【第ニ話:影の凱旋 —— 泥濘の記憶】
浜松城の広間は、死臭と泥の匂いに満ちていた。
敗走してきた将兵たちは一様に首を垂れ、絶望の淵にいた。誰もが「殿は死んだのではないか」という最悪の疑念に、心を支配されかけていたのだ。その重苦しい静寂を、石川数正の鋭い声が引き裂いた。
「――殿、お戻りになられたぞッ!」
広間にいた者たちが、弾かれたように顔を上げた。奥の扉から現れたのは、具足を血で汚し、よろめきながらも一歩を踏み出す「徳川家康」であった。
「……皆、よく、生き残ってくれた……」
五郎は、数正に叩き込まれた通りの低く、掠れた声音で語りかけた。視界が霞むのは、戦場の煙のせいではない。目の前に並ぶ、自分を「主君」と信じて疑わぬ家臣たちの忠義が、五郎の胸を締め付けるからだ。
「この敗北……すべては私の不徳。だが、徳川はまだ、死なぬ。……死なせてはならぬのだ」
五郎の言葉に、すすり泣く声が漏れ始めた。その時である。
血にまみれた伝令が、広間に転がり込むようにして現れた。
「……申し上げます! しんがりを務められた本多肥後守忠真様、敵軍の中に斬り込み……見事、討死にございまーす!」
広間を、冷たい衝撃が走り抜けた。
五郎の喉が、ひゅっと鳴った。
忠真――。孤独な寺の生活の中で、自分を唯一の「人間」として扱い、泥にまみれて剣を教えてくれた、父も同然の師。彼こそが、自分を「徳川を救う牙」として育てよと父から託された唯一の証人であった。
「……う、嘘だ」
溢れ出したのは、数正から叩き込まれた家康の低い声音ではなかった。若く、震える五郎自身の悲鳴であった。五郎は椅子から身を乗り出し、縋るような目で伝令を見つめる。その瞳には、主君としての威厳など微塵もなく、ただ大切な肉親を失った子供のような絶望が張り付いていた。
「殿ッ!」
数正の鋭い叱咤が飛ぶ。五郎はハッと我に返り、自身の失態を悟って強引に表情を殺した。だが、広間の隅に控えていた本多平八郎忠勝は、その一瞬の揺らぎを逃さなかった。
(……殿は、叔父上をこれほどまでに頼りにしておられたのか)
忠勝は、叔父・忠真がどこかで密かに「誰か」を育てていた気配を、漠然と感じていた。今、目の前の主君が見せた、理屈を超えた激しい狼狽。それは重臣への惜別というより、もっと深い、魂の絆を失った者の嘆きに見えた。忠勝はその違和感を、自身の内側に深く沈めた。それがかつての自分の記憶――叔父が時折見せていた、あの「どこかの誰か」を想うような優しい眼差しと繋がっていることに、彼はまだ気づいていなかった。
五郎は酒井忠次が用意した奥の間へと逃げるように消えた。
独りになり、重い兜を脱ぎ捨てた五郎は、そのまま床にへたり込んだ。震える手で懐の『元康』という紙に触れる。その指先に伝わる感触が、己がなぜこの場にいるのか、その数奇な運命の始まりを呼び覚ました。
五郎の記憶は、常に薄暗い寺の静謐と、線香の咽るような匂いと共にあった。
彼は、三河の主・松平広忠と、その正室・於大の方の腹違いの妹との間に生まれた子である。父・広忠は、政治的理由で於大の方と離縁した直後、あろうことかその妹に手を出した。主家内の反発を恐れた広忠は、彼女を側近に隠し、その関係を闇に葬った。五郎は、望まれぬ、しかし血の濃い「不義の子」としてこの世に生を受けたのである。
父・広忠は、五郎が生まれる直前、刺客の手によって毒殺された。だが、死の淵で広忠が最期に縋ったのは、信頼する一人の武士――本多忠真であった。
「……忠真よ。もし、身籠っているあの子が男ならば……影として、いつか徳川を救う牙として育てよ」
その遺言を胸に、忠真は五郎を山深い寺へと隠し、密かに面倒を見続けた。季節を問わず現れる謎の男ーー忠真は、小僧に過ぎない五郎に、熾烈な剣術と「戦わずして勝つ兵法」を叩き込んだ。
「よいか五郎。剣術などというものは、兵法の末端に過ぎぬ」
忠真は、境内の砂の上に無造作に小石を並べた。
「これが国だ。これが城であり、これが民だ。お前が動かす石一つで、他のすべての石の運命が決まる。これこそが**『盤上の理』**である」
五郎は息を切らしながら、砂上の石を見つめた。 「……石を、どう動かせば良いのですか」
「死地を活路に変えるように動かせ。そのためには、『捨て石』となる駒を厭うな。情けで指先を震わせる者は、盤ごとすべてを失う」
忠真の教えは、幼い五郎の心に「冷徹な鳥の眼」を植え付けた。 敵を予測し、最小の犠牲で最大の安寧を得る。あるいは、一つの命を救うために、千の命を盤から掃き出す。 忠真は、「いつか現れる主君のために、己を透明な器にせよ」とだけ説いた。
五郎にとって、この男は師であり、唯一自分を認識してくれる「親」であった。 修行の合間に忠真がくれた干し柿の甘さと、焚き火を囲んで聞いた戦場の物語。
「五郎。いつかお前が、命を懸けて守りたいと思う盤に出会った時……その時こそ、わしの教えた兵法が完成する」
時が満ちたのは、七年前のことである。
成長した五郎の才を確信した忠真は、ついに石川数正と酒井忠次の両名に、この「徳川の秘事」を打ち明けた。数正たちの手引きにより、寺の境内に現れたのは、七歳年上の兄・徳川家康であった。兄は、自分と瓜二つの五郎の顔を見るなり、驚いたように目を細めた。
「……すまなかった、五郎。お前の存在を、私はずっと知らずにいた」
家康は歩み寄り、泥に汚れた五郎の手を、躊躇いもなく自らの両手で包み込んだ。それは、五郎が生まれて初めて触れた、肉親の温もりであった。
「いいえ、違うぞ。お前は私の、たった一人の弟だ。……これからは私と一緒に暮らそう。二人で共に、徳川を歩むのだ」
家康の言葉は、五郎の凍てついた心を一瞬で溶かした。あの日の兄の温もりが、後に三方ヶ原の泥の中で、あの大いなる『嘘』を選択させる原動力となったのである。




