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30.選定の儀 - 断たれた光

 セトがセリオス神殿を発ってから、まだ一日と経たぬ朝。聖女殿にいたマナのもとへ、付き人のリリーが静かにやってきた。


「マナ様。大神官様から、“結界石の間”へお越しくださいとのお言葉です」


 どこか言いづらそうに目を伏せるリリーの様子に、マナは胸に小さな不安を覚えながらも頷いた。

 白く冷たい石の回廊を抜け、結界石の祀られる間へと足を踏み入れると、マナの足はそこで止まった。そこには、見覚えのある顔――リリアナ。そして彼女を囲むように立つ数名の貴族令嬢たち。かつて聖女候補として神殿に仕えていた者たちだった。


 「来たのね、マナ様」


 リリアナの声音は柔らかだったが、その奥には冷えた棘が潜んでいた。


「ここへ来てから、ずいぶん経つのに……まだ癒しの魔法ひとつ、まともに使えないなんて。神殿の中でも“本当にあなたが聖女なのか”って声が出始めているのよ。ねえ、カリオン様?」


 その声に応えるように、奥から静かな足音が響いた。結界石の影から現れたのは、黄金の法衣を纏った大神官カリオン。


 「……本日は、改めて“選定の儀”を執り行います」


 落ち着いた声が、石の間に響く。


 「あなたとリリアナ様。どちらが“真に聖女としての力を備えているか”、確認させていただきます」


 マナは言葉を失った。


 (セト様がいない今、どうして……)


 心細さが胸を締めつける。

 だが、セトと共に過ごした日々、少しずつ積み重ねてきた祈りと魔力の感覚が、彼女の背中を押していた。


 「……わかりました。受けます」


 まずは、魔力の探知。カリオンが両者の手に触れて力を計る。リリアナの魔力に触れたとき、彼は満足げに頷いた。


 「……澄んだ聖なる力、実に見事です」


 続いてマナに手を触れる。一瞬、その掌に宿る“光”に、彼の瞳が揺らいだ。


 (……これは……)


 マナの胸に、ほんの少しだけ希望が灯る。セト様の教えが、力になっていると信じたい――

 だが、次の瞬間、カリオンの脳裏に浮かんだのは――レイナと、彼の罪の象徴・リリアナの顔。その感情が、わずかな揺らぎを打ち消す。


 「……リリアナ様のほうが、より強い聖なる素質を持っているようです」


 周囲の令嬢たちがどよめいた。


 「やっぱりリリアナ様が次の聖女ね!」


 「当然の結果だわ」


 次なる試練は、“癒しの力”の顕現――。

 神官が運んできた銀盆の上には、白い布の上で小さく丸まった、一匹のイタチが乗せられていた。

 その毛並みはまだ幼さを残し、何か魔法をかけれているのか目は閉じられ、かすかに動く体からはか細い呼吸が聞き取れる。


 だが次の瞬間、神官は無表情のまま、手にした短剣をその小さな腹にためらいなく突き立てた。


 「やめて!」


 鋭く走った痛みに反応するかのように、イタチが身をよじる。

 マナの口から、反射的に小さな悲鳴が漏れた。

 白布が赤く染まっていく中、カリオンは静かに言葉を紡ぐ。


 「聖なる癒しの力を使い、この獣を癒してみなさい」


 その声音には、一切の感情がなかった。慈悲も憐れみも、そこには存在しない。

 ただ儀式として、手順をなぞるような冷徹さがあった。


 「……カリオン様? 私に、こんな獣を癒せと?」


 すぐ隣に控えていたリリアナが、眉をひそめる。

 足元に視線を落としながら、鼻先で嘲るような声を漏らした。

 

