【番外編:暁の導標(みちしるべ)】
十九日の夜は、五郎にとって一年で最も長く、最も静かな夜だった。
阿茶がいつものように焚いてくれた白檀の香りが、部屋の隅々まで満ちていく。それは、あの日浜松の別邸で、お愛が自分にだけ見せてくれた「月のような微笑み」の残り香のように思えた。
五郎の目の前には、長年開けられずにいた小さな文箱があった。
これを開ければ、彼女がもうこの世にいないことを突きつけられる。そう思うと指先が震え、いつも蓋に触れる直前で諦めてきた。
だが今夜は、香りに背中を押されるようにして、五郎はそっと指をかけた。
「……お愛。いい加減、怒られそうだな」
蓋を開けると、色褪せぬままの文が一番上に置かれていた。
そこには、凛とした、けれどどこか温かみのある彼女の筆跡で、『貴方様へ』とだけ書かれていた。
五郎は息を呑み、その紙を広げた。
あかつきの 空にしづめる 月影の
山の端隠れて 君を照らさむ
「これだ……」
五郎の脳裏に、かつて数正から聞いた言葉が蘇る。
三方ヶ原の直後、死を覚悟したお愛が口ずさみ、冷徹な数正の心を揺さぶったという、幻の和歌。
浜松城のあの日、「どこかに隠しておきますから、いつか探してくださいね」と、悪戯っぽく笑った彼女の顔。
数正が「確か、暁の空がなんとかと言っておったが……」と、端数の合わぬ表情で首を捻っていた、あの歌の真実が、今、五郎の手の中にあった。
「……山の端、隠れて」
五郎は、その一節を何度も口の中で繰り返した。
お愛は、命を落として姿を消すことさえ「月が山の端に隠れる」ことだと言っていたのだ。
姿が見えなくなっても、光そのものは消えてはいない。
自分は山に隠れても、影武者として暗闇を歩む「君(五郎)」を、ずっと照らし続けよう。
「お前は……最初から、わかっていたんだな」
五郎の目から、一筋の涙が溢れた。
自分が家康としてこの二十余年を歩めたのは、自分の力ではなかった。
お愛が、あの日からずっと「暁の空」に留まり、見えない光となって自分の足元を照らし続けてくれていたからなのだ。
五郎は、その文を胸に強く押し当てた。
文箱を閉じることは、もう怖くなかった。
お愛はいないのではない。この和歌という名の「器」の中に、彼女の魂は今も、そしてこれからも自分と共にあり続ける。
五郎は、彼女の手紙を再び文箱に戻し、慈しむように撫でた。
その手紙は、彼が「浮世の夢」を終えて、あのお愛の待つ暁の空へと旅立つその日まで、生涯手放されることはなかった。




