第二話 医務室
白いシーツは、思っていたよりも柔らかかった。
肌に触れる布はさらりとしていて、乾いた陽の匂いがする。
そこに、甘く苦い草のような匂いと、磨かれた木の匂いが少し混じっていた。
ミコトは寝台の上で、膝の上に置いた手を見ていた。
指は動く。
息もできる。
胸の奥はまだ少しひりつくけれど、さっきよりは楽だった。
部屋は静かだった。
白い布。
薬瓶の並んだ棚。
窓辺に差し込む朝の光。
衝立。
整えられた寝台。
磨かれた床。
知らない場所だった。
けれど、乱暴な場所ではなかった。
誰かが毎日整えている部屋だと、シーツの皺の少なさや、棚の瓶の並び方で分かった。
桟橋で気が付いたことも。
名前を聞かれて、ミコト、と答えたことも。
そのあと、濡れた服のままではいけないと、ここへ連れて来られたことも。
ミコトは、全部覚えている。
ただ、覚えていることと、飲み込めていることは違った。
部屋の隅では、椅子の背にセーラー服が掛けられていた。
濃い襟も、胸元の結び目も、膝丈のスカートも、まだ水を含んで重そうに垂れている。
椅子の下には、水を受けるための布が敷かれていた。
その前に、女の子が一人いた。
手帳を片手に、セーラー服を観察している。
布地の端や襟の形を、目で追っている。
触ってはいない。
けれど、触りたくて仕方がない、という顔をしていた。
「オーレリア。勝手に触ったら駄目よ」
静かな声がした。
声の主は、寝台の傍らに立っている黒い修道服の女の人だった。
黒髪に、黒いヴェール。
額から頬へかけて、白い布の縁取りが覗いている。
胸元には小さな聖印があり、誰が見てもシスターだと分かる姿だった。
「触ってはいないわ。まだ」
女の子は、手帳から目を離さずに答えた。
「まだ、なのね」
シスターは少しだけ呆れたように言った。
けれど、その声はきつくなかった。
「見ているだけ。縫い方が全然違うの。布も、七聖学院の制服とも、街の服とも違うし。完璧に不思議ね」
七聖学院。
ミコトは、その言葉に引っかかった。
学院ということは、ここは学校なのだろうか。
そう思ってから、ミコトは自分の服へ目を落とした。
いま着ているのは、白い半袖シャツと短パンだった。
どちらも乾いていて、肌に張り付かない。
袖口には、洗い立ての布の匂いが残っている。
体操服、に見える。
胸元には、小さな盾形の刺繍があった。
細い金糸で縁取られた縦長の盾。
その中央に、七枚の花弁を持つ花。
花の芯には、刃を下に向けた剣十字が収まり、下の方には湖の波のような青い線が三筋、縫い込まれている。
校章だろうか。
さっきの女の子が言った、七聖学院のものなのかもしれない。
「そういえば、自己紹介がまだよね」
シスターが、ミコトの方へ向き直った。
「私は、つばめ。ここの医務室を預かっているわ」
言葉は、自然に分かった。
桟橋で最初に聞いた知らない響きとは違う。
意味がほどけて、ちゃんと胸の中に落ちてくる。
「あなた、和語は分かるのよね?」
「和語? ……はい、多分……」
「あなたが今話している言葉よ。公用語の方は、まだ難しいみたいだったから」
公用語。
それが、桟橋で聞いたあの知らない言葉のことなのだろうか。
分からない。
けれど、つばめの言葉が分かることだけは確かだった。
「なら大丈夫ね」
つばめは、少しだけ頷いた。
「さっきも診たけれど、もう一度だけ確認させて。胸はまだ痛む?」
「……少し、ひりひりします。でも、大丈夫です」
「でしょうね。水を飲んでいるもの。無理に深く吸わなくていいわ」
つばめは、ミコトの手首にそっと指を添えた。
触れ方はやさしい。
けれど、脈を取る指は迷わなかった。
少しの間だけ、つばめは何も言わずに脈を見た。
「うん。悪くないわ」
そう言って、手を離す。
