外伝Ⅲ ラピスラズリの乙女
Twitterのフォロワーさんキャラ化企画から生まれた短編です。
すぺしゃるさんくす:桜花琉里さま
私があの御方にお会いしたのは、社交界へ出たばかりの十六の春のことでした。
初めての、大きくて煌びやかなパーティー。とても楽しみでしたが、ただ一つ困ったことは、一緒に行く父のお付き合いを邪魔しないよう一人でいなければならない時があること。迷子にならないか、周りの皆様にご迷惑を掛けないか不安で仕方ありません。そんな私を心配した父は、親戚のお姉さまに私の面倒を見るよう頼んでくれました。
しかし彼女はパーティーが始まってすぐ、緊張のあまり惚けたように絵画に見とれる私にこう耳打ちしたのです。
「いいこと? ルリ、あなたも大人なのだから、堂々とご挨拶に行ってらっしゃい。わたくしに頼っては駄目よ。」
「えっ? ロッタお姉さま?」
私が振り向いた時には、お姉さまの姿はどこにも見えませんでした。
「ど、どうしよう……」
一人では心細くて、挨拶などとても行かれません。どうにか壁際へ避難し、途中でいただいた飲み物で唇を湿らせている事しか出来ませんでした。ロッタお姉さまはあとで父に叱られれば良いのですが、一人で帰ることも出来ませんので今をしのがなければなりません。
その時、厳しそうなお顔の御婦人方がこちらへ近付いて来るのが目に入りました。ロッタお姉さまが話して下さった、若い娘の礼儀の「お目付け役」です。
(……逃げよう。)
何も後ろめたい訳では無いけれど、私は思い切ってすぐ近くの大窓からテラスへと飛び出しました。
陽が落ちたテラスはほの暗く、まだ冷たい風が頬を打ちます。辺りには少ないけれどお客様がいらして、しかもお顔があまり見えないのをいい事に恋人同士ばかり。居心地の悪さを感じながら端によけようとした時、ふとすれ違った御方に、私の目は釘付けになりました。
「きゃっ!」
相手が頭を下げられたので慌ててご挨拶を返そうとした瞬間、砕け散ったグラスが大きな音を立てました。飲み物を持っていたのを忘れてスカートをつまもうとしたなんて、恥ずかしい……!
「これはいけません。さあ、踏まないよう気を付けて、こちらへ。お手を失礼。」
立ち竦む間もなく手を引かれ、使用人たちがさっさと片付けをする間も、私は頭が真っ白でした。と、目の前にすっと新しいグラスが差し出されました。
「大変な失礼を致しました、レディ。」
「い、いいえ。私こそ粗忽で、みっともない所をお見せしました。ごめんなさい。」
グラス越しに見えたその御方の微笑みの、なんと優しかった事でしょう。その時やっと私は、自分に向かって最敬礼をする殿方が騎士装束であることに気付きました。今からでもこちらから挨拶をしなくては、相手が無礼な振る舞いをしたことになってしまいます。
「お助け下さってありがとうございます、騎士の方。私、プリムヴェールの娘です。」
礼の仕草をしながら言うと、相手の表情が少し固くなりました。……不慣れな少女に対するものから、高位の貴族に対するものへと。突き放されるようなこの変化は、少し悲しかった。
「プリムヴェール侯の御令嬢とは存じ上げず、とんだ御無礼を致しました。お許しください。」
それでも、我儘も言えません。私はぐっと唇を噛んで、ただ頷くだけでした。
「私はこれにて失礼致します。」
「あ……。」
私が何も言えぬ間に、その御方はすっと大窓を通り抜けていました。慌ててすぐに広間へ足を踏み入れたのですが、名も知らぬ御方の背は人並みの向こうに消えていきました。
とぼとぼと歩いていた私は、聞き覚えのある声にふと顔を上げました。
「あ……ロッタお姉さま!」
やっと見付けた従姉妹の姿が、こんなに頼もしく見えるとは思いませんでした。
「あらルリ、きちんとご挨拶はできたの?」
「私には無理です……! お姉さまお願い致します、助けてください。」
涙目で言う私に、お姉さまの周りにいたお友達が優しく笑いました。
「あらシャルロット様、可愛らしい妹さんね。今年デビューなの?」
「可哀想じゃない、きちんと世話を焼いておあげなさいませ。」
「手始めに、わたくしたちに紹介して下さらない?」
「妹ではなく、従姉妹ですの。……ほら、ルリ。」
お姉さまに促されて、私は教わった通りにスカートをつまんで膝を曲げました。
「シャルリーヌ・ド・プリムヴェールと申します。」
「まあ、では貴女があのプリムヴェール侯爵の一人娘ですのね? お噂はかねがね伺っていますわ。どうぞ仲良くして下さいな。」
お姉さまもお友達もにこにこしています。私はほっとして、もう一度頭を下げました。
その時です。お友達の一人が顔を輝かせて、皆にこそりと囁きました。