 「癒しの力を示せと言うのなら――もっと相応しい“対象”がいるでしょう」


 彼女は周囲を見回し、すぐそばに立っていたひとりの若い巫女を睨むように見据えた。

 そして、何のためらいもなくその腕を掴む。


 「この方に協力してもらいましょう。ほら、動かないで」


 「そ、そんな! お許しください、リリアナ様……!」


 巫女は顔を青ざめさせ、身を引こうとする。だが、リリアナの指はその細い腕を逃がさなかった。


 「私の言うことが聞けないの? ――大丈夫。すぐに癒してあげるわ」

 

 その口調は、優しさを装いながらも、どこか楽しむような色を帯びていた。


 次の瞬間――


 神官の手が動き、リリアナに抑えられていた巫女の腕を、容赦なく短剣で浅く裂いた。

 鋭く走った痛みに、巫女の口から張り詰めた悲鳴が響き渡る。

 血が一筋、真新しい礼装の袖を濡らした。


 「なんてことを……!」


 マナは思わず声を上げ、巫女のもとへ駆け寄ろうと足を踏み出す。

 だが――その瞬間、彼女の前で起きた光景に、足が止まった。

 リリアナの右手が、淡い光に包まれる。

 その光が触れると、巫女の腕の裂傷はみるみるうちに閉じ、血の気を取り戻した肌が、まるで最初から傷などなかったかのように元の姿を取り戻していった。

 驚きと称賛の声が、周囲の神官たちから一斉に漏れる。

 その中には、あのカリオンでさえも含まれていた。

 目を細め、低く呟く。


 「……すばらしい癒しの力だ」


 微かな笑みすら浮かべる彼の横顔を、マナは無言で見つめていた。

 そして視線を落とす。カリオンの手にある盆の上――そこには、瀕死のイタチが横たわっていた。

 白い布の上に小さく丸まったその身体は、血で濡れ、かすかに痙攣している。

 呼吸は浅く、今にも止まりそうなほど弱々しい。


 (どうして……こんな形で、“癒し”を証明しなければならないの……?)


 癒しとは、本来――誰かの苦しみを和らげるための力。

 傷ついた命を救うための、優しい魔法のはずだった。

 なのに、目の前で行われているのは、それとは正反対の残酷な見世物。

 あらかじめ傷つけられ、試されるためだけに差し出された命。

 マナの胸には、痛みと戸惑いが重く沈んでいく。

 そんな彼女の迷いを押し潰すように、カリオンの声が鋭く突き刺さる。


 「セトからの報告では、あなたはまだ癒しの魔力すら扱えていないと聞いているが――」


 事実を突きつけるその口調には、情け容赦の一片もなかった。

 リリアナが一歩前へと出る。

 イタチの乗った盆を手に取り、そのままマナの目の前へ差し出した。

 その横顔には薄く笑みが浮かんでいる。


「試すまでもないわ」


 その言葉には、勝ち誇るような毒が含まれていた。自分こそが真の聖女であると、周囲に印象づけるための、残酷な優越。

 マナは無言のまま、そっとイタチを盆から抱き上げる。小さな身体は、今にも壊れてしまいそうに軽く、冷たかった。

 その命を胸に抱きしめた瞬間――細く震える鼓動が、指先を通じてじんわりと伝わってくる。

 それは、かろうじて残された命の証。

 それを感じたとき、マナの胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 自分には、本当にこの小さな命を救える力があるのだろうか。

 マナは深く息を吸い、イタチを抱いたままそっと目を閉じた。

 

 そして、最後の試練が言い渡される。


 「――この結界石に触れなさい」


 「聖女の力があれば、石は応えてくれるはずです」


 清らかな結界石が据えられた台座の前に、静寂が満ちる。

 厳粛な空気の中、誰よりも早く一歩を踏み出したのはリリアナだった。

 マナが視線を上げたとき、彼女はすでに結界石に手を添えていた。

 凛とした姿勢で指を置き、薄く笑みを浮かべる。


 ――そして次の瞬間。


 石の表面が、ほのかに白い光を帯びた。

 柔らかく、だが確かに――“応えた”ように見える反応。


 「すごいわ、リリアナ様!」


 「やっぱり、次の聖女はあの方ね!」

 

