1 プロローグ──福岡県北九州市
小野田巴は空を仰いだ。
より正確に言うと、『天を仰いだ』。
『空を仰ぐ』と『天を仰ぐ』、二つの意味の違いとは。
それは、そこに嘆きの感情がどれだけ含まれるかだ。
本日、福岡県北九州市の天気は快晴。巴の目にはしみるほど濃い青空が映っている。雲一つない青空は、いい被写体でも見つけられれば映え写真にちょうど良さそうだが、巴はそれどころではない。
なにせ──巴の視界は涙でぼやけてしまっている。
そんなに青空が目にしみたのか?
そんなわけがない。
巴の目には、夏真っ盛りの抜けるような青空に、先程見たメール画面の白さが重なって見えている。
『今後のご活躍をお祈り申し上げます』
大学四年夏──売り手市場の就職戦線、巴はなぜか、とうに終わったと言われる就職氷河期を一人生きている。
※ ※ ※
千本飛鳥は目を伏せた。
この世の残酷さに打ちひしがれ、胸の痛み、喉の狭まり──体を通してこみ上げる感情の波に抗う。
認められるだけが幸福ではないかもしれない。
けれどこんな終わりはあんまりではないかと、眼鏡を外して目元を押さえる。
大学カフェ、この暑さの中涼しい顔でテラス席に陣取っていた飛鳥の、突然の様子に店内の男たちはざわつく。時は夏休み前、レポート提出期限日のため人はそこそこいる。学内で話題の黒髪美人の挙動に、男たちは声をかけようかと腰を浮かす。
「──あすかちゃぁああん!!」
そんな空気を丸無視で、巴は現れた。長めの明るい茶色の髪をなびかせて、勢いよく飛鳥に縋りつく。
いつもの二人組になって、男たちはそっと上げた尻を椅子に落とした。
「また落ちたよぉ……。って、あれ? 泣いてた? え、もしかして飛鳥ちゃんも内定取り消し!?」
「泣いてないし、取り消されてもない。順当に懇親会のお知らせも来てる。それから暑い」
抱きついている巴に淡々と言うが、飛鳥の額に汗はない。
「選考落ち以外に泣きたくなることって何!?」
「この世に生まれた瞬間みんなきっと泣いてるわね」
「今の話ぃ!」
巴が怒ってみせても、飛鳥は涼しい顔だ。抱きつく巴を押しのけて剥がし、外していた眼鏡を取る。装着すると、すっと手に持っていた小説に目を落とした。丁寧に栞紐を一番前に戻して閉じる。
見えた表紙に、巴は目を瞬く。
「『老人と海』? 準備運動はしっかりいるね」
「何の話だと思ってる?」
「え、海水浴。夏だし、海行きたいね」
「悪いけど、巴の情緒わからないわ」
全力で嘆いた後に海に行きたがる巴の切り換えの早さに、飛鳥は時々置いていかれる。
場所を食堂内に移し、二人は壁際の席に並んで座った。冷房と共に頭も冷えたのか、再び嘆きモードに戻った巴の話を、飛鳥はじっと聞いた。飛鳥の前のアイスコーヒーのグラスが空になる頃、やっと巴の言葉も途切れる。
じっくりと聞いた結果。
「──面接終わった時点から多分駄目だったって言ってた選考に落ちただけなのに、何でそんなにショック受けてるの?」
「ど正論パンチひどい!」
自分に膝を向けて座っている巴を横目で見て、飛鳥は目を細める。
「本当に疑問だから答えて」
「うっ……いやだって、もしかしたらまぐれで受かってたり」
「まぐれで受かって実力に見合わない会社で働いて、自分にも会社にも社会にも良いことある?」
「もしかしたらの奇跡的なマッチングがあるかもしれないじゃん!」
「それはこの先、奇跡的に巴に合った就職先が見つかるのと同じくらい、定数が未判明な確率式じゃない?」
「……どぉいう意味ぃ?」
「貴方が抱えている無根拠な明るい将来の確率は今も大して変わらないという話」
「……もうちょっと噛み砕いてクダサイ」
「前も今も、たくさんの不安と消えない希望があるんだから、……一つ落ちたぐらいで泣かなくていいんじゃない?」
「あすかちゃぁあん」
「室内ではうるさいからやめなさい」
横の席から抱きつかれても、今度は暑いと飛鳥は押しのけなかった。
アイスコーヒーが入っていたグラスの中で、氷が解けて滑り、カランと音を立てて崩れた。
「でも確かに、飛鳥ちゃんの言う通り、駄目だったろうなって気はあったんだ。集団面接ぐらいは周りと合わせて後は元気よくってできるけど、個別になったら途端に」
