【第十二話:盤上の捨て石 —— 忠真の教えの体現】
天正三年、長篠の決戦を控えた前哨戦でのことである。
徳川軍の最前線、武田の猛攻に晒される小さな砦を守る部隊があった。その数、わずかに五十。対する武田軍は一千。
石川数正は、即座に援軍を送るべきだと進言した。
「殿、あの砦が落ちれば、前線の兵たちの士気が揺らぎます。今すぐ本多忠勝らに命じ、救出に向かわせるべきです」
だが、本陣に座る五郎の瞳には、感情の欠片もなかった。彼の脳裏には、かつて山寺で忠真が砂の上に並べた小石の残像が浮かんでいた。
(……よいか五郎。盤上の隅にある石一つを救うために、中央の陣を崩してはならぬ。一つの駒に執着する者は、盤全体を敵に明け渡すことになる)
五郎は、数正の進言を冷たく一蹴した。
「……援軍は出さぬ。あの五十人には、そのまま砦と運命を共にさせよ」
「……なっ!? 殿、あそこにいるのは三河以来の古参の家臣たちにございますぞ! 彼らを見殺しにするというのですか!」
数正が声を荒らげる。かつての兄・家康なら、家臣の命を救うために自ら馬を走らせたはずだ。だが、五郎は低い声で、地を這うように告げた。
「数正、盤面を見ろ。あの砦に武田を惹きつけている間に、我らは本隊を設楽ヶ原の有利な地形へ移動させることができる。あの五十人は、武田の進軍を半日遅らせるための『捨て石』だ。……彼らが死ぬことで、後に続く五千の命が助かる。これこそが、本多忠真が私に授けた兵法の理だ」
数正は言葉を失った。五郎の言葉は、恐ろしいほどに正論であった。だが、その正論を支えているのは、人間の情を完全に削ぎ落とした、剥き出しの「冷徹」であった。
数時間後、砦から立ち上る黒煙を、五郎は遠くから無表情に見つめていた。
五十人の家臣たちが絶叫の中で果てていくその瞬間、五郎の懐にある『元康』の紙が、汗で湿り、肌に張り付いていた。
(……兄上。貴方なら、彼らと共に死ぬ道を選んだのでしょう。だが、私は貴方ではない。私は徳川という盤を守るための、血の通わぬ『駒』に過ぎぬ)
五郎の采配により、徳川軍は最小限の損害で武田軍を理想の殲滅地点へと誘い込むことに成功した。
勝利の後、家臣たちが勝ち鬨を上げる中で、五郎だけは独り、闇の中で刀を拭っていた。
忠真の教え通り、彼は戦わずして(あるいは最小の犠牲で)勝った。だが、その勝利の代償として、五郎の心からは「人間」としての温もりが、また一つ、砂のように零れ落ちていったのである。