 令嬢たちが一斉に声を上げ、誇らしげな拍手が鳴り響いた。

 その光景は、まるで“新たな聖女”の誕生を祝う儀式のようですらあった。


 (……偽物の光。仕組まれたものだとしても……)


 祝福の声に紛れ、カリオンはひとつ、息をついた。

 その胸に、ほんの一瞬、かすかな痛みが走る。

 自らの信仰をねじ曲げ、光を偽りに変えたその行為への、良心の軋み。

 けれどそれもすぐに、心の奥深くに押し込められた。

 

 ――もう、引き返すことなどできない。


 そして――次はマナの番だった。

 自分を囲む期待のない空気。


 沈黙。


 誰もが、彼女の失敗を確信しているような冷たい視線。

 不安が胸を締めつける。足が、わずかに重くなる。

 鼓動が速くなり、指先がかすかに震えている。

 だけど――それでも。


 (お願い……)


 マナは胸の奥で、誰にともなく祈った。

 自分が聖女であることを証明したいわけじゃない。

 ただ、今まで重ねてきた鍛錬の意味を否定されたくなかった。

 厳しい修練の日々。幾度も挫けそうになりながら、それでも前を向こうと決めた。

 自分の無力さに泣いた夜も、魔力の制御に失敗して倒れ込んだ朝も――

 それでも逃げなかった。

 誰かに認められるためじゃない。

 この世界で、自分の居場所を見つけたかった。

 誰かを癒せる力が、確かに自分の中にあると、信じたかった。

 小さな成果のひとつひとつを、希望として胸に積み重ねてきた。

 あのとき感じたぬくもりも、光も、すべて自分の中にあったものだ。

 信じよう。自分の歩いてきた道を。

 マナは深く息を吸い、そっと、結界石へ手を伸ばした。

 ひと呼吸、間をおいて。

 その指先が、静かに石に触れた。

 ……そして。

 

 石は、何の反応も示さなかった。


 空気が変わった。

 沈黙が、じわりと場を支配していく。


 「……まあ」


 その沈黙を割ったのは、リリアナの高らかな声だった。

 唇には深く紅い笑み。まるで待っていたかのように、ゆっくりと両手を合わせて拍手を打つ。


 「やっぱり……反応しないのね。これで、はっきりしたわ」


 その言葉に、令嬢たちの口元が綻び始める。

 肩をすくめてささやき合い、忍び笑いが空気を満たしていく。


 「最初から“聖女の素質”などなかったのよ」


 「可哀想。異世界から召喚されて夢を見ていただけね」


 「ほら、偽の聖女なんて、そんなものよ」


 マナの手はまだ石に触れていた。けれど、どんなに祈っても、何も返ってこない。

 熱も、光も、気配すらもない。


 (……私には、本当に……“何も”ないの……?)


