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5 1日目──山口県山口市

  Side 巴


「山口も……麦みそなんだ」

「兵庫は白みそとか赤みそだっけ?」

「まず米みそという概念ね」

「それが白みそとか、赤みそじゃないの?」

「合ってるけど、合ってない」

 この世のみそ事情は実は案外複雑だ。


 軽い文化ギャップのあった朝食を終えて少し、巴は昨日と同じスタイルで自転車にまたがった。日差しの眩しさを知る経験から、サングラスをつける手に迷いはない。

 表面を煌めかせ振り返った巴に、飛鳥は伏しがちな目蓋の下から視線を送る。

「……何かあったら連絡ちょうだい」

「何もなくてもいっぱい連絡するよー。ここからワタシも知らない世界だしね!」

 福岡から兵庫への旅、巴の挑戦は、この二日目が実質の始まりとなる。山口市から東は、巴にとって自転車では未踏の地だ。

「巴は」

 忘れ物の有無を指差し確認している巴の横で、飛鳥はぽつりとこぼした。

「本当は嫌じゃないの? 私が強引に勧めたせいでこんなこと」

 飛鳥の指先が、強く握り込まれる。

「──え、でも飛鳥ちゃんワタシのために言ってくれたんだよね?」

 バックパックの中身を確認していた巴は、顔を上げずにあっけらかんと言う。

 何も、気にすることのない声音で、明るく。

「今でも嫌だし、怖いし、このまま実家でのんびり過ごしたーいとは思うけど、でもそれじゃ就職活動から逃げただけの先送りになるし。……ワタシはワタシに大甘だからねぇ。飛鳥ちゃんが言ってくれて良かったって思ってる」

 飛鳥の白くなっていた指先が、ゆるんで血色を取り戻す。

「ルートだって、自転車だから普通の地図アプリだけじゃうまく見れないの、すっごい手伝ってくれたし。準備もあれがいるんじゃこれがいるんじゃって調べてくれて。怖いのも嫌なのもあるはあるけど、行く気だって満々だよ。──何より飛鳥ちゃん家にお邪魔できるしね!」

 顔を上げた巴の笑顔に、飛鳥は睫毛を震わせた。

「よしっ。じゃあ、おかーさん、ちゃんと飛鳥ちゃん『新山』まで送ってねぇ」

「はいはい。あんたも、気ぃつけて行きぃやぁ。飛鳥ちゃん家でご迷惑にならんようにねぇ」

「うん、行ってきます! 飛鳥ちゃんッ、また三日後兵庫でね!」

 手を振って、飛鳥は今日も、青色の自転車が走り去っていくのを見送った。



  ※ ※ ※



 巴は、颯爽と二六二号線を南下していた。片側二車線の国道は広く、追い抜いていく大型車からのプレッシャーもそこまで感じない。案内標識──青看板の防府の文字や、防府天満宮の案内板のお陰で、初めての道でも迷う心配もない。

 長く続く坂道に、巴は太ももへの負荷を感じる。走り始めは平坦にも感じた道は、穏やかにではあるもののずっと登り続けている。とはいえ、ギアを上げればペダルの重さは大したものでもない。昨夜徹底的にマッサージした身体に筋肉痛はなく、身体はしっかりと動いている。

 だが、それ以外の点で心配されるコンディションがある。


「──お尻がっ、痛くなる気がするぅ!」


 差し掛かったトンネル内、車の走行音で誰にも聞こえないのを良いことに、巴は絶叫した。

 実際にはまだそこまでではない。ではないが、その兆しが二日目初日で現れた以上、今後回復する見込みなどないことを巴は知っている。何せ、実家への自転車帰省で、初めの頃に何度も重症化を経験している。

 昨日の北九州市から山口市への旅程。その道のりにも、道の険しさと長さ、暑さがあった。とはいえ何度も経験した道のりであり、全ては想定通りの過酷さだ。かつて克服したはずのお尻の痛みは予兆だけで巴を焦らせる。

 サドルへの接触を工夫しながら、巴はひたすらにペダルを漕ぎ続けた。



  ※ ※ ※



 『神よ……』と祈る心地で、巴は自転車を停止させた。場所は防府天満宮鳥居前。防府天満宮にいる主要な神は菅原道真公なので、女子大生にお尻の痛みについて訴えられても多分どうしようもない。

