【第四話:空っぽの城】
回想の残滓を振り払うように、五郎は強く目を閉じた。
まぶたを開ければ、そこは寺の静寂ではなく、別邸でもなく、死の気配が漂う浜松城の一室だ。
「……殿」
襖の向こうから、石川数正の声がした。
「入れ」
五郎は、兄・家康がよくやっていたように、少し顎を引いて応えた。
入ってきたのは、数正と酒井忠次。
二人の顔には、感傷に浸る隙など一分も残っていない。
「武田の先鋒が、目と鼻の先まで迫っております。その数、およそ三千。……対して我が方に戦える者は、もはや数百もおりませぬ」
数正の報告は非情だった。
三方原で壊滅的な打撃を受けた徳川軍に、武田の追撃を跳ね返す力はない。
「打って出るか、あるいは籠城して果てるか……。殿、ご決断を」
忠次が、五郎の目をじっと見据える。
これは試練だ。二人は五郎を「家康」として扱うと決めたが、同時に五郎が「主君」として使い物になるかどうかを測ってもいる。
(兄上なら、どうされただろうか……)
兄は臆病だった。けれど、誰よりも家臣の命を惜しんだ。
五郎は、震える膝を、上から強く押さえつけた。
「……城門を、開け放て」
「……何と?」
数正が目を見開く。
「城中の篝火をすべて焚け。門を開き、一兵も置くな。私は、この広間で悠々と酒を飲んで待つ」
「……『空城の計』にございますか」
忠次の目が、わずかに細まった。
それは、城が空であるかのように見せかけ、慎重な武田軍に「罠がある」と思わせて撤退させる、希代の博打だ。
「今の我々に、まともに戦う力はない。ならば、疑わせて退かせるほかあるまい。……数正、忠次。お前たちが守りたかったのは、徳川の『看板』だろう? ならば、私がそれを守り抜いてみせる」
五郎の言葉は、もはや影のそれではない。
「心優しい兄」が守りたかった家臣たちを救うため、彼は「冷徹な策士」の仮面を被ろうとしていた。
「……承知いたしました」
忠次が、わずかに口角を上げた。その顔には、絶望ではなく、微かな期待が宿っている。
「では、我らは門の外で敵を迎え撃つ……ふりをいたしましょう。殿、最高の舞台を用意いたしますぞ」
二人が部屋を出ていく。
再び独りになった五郎は、大きく息を吐いた。
手の中には、まだ兄の筆跡が残る紙がある。
(兄上、見ていてください。あなたの『臆病な優しさ』は、私が形にしてみせます)
城門が開く音が、夜のしじまに響き渡った。




