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47.やさしい風の中で

 セリオス神殿での日々は、ユナにとって新鮮で、どこかくすぐったいものだった。 マナとの再会の日から、彼女は聖女マナの“母”として紹介され、神殿の人々は彼女に深い敬意を払い、必要以上に距離を置くようになった。

 

 (聖女の母って……確かにそうなのかもしれないけれど)

 

 祈りの時間も、食事の席でも、誰もが一歩引いたように彼女に一礼してから口を開く。その丁寧すぎる対応に、どうにも心のどこかがむず痒くなる。 それだけでなく、身の回りの世話はすべて巫女たちが整えてくれるため、ユナ自身が何かをする隙がほとんどない。洗濯も掃除も、何かを運ぶことすら――気づけば誰かが先に手を伸ばしている。

 

 (でも、じっとしているだけなんて、性に合わないのよね……)

 

 何もすることがないという贅沢に、ユナはかえって落ち着かない気持ちを覚えていた。

 そんな思いが彼女を、神殿の南棟にある「療養院」へと向かわせた。

 かつて魔物の襲撃を受けた騎士たちが、今も数名、静かに治療を受けている部屋である。


 石造りの廊下を抜けると、香草と薬湯の香りが漂う静かな空間が広がっていた。

 窓から差し込む朝の光が、白布のベッドを優しく照らしている。


 その中央で、マナがそっと騎士の胸に手をかざしていた。

 光の粒子が指先から溢れ、騎士の胸元へとゆっくりと染み込んでゆく。

 苦しげだった表情が徐々に緩み、痛みから解放されたように安らかな息をついた。


 「……ありがとうございます、聖女様……」


 騎士がかすれる声でそう呟くと、マナは静かに微笑んだ。


 「大丈夫です。ゆっくり休んでくださいね」


 その姿を、ユナは療養院の扉の陰からそっと見守っていた。

 凛とした背筋、差し出された手の優しさ。

 そこには、かつて自分が知っていたマナとは違う、強さがあった。


(あれがマナの力……頑張っているのね)


 胸の奥がふっと温かくなる。

 この世界で過ごした時間は決して長くはない。それでも、マナは確かに“この国の聖女”であろうとしている。

 守られるだけの少女ではなく、誰かを救う存在として。

 

 そして、マナが“聖女”として人を癒す姿。あの光を自分もどこかで知っている気がして、それでも記憶の底には届かない。

 胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、不思議な感覚だけが残った。


 「……ユナ様、どうかされましたか?」


 背後から低く、落ち着いた声がした。振り返ると、神官長セトが静かに立っていた。


 「セトさん……いえ、ただ、マナが頑張っているなと思って、つい見とれてしまって」


 ユナはそう言って、微笑を浮かべながら視線を娘に戻した。


 「ええ。彼女は癒しの力で、手足や視力を失った者まで回復させています。……常識では考えられません。“奇跡”と呼ぶほかありません」


 そのとき、ふとユナの視線に気づいたのか、マナがこちらへと駆け寄ってくる。


「お母さん、セトさん! 声をかけてくれたらよかったのに!」


 ユナは笑いながら、マナの額にかかる少し乱れた髪を指先で優しく整えた。


 「マナが一生懸命だったから、邪魔したくなかったのよ。……本当によく頑張ってるわね」


 マナは照れたように目を伏せ、小さく頷いた。


 そのままセトに向き直り、ユナがふっと明るく問いかける。


 「ねえ、何か手伝えることはないかしら? 私、じっとしてるのが性に合わなくて。何でも言ってちょうだい」


 セトは一瞬目を見開き、それから困ったように眉を寄せた。


 「ユナ様……いえ、その……“母上”にお手伝いなど、私からお願いするわけには……」


 「もう、だから“母上”なんてやめてってば」


 ユナが少しむくれたように唇を尖らせると、マナがふふっと声を漏らした。

 

 「もう……お母さん、セト様をそんなに困らせないで……セト様、きっと断るのにも気を遣っているんだから」


 「だって、じっとしているだけなんて退屈すぎるんだもの」

 

 そのとき、背後からくぐもった声が響いた。

 

 「まったく、目が離せない人だな、あんたは」

 

 振り返ると、ノエリア神殿の神官長・ルカが腕を組みながら立っていた。


 「ルカ様、フィロさんとヴィゼルさんも、その恰好もしかして……」

 

 「ああ、そろそろノエリアに戻るつもりだ。これ以上ここでのんびりしてると、レアントや神官たちに小言を食らうし、貴族連中には“ノエリアは王都に媚びてる”なんて余計な噂を立てられかねないからな」

 

 「ふふ、そうですね。でも、ルカ様にはこの世界に来てからずっと頼ってばかりだったので、少しさみしくなりそうです」


 ユナが柔らかく笑みを浮かべる。

 その笑みに、ルカの胸の奥がわずかに疼いた。 


 (……オレも、少しは名残惜しいんだがな)

 

 そう思いながら、ただ軽く肩をすくめる。

 

 「……また、すぐ会えるさ」

 

 セトが一歩前に出て、まっすぐにルカを見上げた。

 

 「ルカ、道中気をつけてください。……それと、例の件もよろしくお願いしますね」

 

 「わかっている。あの侯爵の動きも、ちゃんと抑え込んでおくよ」

 

 ルカは片目を細めて軽く頷き、ちらとセトに視線を向けると、わずかに真顔に戻った。

 

 「お前も、マナとユナを頼んだぞ」

 

 「……心得てます」

 

 セトが静かに頭を下げる。

 

 そして、ルカはユナにもう一度振り返った。

 

 「じゃあ、またな。今度来たときは、ゆっくり酒でも」

 

 「ええ、楽しみにしています」

 

 ルカはフィロとヴィゼルを伴って、療養院の回廊を静かに去っていった。

 その背中を見送るユナの胸に、ふとやわらかな風が吹き抜けた。

 どこか懐かしくて、優しい風だった。

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