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6 2日目──山口県防府市~山口県周南市

  Side 巴


 不思議な心地だった。

 前を行く水色の自転車は速い。けれど巴の自転車も、それを追いかけてアスファルトを駆け抜けている。周辺の木々があっという間に後ろへ、風景として流れていく。定まらない視界は風が揺らす林のようで、巴は自分が風になったような気分になる。

 先行する自転車の後輪に、巴はできるだけ自分の自転車の前輪を近づけた。



「すぅぅごっい、お尻マシですぅ。あとよくわかんないけど走りやすぅい」

「はいはい、補給したら走行再開するわよー。まだビビって距離遠いからもっと寄せなね。引いてあげてる恩恵が半減するでしょう?」

 巴の恩人──立脇湊(たてわきみなと)は、巴目線ではなく実際的にまがいもなく上級者だった。

 防府市を抜けて東に向かう2号線、巴は湊に牽引──前を走ってもらっていた。その違いを巴は走りやすさとざっくり表現するが、現実的には風や空気抵抗の問題だ。先に走る一台が風を受けて空気を割り、二台目はその勢いがおさまった後ろを走ることになる。二台連なっての走行は、後ろ側に大きな恩恵がある。


 ただし──坂は別である。



「つかれたぁ……」

「なんか結構上がってたわね、椿峠だっけ? わたし坂って楽しくなっちゃってペースおかしくなるのよね、ごめんごめん」

 疲労している巴に対して、湊はけろりとした様子だ。巴は実力差をはっきりと認識した。

 辿り着いた道の駅で、二人向き合って早めの昼食を取る。

 巴の前にはうどん、湊の前にもうどん──と、どんぶりに入った海鮮丼がある。どちらもきっちり一人前の量である。

「……いっぱい、食べますねぇ」

「あなた、消費カロリー計算したことある? ロングライドだと成人女性の一日分の必要カロリー、走行分だけで余裕で使い切っちゃうのよ」

「ええっ?」

「でも摂るべきは吸収のいいカロリーであって、これは確かにわたしが食べたいだけの暴食なんだけどね。わたし、関東にいたんだけど、こっちの魚介ってやっぱりちょっと種類とか雰囲気違うのよね」

「……湊さんって、なんか大人の女性なのにお茶目でかわいいですねぇ」

「今の会話でどうしてそうなるの!?」

 あからさまに動揺する湊に、巴はやっぱりかわいいという印象を深めてへらりと笑った。


「高瀬茶って山口の名産?」

「知らないけど、実家は小野茶飲んでますよ」

「ブルーベリーは山口の名産?」

「わかんないけど、ブルーベリーはあちこち作ってるんじゃないかなぁ」

 デザートに、外のベンチでソフトクリームを並んで食べる。結局湊は、店員に話しかけて山口県宇部市のブルーベリーだと判明した、ブルーベリーブレンドを選んだ。巴は粉末をかけるのが珍しかったので抹茶にした。

 ちなみに高瀬茶は香川県三豊市高瀬町のお茶であって、山口県のブランドではない。

 おいしければ正義の巴には何の問題もない。

 日陰で座っていても、向こうに見る夏の日差しの強さは目に眩しい。ソフトクリームの冷たさと抹茶の苦みが、巴の気分をさわやかにさせる。自転車に乗っている時は嫌になる風だが、飲食店の名前を書いたのぼりをはためかせる光景は涼しげだ。