 「聖女を騙った罪は重い」


 カリオンが神官たちに命じる。


 「この者を、地下牢に拘束しなさい」


 神官たちはためらいながらも動き、マナの腕を取り、静かにその場から連れ去った。

 結界石の間に残ったのは、沈黙と、勝者の薄笑いだけだった。


 ***


 石造りの階段を下る足音が、湿った空間に反響していた。

 セリオス神殿の地下牢――普段はほとんど使われることのない場所。

 そこへ、白衣の神官たちに連れられて、マナは黙って歩いていた。

 その姿を見つめる神官たちの顔には、どこか沈痛な影が落ちていた。


 「マナ様……その、すみません……」


 先頭を歩く若い神官が、思い切って声をかける。

 けれどマナは、まるで聞こえていないかのように、ただ前を見つめていた。


 「私たちは、あなたが毎日真面目に鍛錬を積んでいたことを知っています。本当に……こんな形でお連れするのは、心苦しいのです」


 二人とも、決してマナの腕を強く掴んだりはしなかった。 その手はあくまで導くように優しく、沈黙の中に申し訳なさがにじんでいた。

 そして、小さな扉が軋みを上げて開かれた。

 中は、石壁と簡素な木の寝台だけがある、薄暗い一室。

 神官の一人が扉を押さえながら、低く頭を下げた。


 「……しばらくの間、こちらでお待ちください。セト神官長がお戻りになれば必ず……」


 言葉の最後は、どこか濁されていた。

 扉が閉じられ、無機質な音を立てて鍵が回される。

 がちゃん、と重たい音が静寂を切り裂いたとき、

 マナはようやく、自分が“閉じ込められた”のだと気づいた。

 呆然としたまま、その場に立ち尽くす。

 冷たい石の壁。ほとんど何もない狭い空間。

 足元に落ちる自分の影だけが、牢の中で静かに揺れていた。


 (……私、牢に……入れられたの?)


 震える視線を落とすと、手のひらに残る、結界石のひやりとした感触。

 けれど、あのとき――石は何の反応も返してくれなかった。


 (“偽の聖女”を語った罪……?)


 胸が苦しくなる。

 そんなつもりなんて、一度もなかった。

 望んだわけじゃない。ただ、呼ばれたから――答えた、それだけなのに。


 (私は、ただ……自分にできることを、精いっぱいやろうとしただけなのに)


 結界石が応えてくれなかっただけで、すべてを否定されたような気がした。

 努力も、祈りも、居場所も、すべてが突然足元から崩れていくような――

 そんな感覚に、マナは言葉を失った。

 思考がうまくまとまらない。

 けれど胸の奥に、重く、鈍く沈んだものだけが確かに残っている。


 (こんな……理不尽なこと……)


 言葉にすれば崩れてしまいそうで、マナは口をつぐんだ。

 薄暗い部屋の床に座り、ただ静かに小さく丸まった。


 (――これから、私は……どうすればいいの)


 目元が滲む。

 そのとき、マナはそっと呟いた。


 「……私、セト様と一緒に練習した、あの時間は……無駄だったの……?」


 頬を伝う一筋の涙。

 それが静かに床へと落ちた、その瞬間だった。

 左腕に抱えていた小さなぬくもりが、


 「ククク」


 と、かすかに鳴いた。


「……えっ?」


 マナははっとして、胸元を覗き込む。

 そこにいたイタチが、くりくりとした黒曜石のような瞳で、まっすぐに彼女を見つめ返していた。

 あれほど深かったはずの傷は、血の跡すら残さず、きれいに癒えていた。


 「傷が治っている……これは……私が……癒したの?」


 信じられないというように、マナはイタチをそっと持ち上げ、両の手の中で見つめる。

 イタチは小さく身体を丸めながら、安心したように瞬きをした。

 その柔らかな動きに、再び涙があふれた。

 魔力が、確かに届いていた。

 誰にも認められなかったあの瞬間、何も応えてくれなかった結界石――

 けれど、それでも。


 「セト様……私、癒しの魔法……ちゃんと使えました……」


 かすかに震える声で、誰にともなく告げる。


 「……ちょっと遅かったけど」


 マナは、ふっと小さく笑った。

 それは涙に濡れながらも、ほのかに温かさを帯びた笑みだった。

 彼女の努力が、想いが、ようやく報われた一瞬。

 そのとき――イタチが、小さな舌でマナの頬をぺろりと舐めた。


 「……ありがとう……」


 マナは思わず目を閉じる。

 その小さな命を胸に抱きしめながら、もうこらえることはできなかった。

 熱く、優しい涙が、次から次へと頬を伝う。

 声にならないほど静かな嗚咽が、冷たい牢の空間に、かすかに滲んでいった。

読んでくれてるみなさん、ありがとうございます!

ストックがちょっと減ってきてて、更新がゆっくりになりそうです。

でも、読んでくれてる人がいるって思うだけでめちゃくちゃ励みになってます!

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