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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第一部:『影の覚醒編』

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【第一話:影に託された名】


元亀三年、十二月。

浜松城下、人目につかぬ古い寺の一室。

五郎は、ただ独り静寂の中にいた。

遠く三方原の方角から、風に乗って微かにときの声が聞こえる。

兄――徳川家康が、武田の猛将らと対峙しているはずだった。彼の胸には、かつて寺の裏山で謎の男から授かった言葉が響いていた。

「……兵法とは、最悪を想定し、その裏をかくことわりなり」

(兄上……どうか、ご無事で)

五郎は己の掌を見つめる。

徳川の正嫡として育った兄と、不義の子として寺に預けられた自分。境遇は違えど、その顔は驚くほど似通っていた。十五の冬、初めて対面した兄は、臆病なほどに優しく笑い、「すまなかったな」と私の手を握ってきたことを思い出していた。


その時、静寂を切り裂くように激しい足音が響き、障子が乱暴に開け放たれた。

「……五郎殿! 五郎殿はおられるか!」

飛び込んできたのは、泥と血にまみれた石川数正であった。その具足が無惨に壊れている。

徳川の屋台骨を支える冷静沈着な男が、今は獣のような息を吐き、震えていた。

「数正殿! 兄上は……殿はどこにおわす!」

駆け寄る五郎の問いに、数正は答えない。ただ、懐から血に汚れた一通の書状を取り出し、五郎に差し出した。

「これを……殿から、預かっておりました。もしもの時は、貴方様に渡せと」

震える指で五郎が紙を広げる。そこには、兄の筆跡で、たった二文字が記されていた。

『 元 康 』

「……もとやす?」

五郎が呆然と呟くと、数正が絞り出すような声で言った。

「かつて、殿が名乗っておられた名にございます。……殿は仰せでした。戦が終わったら、五郎殿を日陰から出し、この名を与えて一城の主として迎え入れるのだと。それが、殿の……兄君の、最後の願いにございました」

五郎の視界が、一瞬で滲んだ。

『元康』。それは今の『家康』という重い名を背負う前の、兄がまだ若く、希望を抱いていた頃の名。

それを、自分に――。

「殿は、三方原にて……武田の刃に倒れられました。……今、徳川に主がいなくなれば、全てが終わります。家臣も、領民も、築山殿も、お世継ぎも……」

数正は五郎の前に深く頭を下げた。床を叩く拳が、悔しさに震えている。

「五郎殿。いや、徳川家康公……。どうか、兄君のめいをお継ぎください。今日から貴方様が、我らが殿でございます」

数正は、家康の骸から剥ぎ取ってきた、未だ温もりの残る血塗られた兜を五郎の頭に叩きつけた。兄の血が、五郎の額を伝い落ちる。寺での孤独な修行、兄との温かな日々、五郎いや元康としての未来…

それらすべてが、凄絶なまでの絶望と共に、五郎の体から剥がれ落ちていった。



数正に連れられ、闇に紛れて城へと向かう道中。

彼らを待ち構えていたのは、しんがりを務め上げ、主君の安否を求めて狂ったように戦場を駆け戻ってきた本多忠勝であった。

「……殿! 殿はご無事か!」

忠勝は馬から飛び降り、五郎のもとへ駆け寄った。数正は一瞬、息を止める。徳川家臣団の中で最も鋭い直感を持つこの男を欺けるか。

「……平八郎か。案ずるな、私はここにいる」

五郎は、兜の奥から兄の声色を完璧に真似て応えた。数年間、別邸で「写経」するように学び取った兄の所作が、極限の緊張の中で自然と溢れ出た。

五郎を担ぎ上げようとした忠勝の手が一瞬止まる。

ひやりとしたが、五郎は顔には出さず平静を装う。

一瞬の後、

「……はっ! 徳川の命脈、尽きてはおりませぬ! 」

忠勝は五郎を乗せた馬の手綱を取り、歩き出した。



浜松城の奥深く。

戦場から命からがら逃げ帰った将兵の怒号と、負傷者の呻きが城内に満ちている。その喧騒から隔絶された一室に、五郎はいた。

すでに兄・家康の装束に着替え、顔の汚れを拭った五郎の姿は、鏡を見るまでもなく「殿」そのものだった。しかし、その肩は震え、手の中には兄の遺した『元康』の紙が握りしめられている。