「山口ってのんびりしてるわね」

「関東と違います?」

「東京中心に、やっぱりみんなちょっと忙しそうというか、きびきびしてるかな」

「ワタシ、なじめなさそうだなぁ」

「わたしですらしんどくなっちゃって、こっちに転職したくらいだから」

「湊さんで駄目ならワタシ致命的だぁっ、絶対近づかない……!」

 まだ日が高いというのに、ヒグラシの鳴き声がどこからか後を引いて響いた。



 大きなデッキが特徴的な徳山駅の前で、前の湊に続いて巴は停車した。徳山駅はガラスが多用された近代的なデザインの、新しい駅舎だ。

 それを横目に、コンビニ前の花壇の横へ二人で避ける。

「山口県が、終わらない……!」

「走っても走っても山口県、ってね。今日は岩国までなのよね? 今から県境越すとなるとなかなかね」

「……湊さん勘違いしてる気がするぅ」

「え?」

「なんとっ岩国はっ──山口県なんです!」

「えっうそ!? 観光ガイドとかだと広島とセットじゃない!」

「でも岩国は山口のものなんですぅ。あと何でか萩も山陰とセットにされて山口であることを忘れられがちです。でも何でか津和野は山口とセットになりがちです」

 津和野は山口県寄りの位置ではあるがれっきとした島根県である。

「山口の県境ふわっふわじゃない。怒らないの?」

「今苦しんでる山口市民は、ちょっと広すぎなのでもう削ってもいいんじゃないかと思ってますぅ」

「それはそれでどうなのよ。今から行く岩国で怒られなさい」

 見送る言葉のニュアンスに、巴は途端に寂しくなる。

 湊とはここでお別れだ。湊は元々、来月一日からの転職先での勤務を前に、軽い観光に出るつもりでしかなかった。巴と共に周南市まで走ってくれたのは、完全にイレギュラーで善意だ。この後は、折り返して防府市に戻る。

 雰囲気に気付いたのか、湊がサングラスを外す。

「乗り方、少しはマシになったと思うし、あなたにやる気があればきっと兵庫まで行けると思うわ。とにかく水分とエネルギー補給、体温調節。まずいと思う前に何事も対処すること」

「はい……。すごく助かりました、ありがとうございましたぁ!」

 サイクリストの人口は都市部に偏りがちだ。現役世代の人口集中や利便性もあり、とりわけ女性サイクリストは地方に少ない。

 そんな中での奇跡の出会いに、巴は心の底から感謝を告げた。

 コンビニでの補給と、休憩も終え、いよいよ別れの時になる。

 夏空よりも淡い、さわやかな水色の自転車とジャージが、どんどん巴から遠ざかっていく。

 元気よく振っていた手を下ろし、巴はぎゅっと拳を握った。

 心細い、縋りたいような感情を、その拳に握って消し去る。

 周南市から岩国市までのルートを、地図アプリで再確認する。

 山口市の実家から二六二号線を南下して防府に入り、あとは二号線をひたすら東へ進んで現在周南。距離にして約四十キロ。そして次の周南市から岩国市へ、約五十キロ。今はまだ、今日の行程の半分も行っていない。

 完全になめていたと、知らない地域を走行する厳しさを巴は痛感する。昨日の疲労は抑えられたが、今日心折れる事態になっていないのは湊に出会えたお陰だ。走り方、ロングライドの注意点、補給の心得、すべてを一から教えて、そして何よりこの周南まで引っ張っていってくれた。

 幸運と、それは言ってしまっていいのか。そんな軽い言葉でいいのか。


『良い会社に就職しても良い上司や同僚に恵まれるとは限んないんだから、ただ自分の行動に後悔しない生き方だけ考えなさい』


 今回の旅の目的を話しながら、その原因である就活のつらさをこぼした巴に、湊はそう言った。

 巴は防府天満宮前で勇気を出した。それだけ差し迫っていたとも言うが。勇気を出して湊という強力な味方を得て、周南市まで辿り着き、これ以降への気構えもできた。

 それは確かに幸運なことではあるが、何より巴が求めて得た助力だ。

 行動しなければ得られなかった結果。

 巴はサングラスをつけなおし、道の先に目を向ける。湊は視界を広く持って、地形の把握をしながら走っていた。そうすると急な負荷にペースを乱したり、無駄に強く踏み込むことがない。アスファルトの陥没に車輪を取られてバランスを崩すこともない。自転車旅の基本である、一定のペースで進める。

 一朝一夕に真似できるものではないけれど、巴も向かう道に対して視界を広く意識する。

 周南市から岩国市へのルートは二つある。一つは海側の平坦だが、地形沿いで距離が長くなる一八八号線ルート。もう一つは峠を越えることになる、先程も走っていた最短距離の二号線ルート。

 巴は強くペダルを踏み出す。湊に助けてもらった分、ちゃんとまだ余力はある。

 再び、案内標識に二号線の文字を確認して進む。

 登り坂となる困難が予想されるルートを、巴は選択した。

 人を頼って楽をするのではなく、頼ったからこそ果たせる結果を、巴は後悔しない道だと選んだ。


 今日岩国についたら、ソーダアイスを食べよう。


 そんなことを思って、巴は前傾を深めた。


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