そして勇者は召喚された
場は凛とした、張りつめた空気に満ちていた。
「不可侵の盾。万物を貫く剣を持つ、勇気ある者よ!」
無数に響く鈴の音が、だんだんと大きさを増していく。
彼らは魔法陣を囲み、手にある杖を繰り返し床へと打ちつけていた。真っ白なローブを身にまとい、同じ調子で飾りの鈴を鳴らし続けている。他に聞こえるのは、音に混じって読み上げられている詠唱だけ。
「その力をもって、暗雲うずまく世を、巣食う闇を晴らしたまえっ!」
全員がフードを目深に被るなかで、一人外れた場所で立つ男だけが、覆う物もなく素顔をさらしていた。
結んだ白銀の長い髪に、銀の瞳をした渋い中年男性だ。『賢者ファウラ』――この神殿内で最高位の存在である、神と交信できる数少ない人間。
彼は肩口に垂れた髪を背中へと払い、より熱がこもった声を張り上げた。
「御魂の門が開かれし時、我らの声は道となり、足もとを照らす。光をまとう者よ、神界より来たる遣いよっ! 精霊に愛されしヴァルアネスの地へと、その姿を現したまえッ!」
詠唱に応えるかのように、中心にある魔法陣は時おり強く明滅していた。
その様子を、誰もがじっと息を詰めて見守る。
ファウラもまた、彼らと同じく期待の面持ちでもって待っていた。
この陣がヴァルアネスと繋がる、科学という技術が発達したもうひとつの異世界――すなわち、『神界』へと通じる時を。
呼び声に応え、勇者が姿を現す時を。
やがて陣に書かれた文字は時計回りに輝きはじめ、部屋中をまばゆい光が覆った。
「目を隠せッ!」
飛んできた指示に従い、皆が身を屈める。真っ白な壁と床、場にいる全員を膨れ上がる閃光が包み込んでいく。
……それからどれだけの時間が経ったのか。
恐る恐る覆いを外した者の目に、その姿が映り込んだ。
「ギギッ、ギ」
しゃがれたうめき声。
口からのぞく鋭い牙、ただれた肌。
部分的に肉が溶け、崩れきった体。
飛び出した眼はぎょろぎょろと動きながら、こちらを確かに捉えている。
「なんっ……だ、これは……?」
魔法陣の中央には、さっきまではいなかったものが存在していた。
人間と分かる特徴を持ちながらも、およそ人間からは乖離した、変わり果てた姿。
この世界――ヴァルアネスには存在しない生き物だった。
「ひぃッ!!」
「もっ……モンスター……か?」
「ファウラ様、これは一体……!」
予想外の状況に、場に混乱が広がっていく。
賢者ファウラにとってもまた不測の事態であった。
これまで召喚の儀式が成功し、勇者を喚ぶ事が出来たのはたった二回だけだ。そのどちらもが五体満足で、何度失敗したとしても、今までこんな事は起きなかった。明らかな異常事態だ。
けれども混乱を収めるために平静を装い、ファウラは静かに言葉を紡いだ。
「少なくとも勇者ではないだろう。あちら側の生き物か、道を通る時に何らかの力が働いたのか……とにかく、万一に備えこのまま退避する。結界魔法の準備を」
「はっ!!」
全員がじりじりと後退していくのを、化け物はじっと見つめていた。
その不気味な眼差しからは、およそ人間らしい感情や知性などは窺えない。あるのは、生物としての本能だけだ。
「ギギャ、ギャ」
ふいに鳴き声を上げた化け物は、獲物を品定めするかのようにゆっくりと視線を巡らせた。
得体の知れなさと緊張感に、一同がごくりと息を呑む。……と、その時。
――シャァンッ!
突如として、場の空気を引き裂くような乾いた音が響き渡った。
化け物の視線がぎょろりとそちらへ向く。
音の発生源であるひとりの神官は、時が止まったかのように杖を取り落とした姿勢のままで固まっていた。ゆっくりと目線だけを上げた彼は、状況を悟り、引きつった表情を浮かべる。
「ひ……ヒッ、ひイィいいいいいいぃィイッ!!」
「おい、待てっ!?」
制止の声にも構わず、恐怖に引きつった顔で部屋の出口へと走っていく。
その無防備な背中めがけ、化け物は四つ足で襲い掛かった。
「ぁがッ!? あ、ぁ」
あっけなく組み敷かれた男は、泣き笑いの表情を浮かべながら周囲の者へと手を伸ばす。
「たすっ……け、」
瞬間、止める間もなく鋭い牙が首筋へと突き刺さった。
真っ白な床に鮮血が飛び散り、誰もが悟る。
――――逃げなければ、殺されるのだと。
「わあああぁあああぁぁあああッ!!!」
誰かの悲鳴を引き金に、全員が我先に出口へと駆け出していく。
長いローブを脱ぎ捨て決死の表情で走る者、転んで動けずにいる者。重い扉を開けようと歯を食いしばる者。
その中で、化け物に組み敷かれている男へと近づく者たちがいた。
「助けないとっ……誰か手を貸してくれ!」
「放っておけ、自分がやられるだけだッ!!」
彼らはぐっと拳を握り、杖を拾い化け物へと立ち向かっていく。
牙が離れ、濁った眼は次なる獲物へと向いた。
「…………ギギッ」
ファウラは察した。
あの予言の、本当の意味を。
〝覆い尽くすほどの強大な闇が、いずれ人々を包み込み、この世は混沌と絶望に満ちるであろう〟
数日前の儀式で、自分が口にした言葉だ。
頭に浮かんできた断片的な未来の映像からは、空が暗雲に包まれていく光景と、恐怖する人々。そして、漆黒の瘴気をまとった何者かの姿が見えた。
災厄の前触れだと感じたファウラは、事前に対処するため、勇者召喚を執り行うよう指示を出した。
それがまさか、はじまりだったなんて。
「お逃げ下さい、ファウラ様! ファウラ様ッ!!」
見開いた瞳に、ゆらりと立ち上がる姿が映る。
白いローブを纏ったその化け物は、口からのぞく牙を光らせ、獰猛に嗤った。
「……真に勇ましき者よ……」
震える手を組んだファウラは、陽が差し込む天窓を仰ぎ見る。
「どうか、この世界の行く末に……光を……」
足もとにピシャリと鮮血が飛び、誰かの悲鳴が響き渡った。
これは人々の絶望と、死から始まる物語。
闇から生まれる小さな希望が、やがてすべてを祓うほどに。
強く、大きく育っていく物語。
結末は、神さえも知らない――……。




