏み込める。だから突ける。だから、この胸の奥で燃えているものを、まっすぐ前へ出せる。
ヴァンは小柄だった。黒い髪と、読みにくい目。表情は薄く、何を考えているのか分からない。けれど木剣を持つ手だけは、妙に静かで、妙に確かだった。
狙うのは心臓。
勝負が流れた時、僕は納得していなかった。ヴァンも納得していない顔だった。たぶん、あの少年も続きを見たかった。僕が神官を捨てるのか、それとも別の手を選ぶのか、その意志を見ようとしていた。あまり喋らない。表情も動かない。けれど盤の前で、ヴァンは確かにこちらを見ていた。駒だけではなく、その先にある僕の選択を見ていた。
それが、悔しかった。オーレリアの手紙には、何度もヴァンの名前が出ていた。ヴァンはすごいのよぅ。ヴァンは面白いのよぅ。ヴァンは、あまり喋らないけれど、ちゃんと見ているのよぅ。オーレリアはたぶん、ただ見たものをそのまま書いただけだ。彼女は観察者として、すごいものをすごいと言っているだけだった。僕を下げるためではない。誰かと比べるためでもない。実際、ヴァンはすごいのだろう。盤の上でも、もう分かっていた。こちらの重い前線を見て、正面から受け、押されているように見せながら、騎兵の走る隙間を作っていた。それでも、胸の奥がざらついた。
ああ、これは嫉妬だ。認めた瞬間、足の運びが少しだけ軽くなった。名前の分からないものは絡みつく。名前を付けたものは、剣で斬れる。嫉妬の女神は、古い詩にも、騎士物語にも、貴族の教養書にも出てくる。美しいもの、愛されるもの、選ばれるもののそばに忍び寄り、人の目を曇らせる女神。けれど、僕はその下僕にはならない。オーレリアがすごいと感じたものなら、僕も同じようにすごいと感じたい。ヴァンが本当にすごいのなら、それをこの目で見たい。知らないから妬むのなら、知ればいい。剣を交え、言葉を交え、こいつが何者なのかを知ればいい。嫉妬の女神よ、去れ。知って、ともだちになる。きっとヴァンという少年は、ともだちになったら絶対に面白い。
「はあああっ!」
裏庭の石畳を蹴る。花壇も湖の光も視界の端にあった。けれど、僕の剣先は揺れない。見るのはヴァンの胸。ただ一点だった。
ヴァンは逃げなかった。避けない。下がらない。踏み替えもしない。その場で、木剣が動いた。上から来た。
僕は、叩かれる、と思った。だが、違った。力任せに押し潰される感触ではなかった。木剣が、自分の剣身の上を滑る。滑ったはずなのに、離れない。前へ出した力が、前で止められた。次に、下へ沈む。横へ流れる。まっすぐ伸びていたはずの突きが、丸い何かの表面を滑り落ちるみたいに、違う場所へ連れていかれる。何だ、これは。鍔の近くに衝撃が入った。重い。いや、重いだけじゃない。握りが跳ねた。指が浮く。腕の内側に、びりっと痺れが走る。前に出るつもりだった身体が、前へ行けない。剣だけが持っていかれる。意志より先に、手が負ける。木剣が、消えた。
カァァァンッ!
甲高い音が響いた。
僕の手から離れた剣は、すぐ足元の石畳へ叩きつけられた。乾いた音が裏庭に弾ける。次の瞬間、剣は石の表面で大きく跳ね返って宙を舞う。
「うわっ」
僕は前につんのめった。さらに、跳ね返ってきた木剣に驚いて一歩退く。足がもつれ、尻から石畳に落ちた。
木剣は花壇の向こうへ飛び、柔らかな草の上へ転がった。もしここが土の地面だったなら、あの剣はそのまま僕の足元に突き刺さっていたかもしれない。
裏庭が、一瞬だけ静かになった。
ミコトは目を丸くし、オーレリアは手帳を抱えたまま固まっていた。ハリエットは胸元に手を当て、ハリスは花壇の向こうへ飛んだ木剣を見ている。
僕は座り込んだまま、自分の手を見た。指はまだ、剣を握っている形を覚えている。けれど、そこには何もない。目の前では、ヴァンが構えを解いていた。息も荒れていない。勝ち誇った顔もしない。ただ、そこに立っている。
僕の喉の奥から、笑いがこみ上げた。
「は……ははっ。はははははっ!」
盛大に負けた。
言い訳のしようもないくらい、きれいに負けた。
でも、気分は悪くなかった。
むしろ、胸の奥がやけに軽い。将棋の時に残った濁りが、剣と一緒に手から飛んでいったみたいだった。
ヴァンが近づき、手を差し出した。
僕はその手を掴んだ。引き起こされる。思ったより小さい手だった。けれど、さっき自分の剣を奪った重さが、まだそこに残っている気がした。立ち上がっても、僕はその手を離さなかった。そのまま握手になった。
「すごいな、ヴァン。騎士団にいる兄上から習ったのか?」
「ちがう。……ちがわない。おれは本気でやった。それだけ」
「はは、どっちだよ!」
僕はまた笑った。
少し離れたところで、ミコトが瞬きをしていた。オーレリアは手帳を抱えたまま目を輝かせている。ハリエットは胸元に手を当て、ようやく息を吐いた。ハリスは落ちた木剣の方を見てから、石畳に残った音を確かめるように眉を上げていた。
「これで、ふたりは『ともだち』に?」
ミコトが尋ねた。
オーレリアが、くすっと笑った。
「ともだちだって確認したのよぅ」
「うん、いまさらね」
ハリエットがほっとしたように言う。
「ああ、いまさらな」
ハリスも短く頷いた。
「そっか……」
ミコトは、夕日を背に握手する僕達を見た。
それから、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。




