2 1日目──福岡県北九州市
「どぉしてこんなことに……」
「……しっかり荷物固定してヘルメットかぶって、自転車またがってから言うものなの、それ?」
巴は飛鳥の指摘通り、万全の旅装状態で今、愛車のクロスバイクにまたがっている。
反射の眩しい、メタリックブルーの自転車。巴が自転車屋さんで一目惚れした、親からの大学入学祝いだ。四年生の今に至るまでの酷使は、サドルとハンドルのグリップ部分に明らかだ。定期的にメンテナンスを店に出したり、自分で行っている機構部分はまだしも、巴がケチりがちな接触部分はフェイクレザーやゴムの表面が摩耗している。
「これまでに内定決まったりっ、台風来たりっ、酷暑過ぎて中止するかと思ってたんだもん!」
「やらない理由を探して生きるの、不毛じゃない?」
その脆弱な精神に天罰が下ったのか。温暖化進む昨今にしては珍しく百年に一度と騒がれる冷夏で、台風も進路がぶれた。そしてその後──あの食堂で話をした時から一か月、他社から内定が出ることもなかった。巴の就職活動は今もってしっかり暗礁に乗り上げている。
「当日までぼやくわりに、荷造りはちゃんとしてるのね?」
飛鳥は自転車にまたがる巴をぐるりと一周回って観察する。
荷物が多い。とにかく多い。巴の背中のリュックは、一般的な旅行からすれば小さいくらいだ。だが他にも、自転車のフレームがあるところはすべて収納空間とでもいうノリで、ありとあらゆるところに荷物やらツールやらが引っ付いている。
飛鳥の自転車の大きな経験は、巴に誘われていったしまなみ海道の経験一度きりなので、これが適正なのか過剰なのかは判断がつかない。なにせ巴がひーひー言いながら自前のクロスバイクで走行する前を、レンタルの電動ロードバイクで颯爽と走っただけなので。後日筋肉痛を訴える巴に対して、飛鳥はお尻の痛みが一番ひどいというぐらいの感想だった。
「これは実家に帰る時とあまり変わらないから手癖で……」
「この一か月なんだかんだ毎日ちょっとトレーニングしてたっていうのは?」
「あんなの日常の延長ぐらいで本当に走ってる人なんかとは比べ物にならないし……」
「……髪切ったのは?」
巴の視線が逃げる。顔を背けたその後頭部には、背中まであった髪はなく、短い毛先がうなじに垂れている。
「……ヘルメット付け外しするのにこの方がいいかなって」
「確定してない未来にも備える巴の慎重さは良いと思う。──そのせいでどれだけその荷物が増えてるのかはわからないけど」
「だってっ、福岡から兵庫だよ!? 五百キロだよ!?」
『じゃあ今からガクチカを作ればいいじゃない』
その一言から始まった飛鳥のコンサルティングは熾烈極まりなかった。時々SNSで流れてくる厳しい結婚相談員の人でもあそこまで厳しくはあるまいと巴は思っている。
自信がない以上、今決まっている選考も落ちること前提で、逆に果敢に挑むこと。
そのある意味の開き直り状態でも予定分の選考で内定が出ない場合は、だらだらと挑むのではなく、一旦ガクチカ作りに切り替えること。
急に新たな特技を発掘することなど不可能なのだから、現状の能力に努力を追加して、そうやって巴自身が頑張ったと思える何かを為すこと。
──そうして決まったのが、この九月末に福岡から兵庫の自転車横断の挑戦だ。
「でも実家には一日でいつも帰ってるんでしょ?」
「その五倍だよ!?」
「五日間ね」
「人間は数式じゃないよ!?」
飛鳥は時々、巴のコミュニケーションは疲れないのかと心配になる。
この場は記念すべき五百キロ走破の一日目、福岡県北九州市から巴の実家である山口県山口市までの走行前。こんなところで主張にエネルギーを使っていてもいいのかと思う程度には、飛鳥もその大変さを推察しはする。
けれどまごつく巴に、あえて淡々と言葉をかける。
「一日目はいつも通り実家に帰るだけでしょ?」
「うわぁんっ、飛鳥ちゃんにもしまなみを電動じゃないやつで走らせるべきだったぁ!」
「何を嘆いても現実は続いていくんだから、前向きに行った方が力も出る……んじゃない?」
自転車はあまりに範疇外過ぎて、飛鳥のコメントも曖昧になる。
「うぅ……。飛鳥ちゃんは午後に出るよね? 山口駅何時ごろ着く予定だっけ?」
「遅延がなければ昼に出て十五時半くらい」
「も、もうちょっとゆっくり来てもいいよ」
「……まず本当にお邪魔していいの?」
「えっ、それはもちろんいいよ! 今回の目的、飛鳥ちゃんの実家に行くことなんだから、飛鳥ちゃんがここで遠慮するのおかしいよ? うちのおかーさんも張り切ってるんだから」
「……なのにここで駄々こねてたの?」
「わぁ、飛鳥ちゃんが探偵みたいに鋭い。はい、そうです、一日目は余裕あること知ってるから、どうにも……」
「十五時半に山口駅集合ね」
「はいぃい!」
確定の宣言に、巴は装備の最終確認を始める。荷物──バックパックの中身まではさすがに出さないが、最低限の装備を目視する。
旅行の必需品。スマホ、お金。
自転車走行の必需品。白いヘルメット、黒い指出しの手袋、ロゴが大きく入った白いドリンクボトル。あとは長期走行に必要になるエトセトラ。
急遽買ったあまり高くないサングラスを、少し恥ずかしがりながらも最後に装着する。
指差し点検を終えて、巴は顔を上げる。
最後に大学名のプレートを前に飛鳥に写真を撮ってもらい、巴は覚悟を決めた。
「行ってきますっ、また午後にね!」
手を振り返してくれた飛鳥に笑顔を浮かべた後、巴は己が進む最初の道の先へ、真っ直ぐに顔を向けた。
巴の青空のようなTシャツの背中と、綺麗な青の自転車が大学前から遠のいていく。
そのまま持ち上げた飛鳥の視界には、同じ色の空が広がっている。耳に入るセミの声は最盛期より大分うるささが収まっていて、飛鳥は大学生活最後の夏が終わる気配を感じる。
飛鳥はきびすを返した。徒歩圏内にある自宅へと足を向ける。
巴の挑戦の目的地、兵庫県赤穂郡上郡町光都は飛鳥の実家だ。今回の旅では、互いに互いの実家にお邪魔するという形で、巴のやる気に発破をかけた。帰省を行うための荷物はもう自宅マンションに準備してある。この後頃合いを見てキャリーケースを転がして電車に乗り、山口駅で巴と合流、その後実家にお邪魔する流れだ。
飛鳥の行動としては、何一つ困難な事はない。
なのに挑戦に向けて駆け出していく青色が、いつまでも飛鳥の心には残り続けた。