「先生が来るまで、難しい話は後回し。今のあなたの仕事は、ちゃんと休むことよ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
つばめは短く答えて、それ以上は聞かなかった。
少しだけ、間が空いた。
その間を埋めるように、寝台のすぐ側にいた金髪の女の子が、小さく姿勢を正した。
「あの」
淡い麦穂色の髪を、編み込みを混ぜて横にまとめている。
濃紺のリボンが、朝の光の中で静かに揺れていた。
「私は、ハリエット」
女の子は言った。
「ハリエット・ヤクトブレオ。えっと……その服は、私のです」
ミコトは自分の着ている体操服を見て、それからハリエットを見た。
「ありがとう、ございます」
「うん。どういたしまして」
ハリエットは、ほっとしたように笑った。
「きつくない?」
ミコトは袖口を少し摘まんで、首を振った。
「大丈夫です」
「よかった」
その笑い方は、おっとりしていた。
困っている相手を放っておけなくて、近くにいる。
そのくせ、自分が近すぎないか、少し不安そうにもしている。
寝台から少し離れた場所に、もう一人、金髪の男の子が立っていた。
ハリエットより少し濃い金色の髪。
緑色の目。
前髪が片側に落ち、跳ねた髪が一房だけ妙に元気だった。
彼は、ハリエットほど近くには来ない。
けれど、こちらを見ていない訳でもなかった。
「ハリス・ヤクトブレオ」
男の子が言った。
「ハリエットの弟です」
「自分で言えたね」
ハリエットが小さく言う。
「姉さん」
ハリスは少しだけ不満そうにしたが、それ以上は言い返さなかった。
セーラー服の前にいた女の子が、そこでようやくミコトの方を向いた。
明るい髪。
きらきらした目。
手には、小さな筆記具と手帳。
「私はオーレリア・キルシュ」
その子は、少し勢いよく名乗った。
「あなたの服は、あとでちゃんと返すわ。乾いたらね」
「……ミコトです」
「知っているわ。さっき聞いたもの」
オーレリアは手帳を開き、そこに書かれた文字を指で押さえた。
ミコトは目を細めた。
読める。
そこには、見慣れた文字に近い形で、ミコト、と記されていた。
「それ……」
「和語の記録」
オーレリアは少し得意そうに言った。
「まだ練習中だけど、発音を残すならこっちの方がいいと思ったの。あけべ文字だと、少し違ってしまうから」
あけべ文字。
ミコトの知らない文字が、この場所にはある。
いま、この子達が話しているのは、ミコトの分かる言葉だった。
けれど、それがこの場所では普通ではないのだと、だんだん分かってくる。
「あなたが話しているのが、和語」
ハリエットが補うように言った。
「私達も少し話せるの。オーレリアは、書く方が好きだけど」
「記録に向いているから」
「面白いからでしょう」
「それもあるわ」
ハリエットとオーレリアのやり取りは、少しだけ緩かった。
ミコトは三人を見る。
近くにいてくれる子。
少し離れて見ている子。
書き留めている子。
知らない部屋の輪郭が、少しずつ線を持ち始める。
けれど、分からないことの方が、まだ多い。
七聖学院。
公用語。
和語。
あけべ文字。
医務室を預かるシスター。
先生を待つ子供達。
聞き慣れた言葉と、聞き慣れない言葉が、同じ部屋の中に並んでいる。
つばめが、不意に顔を上げた。
それだけだった。
ミコトが理由を考えるより先に、扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、背の高い男だった。
子供達が、一斉に姿勢を正した。
ハリエットの指先が、膝の上で小さく揃う。
ハリスは一歩だけ退く。
オーレリアは手帳を胸元へ抱え直す。
濃い色の軍服。
硬そうな襟。
肩に置かれた階級章らしき飾り。
磨かれた長靴。
ミコトは息を呑んだ。
軍人が来た。