そこへ、重々しい足音が近づき、部屋の戸が開いた。

「……数正、まことか」

低く、枯れた声。

入ってきたのは、徳川家臣団の筆頭、酒井忠次だった。

老練な将である彼の具足もまた、三方ヶ原の激戦を物語るように損壊している。忠次は部屋の中央で立ち尽くす五郎の顔を、射抜くような鋭い目で見つめた。

「左衛門尉(忠次)殿……」

五郎の声がかすかに震える。忠次は一歩、また一歩と五郎に歩み寄り、その至近距離で足を止めた。

一瞬の沈黙。忠次の目が、五郎の顔から、その手にある血のついた紙へと移る。

「……殿は、三方ヶ原の泥の中で、最後まで民と家臣を案じておられた。そして、この五郎殿に全てを託すと」

数正が背後から、沈痛な面持ちで補足する。

忠次は、ふう、と深く、長く息を吐き出した。そして、まるで自分自身の心を断ち切るかのように、その場に深々と平伏した。

「……御意。これなるは、徳川家次代の主、家康公に相違ございませぬ」

「忠次殿! よいのですか……これは、天下を欺く大罪ですぞ」

五郎の叫びに、忠次は顔を上げずに応えた。

「罪などは、この酒井と石川が冥土へ持っていきまする。五郎様……いえ、殿。今、外では多くの者が、貴方様の姿を、その『顔』を待っております。貴方様が揺らげば、徳川は今夜のうちに潰えましょう」

忠次はゆっくりと立ち上がり、五郎の目を見据えた。

「幸い、殿の生い立ちを知る者は、我ら二人と、本多忠真殿、そして今は亡き先代の方々のみ。築山殿や信康様にも、断じて悟られてはなりませぬ。これより、我ら四人のほか、この秘密を知る者はこの世におらぬものと心得てくだされ」

数正が、五郎の腰に兄の愛刀を差す。その重みは、一国の主としての責任そのものだった。

「五郎殿……兄君が貴方様に贈りたかった名は『元康』。それは、かつて若き日の殿が抱いた、泰平の世への願いそのものにございます。どうか、その名を胸に、家康として生きてくだされ」

五郎は、手の中の紙をそっと懐に収めた。

悲しみは消えない。恐怖も拭えない。

だが、兄が自分を認め、名前を贈ろうとしてくれたその事実が、五郎の足に力を与えた。

「……わかった。私は、徳川家康になる。兄上が夢見た世を、私がこの目で見届けるために」

五郎の瞳から、迷いが消えた。

それを見た忠次は、わずかに口角を上げ、力強く頷いた。

「では、参りましょう。敗走の恐怖に震える家臣たちの前へ。……殿!」



※本作は史実を基にしたフィクションであり、独自の解釈と演出を加えております。

作中に登場する古文書や、登場人物が詠む一部の和歌は、本作独自の創作です。

また、歴史上の言葉や伝承についても、物語のテーマに沿った独自の解釈を施している箇所がございます。

通説とは異なる「もう一つの徳川記」としてお楽しみください。


【執筆の裏側】

本作は「カクヨム」様でも同時連載中です。

本作は作者(滝丸)のプロットに基づき、生成AI(Gemini)を「歴史考証のアドバイザー」および「描写の壁打ち相手」として活用し、共同で練り上げています。

人間の情念とAIの知見が織りなす、新しい「徳川の嘘」の物語をお楽しみください。

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