【第二十五話:看破 ——薬草の香りと偽りの主君】
慶長三年、八月。伏見城、徳川屋敷。
太閤秀吉の死が刻一刻と近づき、城内が静まり返った水底のような沈黙に包まれていた夜のことである。
三成は激しい胃の痛みに耐えながら、五郎(家康)と対峙していた。 五郎が差し出した薬の椀を受け取り、一息に飲み干すと、三成は無意識に懐へ手を差し入れ、一連の「水晶の数珠」を取り出した。
カチ、カチ……。
透明な水晶の中に、一筋の朱い紐が通されたその数珠を指先で弾く。 硬質な音が、静寂の部屋に不気味に響く。それは五郎の「嘘」を一つ一つ削り取っていく、死の算盤の音であった。
「……徳川殿。この薬の調合、武家が嗜む医術を超えている。まるで、長年寺で薬を練り続けてきた者のようだ」
五郎は「狸の笑み」で誤魔化そうとするが、三成はその五郎の手首を逃さず押さえつけた。 三成の指に巻かれた氷のように冷たい水晶が、五郎の親指の付け根にある、温かく硬い「薬研のタコ」に深く食い込む。
「……戦場で太刀を振るってきた武将の手ではございませぬ。そして、貴殿からは戦の匂いがせぬ」
至近距離で、三成の鼻腔を突いたのは、深く、静かに沈殿した白檀の残り香であった。
「代わりに、この香りがする。……特定の女人との安らぎを魂の結界とし、他を一切寄せ付けぬ者だけが纏う匂いだ」
カチ。また一つ、水晶が鳴る。
三成は懐から、あの塗り潰された家譜の写しを取り出し、五郎の目の前に音を立てて広げた。
「数正殿が去ってからの側室の不自然な激減。阿茶殿が隠蔽し続ける若君の不始末。……私がその算盤の狂いに気づかぬとでもお思いか。貴殿は、己の偽物としての血を一滴も遺さぬため、死に物狂いで『家康』を演じているのではないか」
カチ。
「厚く塗り潰された下に隠された、天文十八年八月十五日に生まれた子の名。……本多忠真殿がその場で『死産』の証文を認め、数正殿が隠し通そうとした影の存在」
カチ、と最後の玉が弾かれる。 そして、部屋から一切の音が消えた。恐ろしいほどの無音が、五郎の息の根を止めるように空間を支配する。 三成は水晶を強く握り込み、五郎の瞳を真っ向から射抜いた。
「……貴殿は。……五郎殿であろう?」
五郎の指先が、微かに震えた。 彼は静かに、襟元の文箱に触れた。 そこには、かつて兄・家康が遺した直筆の『元康』の紙が、ひしゃげながらもひっそりとしまわれている。 その紙の微かな温もりが、二十余年彼を縛り付けてきた重苦しい鉄の鎧を、内側から解き放っていくようだった。
五郎はゆっくりと「家康」の表情を崩し、その瞳に絶望的なまでの安堵を宿した。
「……名は、捨てた。 私はただの……お愛という女を愛しただけの、寺の小僧よ。 本物の兄上が死したあの日、数正に拾われ、この地獄を歩まされることになった……名もなき器だ」
三成は衝撃に身を引いた。 だが、そこにあるのは嫌悪ではなかった。 むしろ、目の前の「偽物」が吐き出した言葉の重み、そして薬草を煎じ続けてきたその手が、誰よりも深くこの国の平穏を願っていることを、喉に残る薬の苦味と共に悟ったのだ。
「……治部殿。いつからだ。いつから私の正体に気づいていた」
五郎の声は、掠れていた。 三成はゆっくりと手を離すと、水晶の数珠を再び懐に収めた。
「最初にお会いした、あの大坂城の夜にございます。 ……貴殿の所作には、一の狂いもございませんでした。 石川数正殿が作り上げた『徳川家康』という脚本は、実に見事であった。 だが、あまりに美しすぎた。 貴殿の政には、本物の家康公が持っていたはずの『濁り』がない。 阿茶殿が必死に帳尻を合わせようとしているが、私の算盤を誤魔化すには、少々、愛が深すぎましたな」
五郎は自嘲気味に笑い、がくりと肩を落とした。
「そうか。お前という男の前では、二十年の芝居もただの薄紙であったか。 ……ならば、今すぐ表へ出て叫ぶが良い。 『ここにいるのは三方ヶ原で死んだ家康の身代わりだ』とな。 それで、この虚構の連鎖は終わる」
「……叫んで、何になります」
三成の声は、驚くほど静かであった。
「私は理を重んじる男。 ……今の日の本にとって、どちらが『利』があるかを計算したまで。 血筋ばかりが立派で、野心に溺れる本物の家康公が御する世か。 それとも、身代わりという地獄を這いながら、薬草を煎じるように民の傷を癒やそうとする『偽物』が治める世か」
三成は身を乗り出した。 青白い顔に、鬼気迫る情熱が宿る。
「……五郎殿。 貴殿のその天下を欺く虚妄、この石田三成、冥土の土産といたしましょう。 ……だが、日の本は再び戦の火に包まれようとしておる。 なれば、我らでこの『乱世の仕舞い』を書き直そうではないか」
三成は、五郎の前にどっしりと座り直した。
「……私は豊臣の忠臣として、あえて貴殿に牙を剥く『不忠の汚名』を被りましょう。 貴殿は、それを裁く静謐の主となられよ。 ……戦という名の舞台で、争いを好む諸大名を一息に掃き清める。 ……それが、私なりの理にございます」
五郎は、目の前の「毒」を自ら飲み込もうとしている男の覚悟に、震える手で再び薬の椀を差し出した。
「……治部殿。それは、そなたの命を賭した乾坤一擲の勝負だぞ」
「勝負ではございませぬ。……これは、盤石の理にございます。……殿」
二人の間に漂う白檀の香りが、夜の闇に深く溶け込んでいった。
薬草の苦味と、白檀の甘い香り。 名前を捨てた男と、名前を汚すことを選んだ男。
この夜、二人の男は、歴史という巨大なキャンバスに「泰平」を描くための、共犯者となった。




