【第六話:泥に咲いた名】
武田の軍勢が完全に去り、城内に安堵と疲労が混じり合った空気が流れる。
奥の間で、五郎は具足を脱ぎ捨て、白い小袖姿で数正と向き合っていた。
「……数正殿。教えてくれ」
五郎の声は、静かに震えていた。
「兄上は……殿は、どのようにして果てられた。あの方は、戦を、人を傷つけることを、あれほど嫌っておられたのに」
数正は深く首を垂れ、絞り出すように語り始めた。
「……三方原の退却戦は、地獄にございました。武田の騎馬隊に背を突かれ、我らは散り散りとなり……。殿の周囲には、私を含め、わずか数騎しか残りませんでした」
数正の脳裏に、あの日の光景が蘇る。
泥濘に足を取られ、雪混じりの風が吹き荒れる中、家康は馬上で激しく震えていた。
「殿は、泣いておられました。己の不甲斐なさに、そして死んでいった家臣たちへの申し訳なさに。……『私のせいだ、皆、私が弱いばかりに』と、何度も、何度も」
五郎は拳を握りしめる。目に浮かぶのは、自分を寺から迎え入れた時の、あの優しい兄の背中だ。
「ですが、敵の追撃が迫り、もはやこれまでと悟られた時、殿は突然、馬を止められたのです。そして懐から、あの紙を取り出されました」
『数正、これを五郎に……弟に届けてくれ』
「私は、殿をお連れしようとしました。ですが殿は、震える手で私の腕を振り払い、こう仰ったのです。『私は臆病者だ。だが、弟にだけは、この泥を被らせたくない。……あいつには、私の代わりに、新しく、清らかな時を生きてほしいのだ』と」
家康は、追ってくる武田の影を見据え、生まれて初めて「主君」としての、強く、寂しい笑みを浮かべたという。
「殿は、自ら殿を引き受けられました。私に、この名を五郎殿へ届ける時間を稼ぐために。……最後は、数多の矢を受けながらも、決して背を見せず、前を向いて息絶えられました」
数正の頬を、一筋の涙が伝った。
「あの方は……最後まで、貴方様の兄であろうとしたのです」
沈黙が部屋を支配した。
五郎は懐から『元康』と書かれた紙を取り出し、食い入るように見つめた。血の汚れは、兄が自分を逃がすために流した、愛の証だった。
「兄上……。あなたは、ちっとも臆病なんかじゃない」
五郎は紙を額に当て、声を殺して泣いた。
兄が捨てたかった『家康』という重荷。それを自分が背負い、兄が自分に歩ませたかった『元康』という人生を、この家康という仮面の下で全うする。
「数正殿。私は決めた。……この名は、私の心の奥底にだけ刻んでおく。表では、私は誰よりも強く、揺るぎない『徳川家康』として生きてみせる。兄上が命を賭して守りたかった、この徳川を、私が必ず天下まで連れて行く」
五郎の目から、涙が乾いた。
その瞳には、迷いは微塵もなかった。




