【第五話:博打の夜】
浜松城の城門は、不気味なほどに大きく開け放たれていた。
城内には至る所に篝火が焚かれ、夜の闇を赤々と照らし出している。だが、そこには一兵の姿もない。
その静寂の真ん中、広間の縁側に、五郎はどっしりと腰を下ろしていた。
手には、酒杯。
周囲に控えるのは、顔色一つ変えない酒井忠次と石川数正のみだ。
(……来る。必ず、来る)
五郎の心臓は、具足の下で早鐘を打っていた。酒を口に含もうとする手がわずかに震えそうになるのを、膝を噛むようにして抑える。
やがて、遠くから蹄の音が聞こえてきた。
一つ、二つ……いや、数百の馬の足音だ。
城門の向こう、闇の中から現れたのは、武田家最強と謳われる「赤備え」の騎馬隊。その先頭に立つのは、名将・山県昌景であった。
山県は城門の前で手綱を引き、怪訝そうに城内を睨み据えた。
「……これは、いかなる趣向か」
山県の鋭い視線が、広間に座る「家康」に突き刺さる。
三方原で壊滅したはずの徳川家康が、敗走したその日の夜に、無防備に酒を飲んでいる。常識で考えれば、これは伏兵が潜んでいる「罠」以外の何物でもない。
「徳川殿……。もはや狂うたか。あるいは、死を覚悟しての振る舞いか」
山県の問いに、五郎は答えなかった。ただ、ゆっくりと酒杯を傾け、相手を値踏みするように薄く笑ってみせた。
その脳裏には、懐に隠した兄の遺品――『元康』の文字が浮かんでいた。
(兄上……。あなたは戦が大嫌いで、いつも震えておられました。でも、家臣を守るためなら、その震えを隠して立ち上がった。今の私も、同じです)
五郎はゆっくりと立ち上がり、数歩前へと進み出た。
赤々と燃える篝火が、五郎の顔を照らす。その瞳に宿るのは、臆病な男が死を越えて手に入れた、静かな狂気にも似た光だ。
「山県殿、夜風が冷える。……一杯、いかがかな?」
その声は、驚くほど低く、城内に響き渡った。
山県昌景は、一瞬だけ息を呑んだ。
山県の目には、目の前の「家康」の背後に、数千の伏兵が潜んでいるかのような錯覚が見えていた。この男がただの敗軍の将であれば、これほど堂々と敵を迎え入れるはずがない。
「……引き上げだ」
山県が短く命じた。
「罠だ。あまりに出来すぎている。家康……これほどまでの胆力を持つ男であったか。深追いは無用。信玄公に伝えよ、浜松城は容易ならぬ、と」
赤備えの騎馬隊が、潮が引くように闇へと消えていく。
その蹄の音が遠ざかり、完全な静寂が戻るまで、五郎は一歩も動かなかった。
「……殿」
背後から石川数正が歩み寄り、その肩を支えた。
五郎の身体からは、一気に力が抜けた。冷や汗が背中を伝い、握りしめていた酒杯が、指の間からこぼれ落ちて床に砕けた。
「……退きましたか」
「はっ。見事な立ち振る舞いにございました。……もはや、誰も貴方様を影とは呼べませぬ」
酒井忠次が、深く、深く頭を垂れた。
五郎は震える手を懐に入れ、兄が遺した紙に触れた。
この夜、五郎は名実ともに「徳川家康」という名の呪縛、そして希望を引き受けたのだ。