 お尻の痛む気配のプレッシャーと戦い一時間と少し、切実にお尻の休憩を求めて巴は街中に入った。

 防府天満宮は家族で訪れたことがあり、巴にも多少土地の雰囲気が分かる。寄り道の余裕はないので、巴は写真を一枚だけ撮った。石造りの鳥居は、和布刈神社のものとは違って黒みを帯びていて、印象が重々しい。

 鳥居の先に向けて手を合わせる。念頭にはさすがに、真面目な願いがある。


 ──どうか、内定がもらえますように。


 お尻の不調よりはまだ、菅原道真公も対処がしようのある祈願だった。

 お昼にはまだ早いので、道の脇に避けて携帯している栄養バーを一本食べる。水分補給も一緒に行っていると、思ったよりボトルの減りが早い。

 コンビニで補充をと思って上げた視界に、さらりと揺れる黒髪と、ソーダアイスのようなかすかに緑がかった水色のロードバイクが目に入った。

 綺麗だと、巴の視線は自然とその姿を追う。背筋の伸び方や艶めいた黒髪が、飛鳥を思い出させる。

 自転車に色味を合わせたような淡いブルーのサイクルジャージに、ひざ丈の黒いサイクルパンツ。その人物は防府天満宮の鳥居を先程の巴と同じように、スマホを構えて写真に撮っている。

「──ぁああの!?」

 どもりまくって、声も引っ繰り返って、ひどい一声になった。

 けれど相手は巴の気迫だけは感じてくれたらしい。振り返って、巴の存在に気づいてくれた。巴の安物とは違う、こなれたサングラスをかける顔は小さい。巴の中途半端な格好とは違うサイクルジャージは、──胸元が肉体の形を反映して丸みを帯びている。

 巴は、救われた気持ちで近づいた。

「あのっ……お尻ってどうしてますか……!?」

 急に話しかけられた女性サイクリストは、ちょっと上半身を引いていた。



「あなたバカでしょうッ!?」

 巴が縋った人は、飛鳥よりは語気が強めの女性だった。

「福岡から兵庫をクロスバイクでっていうのはまだしもノーマルパンツって、お尻を壊したいだけの荒行でしょ! 四つにでも割りたいの!?」

「うぅ……でも、ちょっと見た目がぁ」

「その心理は何も間違ってないし、世の中的にも女子大生がこの格好は心配するけどっ、だったら今その中にでも重ね着したらいいじゃない!」

 そう言って、指差される。巴は目を見開いて今着ている速乾ストレッチハーフパンツを見下ろし、それから笑顔を輝かせて顔を上げた。

「──天才ですね!」

「あなたがっ、おバカっ、なの!」

 すぐにサイクルショップに連行された。店の前で待ち、開店と同時にサイクルパンツ──お尻部分にクッションがついた、自転車用のウェアを巴は二枚購入した。卒業旅行に費やされるはずだった貯金が、どんどん目減りしていく。

 空きを伺いながらJR防府駅の多機能トイレを借り、巴は早速サイクルパンツをハーフパンツの中に着こんだ。

 巴の自転車を見張ってくれた女性と、出てきた巴は目を合わせる。歩き方がどうしてもぎこちなくなる。女性の前まで戻ると、巴は耐えきれず口を開いた。

「おむ……」

「──あなたの十分の一ぐらいの時間は実際ソッチに頼ってたんだから、ソレにも馴染みなさい。ホント、乗ったら全っ然違うんだから」

 サイクルパンツのクッション部分は、水分で膨れたおむつも目ではない厚さだ。その厚みこそがサドルと下半身の接触負荷をやわらげ、長時間の走行を助ける。上級者必須のアイテムだ。

 なので。

「……あと目の前に同じものを着ている女性がいることに、ちょっとは思いを巡らせるといいわ」

「ごっ、ごめんなさい!」

 馬鹿にするような物言いは全て目の前の大先輩へも向かう。

 分かりやすく整った眉を上向けて睨む先輩に、巴は素直に謝罪した。



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