「ねえご覧になって。あちらに、アンヴェリアル伯爵がいらっしゃるわ!」
それにつられて目を遣ると、皆の示す先には一目でそれと分かる長身の貴公子の姿がありました。身に着けているものは身分相応ですが、そのお顔立ちと気品は王族とさえ見紛うばかりです。
「ああ、いつ見ても素敵な方!」
「あんなにお若いのに立派な方よね。それに、許嫁がいらっしゃらないのよ。」
「あんな方の奥方になれたら……ああ、でも、わたくし見つめられただけで失神してしまいそうですわ。」
周りの女性たち誰もが皆ざわめいています。
しかし私の目は、その方に付き添う一人の姿に吸い寄せられました。
「ねえ、ロッタお姉さま。アンヴェリアル伯爵のお隣にいらっしゃる方はどなた?」
「え? あら、あの方は騎士のオニキス様よ。アンヴェリアル伯爵の右腕と言われているわ。」
オニキス……あの御方のお名前をやっと知ることが出来た。と思っていたら、お姉さまは続けて囁きました。
「オニキス様に惹かれるなんて、やっぱりわたくしの従姉妹ね。でも仕方ありませんわ、あんな凛とした騎士に守られてみたいもの! 黒いお髪も羨ましいほど綺麗ですわね。」
違うわ。私の見ている方ではないわ。
貴公子と黒髪の騎士の傍らには、確かにもう一人の騎士がいます。明るい色の髪に瞳、優しそうな顔立ち。先ほど私のお会いした、あの御方です。でも、いくら耳をすましても、周りからは伯爵様とオニキス様のお話しか聞こえてはきませんでした。まるで初めからそのお二方しかいらっしゃらないかのように。
あの御方は皆には見えていないというのかしら? 眩いばかりに輝くお二方に負けないくらい、強く澄んだ光を放っていらっしゃるというのに。私は、あの方から目を逸らすことも出来ないほどに惹かれているというのに。
「月光の髪の御方。貴方は一体、何方なのですか……?」
誰にも聞こえぬよう、そっと呟きました。
その時です。私の呟きが聞こえた筈もないのに、あの御方はふとこちらをご覧になりました。私の胸がどきりと跳ねます。
やがて伯爵様とオニキス様、月光の髪の御方はそれぞれ別れて別の方向に歩き出しました。私はもう、いてもたってもいられません。
「お姉さま方。私、少々失礼致しまして化粧を直して参ります。」
不自然にならぬよう断りを入れて、私はあの御方を追いかけました。
「もし、騎士のお方。」
必死で追いついて、私は何も考えずその御方を呼び止めていました。彼は振り向くと、少しだけ驚いたような顔をして、そして黙ったまま跪いて深く頭を垂れました。さあ、なんと申し上げればよいでしょう。
「先程は本当に助かりました。あ、あの、助けていただいた礼をしなくてはならないのでお名前を伺うようにと父から言われて参りました。」
もちろん、嘘です。しかし我ながら咄嗟によくこんな良い方便を思い付いたものだと思います。なにしろ父が一人娘である私を目の中に入れても痛くないほど溺愛しているというのは、社交界中に知られているのですもの。この御方も不審には思いますまい。それに、実際に父に話せばそう言われるに決まっています。
その御方は頷き、そっと私の手を取り、言いました。
「アンヴェリアル伯爵家にお仕えしております、イリス・ルメルシエと申します。」
「イリス、さま……。」
やっとお名前を知ることが出来ました。
「私のようなものの名を貴女様が覚えていらっしゃる必要はございませんよ。」
「いいえ、きっと憶えております。ですから……ですから、また、お会いできますか。」
言ってしまった直後、私は顔からぼっと火の出るような思いがしました。初対面の方に向かって、私は今何てことを言ったのでしょう……!? 熱い頬を押さえると、今度は涙が滲みます。今にも膝から崩れ落ちそうです。
と、頬を押さえる手に、そっとあたたかい手が添えられました。
「お会い出来ますとも、きっと。同じこの世界で、生きていられるのですから。」
イリス様は、優しく微笑みながら私の顔を覗き込んで、そう囁きました。柔らかなそのお声を聞いていると、不思議と気持ちが休まります。
「またきっとお会い致しましょう、シャルリーヌお嬢様。」
私は頷き、そっと涙を拭いました。そして、一つだけ我が儘を言いたくなってしまいました。
「もし、できるなら……一度だけ、呼び名で呼んでいただけませんか。仲の良いお友達のように、ルリ、と。」
恐る恐るそんな事を言ってみた私を、包み込むようなイリス様の微笑み。そして、この瞬間を私は一生忘れないでしょう。イリス様は立ち上がって、突然、私の手を取ってぐいと引き寄せました。耳元に吐息がかかる程の距離で、イリス様は囁きました。
「またお会い致しましょう、ルリ様。」




