第一話 水底の手
第一話 水底の手
落ちた。
そう気付いたのは、衝撃のあとだった。
足場が消えた、と思う間もなかった。
身体がふっと浮いた。
次の瞬間、冷たいものが全身を叩いた。
水だった。
耳の奥で、世界が潰れた。
鼻と口に水が入る。
胸から息が抜ける。
叫ぼうとして、声の代わりに泡が出た。
少女は水を掻いた。
空気がない。
地面がない。
伸ばした手は、何も掴まない。
光が揺れていた。
白く、薄く、遠い。
そこが水面だと気付くより先に、身体はさらに沈んだ。
服が重い。
水を吸った布が腕に絡む。
髪が頬に張りつく。
眼鏡の奥で、光が歪む。
少女はもう一度、水を掻いた。
届かない。
足を動かした。
上がらない。
喉が勝手に開こうとする。
駄目だと思った。
吸えば水が入る。
けれど生存本能は、息を探していた。
胸が痛い。
肺が焼ける。
冷たい水の中なのに、内側だけが熱い。
『いや』
泡がこぼれた。
指先が、水を掻いた。
光が遠くなる。
その時だった。
手首を、何かが掴んだ。
水ではなかった。
強い。
熱い。
痛いほど、離さない。
誰かの手だった。
少女は反射で握り返した。
そこから先は、切れ切れだった。
身体が引かれる。
水が耳を裂く。
光が近付く。
そこで、意識が途切れた。
*
長い暗闇、静寂の時を経て、
次に目を開けた時、空があった。
雲が棚引いている。
朝焼けにも、夕焼けにも見えた。
薄く色づいた空が、ぼやけた視界いっぱいに広がっていた。
聞きなれない言葉が耳に入る。
背中の下には、硬いものがある。
苔生した木材の匂い。
澄んだ水の匂い。
知らない風の匂い。
息を吸うと、胸の奥がひりついた。
「あ、良かった。気が付いたね」
すぐ側で、女の子が言った。
少女は瞬きをした。
視界がぼやけている。
すぐ近くに、誰かが膝をついている。
その子が身を乗り出すようにして、こちらを見ていることだけは分かった。
「起きられる? 苦しくない?」
少女は答えようとした。
声の代わりに、咳が出た。
「無理しないで」
女の子が、肩に手を添えた。
その手を借りて、少女は少しだけ身を起こした。
そこは、水場に突き出した小さな桟橋だった。
広くはない。
せいぜい五メートルほどの、古い木の足場。
一艘の小舟が繋がれ、穏やかに揺れている。
その奥には、静かな水面が広がっていた。
湖だ。
朝の光を受けて、湖面は淡く揺れる鏡のようだ。
その向こうには、大森林があった。
さらに遠く、青く霞んだ山々の尾根が連なっている。
陸地の方に振り返ると、
すぐ側に、女の子。
少し離れて、男の子。
桟橋の先、他にも三人の子供達が立っている。
その向こうに、古めかしい建物があった。
茶色がかったオレンジ色の屋根瓦。
いくつも並ぶ煙突。
そのうち、中央の一番太い煙突から、白い煙が上がっている。
「皇國歴1002年、覇竜11年、4月19日、海竜曜日。午前5時32分」
三人の子供、その内の一人が手帳に何か書き込んでいる。
「七聖学院南湖畔、桟橋上にて、意識不明の少女を発見。身元は不明、目立った外傷は無し。珍しい服装」
少女は、濡れた服の胸元を押さえた。
見慣れたはずのセーラー服だった。
濃い襟。
胸元の結び目。
膝丈のスカート。
水を吸った布が、肌に貼りついて重い。
だがそれよりも、世界の輪郭がないことの方が落ち着かなかった。
少女は顔に触れた。
ない。
「……めがね」
掠れた声が出た。
「眼鏡?」
すぐ側の女の子が聞き返す。
少女は小さく頷いた。
眼鏡がない。
それだけで、足元がなくなったような心細さがあった。
少女は湖面を覗いた。
そこに、濡れた娘の顔が映っていた。
黒い髪。
濡れて張りついた髪の奥に、紫を含んだ艶が走っている。
黒い瞳。
光の角度で、そこにもほんの少しだけ紫が滲む。
顔立ちは幼い。
身体も小さい。
眼鏡がないせいで、どうにも締まらない。
『だめだ、これ』
少女は思った。
『眼鏡がないと、落ち着かない』
その時、少し離れていた男の子が口を開いた。
「これかい?」
ぼやけた視界の中で、男の子の手が差し出されている。
黒縁の眼鏡だった。
「……それ」
少女は両手で受け取った。
濡れていた。
けれど、壊れてはいない。
指先で水滴を拭う。
震える手で、耳に掛ける。
世界に輪郭が戻った。
湖の線。
森の影。
山の青。
屋根瓦の色。
煙突から上る煙。
階段下の三人。
すぐ側の女の子の顔。
少し離れた男の子の顔。
この二人の髪は、稲穂のような金色だった。
「何があったの?」
金髪の女の子が尋ねた。
少女は唇を開きかけた。
けれど、何も言えずに首を振った。
「どこから来た?」
金髪の男の子が尋ねる。
少女は、同じように首を振った。
二人は困ったように顔を見合わせた。
男の子は肩を竦め、女の子が尋ねた。
「じゃあ……名前は?」
それだけは、残っていた。
「……ミコト」