ひとしきり抱きついて満足すると、巴は少しだけ前向きに振り返り始めた。
ぽつぽつと語られる面接内容を、飛鳥は夏らしい入道雲をガラス越しに眺めながら聞く。
耳に入る状況は一つ一つ想像が容易く、飛鳥はちょっと遠い目になる。友達としての巴は好ましいが、面接官としての巴は見てて多分こんな顔になってるんだろうなと予測がつく。
「……まぁ『自分を何色に例えますか?』って質問に『無色です! 御社の色に染まります!』って元気よく答えてた頃よりは進歩してるんじゃない?」
「黒歴史の再演やめて! 微妙に声真似までしないで! あれは模擬面接だから!」
一緒に面接トレーニングを受けた飛鳥を固まらせた一幕だ。面接官役の生徒指導室職員も困っていた。興味本位で参加していた老教授は「嫁入りか、昭和アイドルかな?」と洩らしていた。
「無垢なのと自分の色がないのは別ものだと思う」
「もうわかってますぅ!」
勢いよくそこは否定して、けれど巴は視線を揺らした。腰を浮かさんばかりに身体に入っていた力が抜け、背が丸くなる。急に強い重力を感じたように、身体が椅子に縫い留められた。
「でもだって、ワタシろくにガクチカもなくて」
ガクチカ──『学生時代力を入れていたことは何ですか?』という鉄板質問は、就活生にとっては最初の関門だ。それは自分のエネルギーをどう世に対して発揮できるかという、社会人にとってとても基本的な話。エネルギーのありなし、方向性、手段。それ一つで様々なことが読み取れる質問で、アピールする方法も無限にある。
あるのだが。
巴は、そこで躓いている。
「……職員さんに相談して作ったんじゃないの?」
「うん……。バイトはずっとホームセンター続けたから、知らない世界を知ったとか、わからないものに知識を広げたとか、そういうの。ワタシこんなだから、改めてコミュニケーションについては触れなくていいって」
職員さんの苦心が知れると、飛鳥は入道雲を見つめる目を離せない。
巴は決してコミュニケーション能力がないわけではない。ただひたすらにあがり症で、人見知りで、致命的にテンパリ癖があるだけだ。
そうでなければ自分の友達ではなかっただろうと、飛鳥は遠くへ結んでいた焦点を巴に運ぶ。
「そこに自覚がないから、自信にならなくて、うまく喋れないの?」
巴が俯き、こっくりと首をうなずかせる。
飛鳥が巴と友人になったのは、完全なる偶然だ。
二人はこの北九州の大学で出会った。実家が兵庫である飛鳥と、山口である巴は、その時点でかなり高い出会いのハードルを越えた。その上、学部も学科も違う二人が出会ったのは、巴流に言うなら奇跡のマッチングというものだ。
一年生の夏、駐輪場近くの自販機で飛鳥は飲料を買おうとした。摘まんだ五百円玉が転がった先は自販機の下で、飛鳥は数秒の静止の後、放置を選択した。
『えっ五百円諦めるの!?』
予定通りの飲料を買い、離れようとしたところでそんな声がかかった。
振り返った先にいたのが、駐輪場からクロスバイクに乗って出ようとしていた巴だ。人見知りも何もかも、五百円玉をあっさり諦める飛鳥の姿に吹っ飛んだらしい。クロスバイクを支柱に立てかけて、手早くフェンダー──サドルの下に挿してあった簡易式の泥除け板を取り外し、巴は自販機下の五百円玉をあっという間に救出した。その行動の速さは止める間もなく、流れるようにスムーズだったと飛鳥は振り返る。
言うなれば、落としたものを自販機下で探りなれている手慣れ感。
とはいえ、そんなこんなで五百円玉を手渡され、お礼にジュースを奢ったところから、二人の関係性は始まった。
だから、巴の良いところを飛鳥は知っている。
けれど自覚がなければ、それは自信にならない。自信がないから、巴は余計に緊張して、訳の分からない言動をしてしまう。それを失敗ととらえてまた自信をなくして、後はその堂々巡り。ぐるぐるとそれは螺旋階段を下りていくようで。
飛鳥は、それは嫌だと思う。
飛鳥は俯く巴の顔に、そっと両手を添えた。導いて顔を上げさせると、くしゃりと歪めた巴の表情が見える。見上げてくる瞳に、飛鳥は真っ直ぐ目を合わせた。
「──じゃあ今からガクチカを作ればいいじゃない」
「ふえ?」
空気の抜けたような音が、巴の口から洩れた。




