【第三話:白檀の迷宮 —— 別邸の恋】
寺を下りた五郎を待っていたのは、浜松の別邸での秘められた生活であった。
五郎の存在は徳川の最重要機密。側に仕える侍女は、石川数正が選り抜いた最低限の人数に限られていた。
「二人の家康」の生活。
五郎は、兄・家康が公務で城へ向かう間、その影として身を潜め、兄の所作、喋り方、さらには字の癖に至るまでを「写経」するように自らの身に刻み込ませていった。
だが、兄・家康は本来の優しさが裏目に出たのか、あるいは影武者という歪な状況への逃避だったのか、世話役のお万と深い仲になった。
家康がお万の部屋へ消え、廊下に蝋燭の火が淡く揺れる夜。五郎は一人、庭の隅にある濡れ縁に座り、月を眺めるのが常であった。
「……五郎様。今夜は冷えますね」
背後から、衣擦れの音と共に白檀の香りが漂ってきた。お愛である。
彼女は武家の娘であったが、父が戦で討ち死にし、家も名も失って、侍女としてこの別邸に送られてきた。
「……お愛か。兄上なら、もうお休みだ」
「存じております。……私は、家康公に御用があるのではございません。貴方様に、温かな茶を差し上げに来たのです」
お愛は五郎の隣に静かに腰を下ろした。
彼女は、五郎が家康の影として振る舞う時の鋭い目つきも、兄と瓜二つの声色も、すべてを知っていた。しかし、彼女だけは五郎を「上様」とも「殿」とも呼ばなかった。
「……お前は怖くないのか。私のような、名前すら剥奪された幽霊のような男が」
お愛は寂しげに、しかし慈しむような微笑みを浮かべた。
「私も同じです。父を戦で失い、私の人生はあの日死にました。……名前など、器に過ぎません。中にある魂が誰であるか。それだけが私には大切なのです」
その言葉は、五郎の胸に刺さっていた刺を優しく抜いていくようだった。お愛は、五郎が兄の筆跡を写経し、指のタコが潰れるまで稽古に励む姿を、五郎の「孤独な努力」として見守ってくれた。
彼女の匂い袋から漂う白檀の香りは、五郎にとって、「今ここに生きている五郎」を肯定してくれる唯一の安らぎとなった。
三月ほど前のある夜、家康は五郎を酒席に誘い、ぽつりと漏らした。
「……五郎。お前、お愛のことが好きなのだろう?」
「……滅相もございませぬ。私のような影が……」
「隠さずとも良い。お愛の前で見せるお前の目は、私に向ける目よりもずっと優しい。……安心しろ、お愛も悪い気はしていないようだ」
家康は五郎の肩を叩き、弟を慈しむ兄の目で続けた。
「……いずれ、お前に正式な名を授けようと思っている。徳川の連枝として、堂々と日の本を歩める名をだ。その名をもらったら、お愛を妻にしろ。私が許す」
自分を「弟」として愛してくれた兄の、何も言わぬ応援。五郎の胸に、言葉にできない感謝が溢れた。その夜、五郎はお愛を庭に誘った。
「……お愛。近いうちに、私は兄上から名を頂くことになった。……名をもらったら、私の妻になってくれないか」
白檀の香りが漂う月夜の下、お愛は頬を赤らめ、静かに頷いた。
これこそが、五郎の人生で最も幸せな、唯一の記憶。
だが、今、五郎の手にあるのは、兄から贈られるはずだった「自分の名前」であってそれではない。
数正から渡された、死んだ兄の分身――『元康』という名の、呪縛であった。




