15-5
8月18日、火曜日、午前9時。
入院してから6日が過ぎた。私は退院の日を迎えていた。入院した時は荷物が少なかったのに、この6日間でずいぶん増えた。ほとんどは兄たちが先に家へ運んでくれている。だから私は、身軽なバッグ一つだけを持って病院を後にできた。退院手続きを終え、看護師さんやお世話になったスタッフの方々へお礼を伝えた。自動ドアが開くと、眩しい夏の日差しが降り注いできた。
「ルーク。暑いわね」
「うん。家に帰ったら、たぶん涼しいよ」
「エアコンの『入』のタイマーは、ちゃんとセットしてくれたの?」
「もちろん。僕たちが着く頃には、部屋は涼しくなってるはずだよ」
「もう。今の言い方だと、忘れたのかと思ったじゃない」
私が頬を膨らませると、ルークは楽しそうに笑った。私は電話を終えた兄の方を振り返る。秘書の山本君と連絡を取っていたらしい。今日は午後から会社へ出社し、会議にも出席する予定だという。それでも午前中は退院に付き添ってくれた。仕事を早めに切り上げ、夕方には私のアパートへ様子を見に来てくれることになっている。
「紫乙。本当に僕の家へ来なくていいのか?」
兄は少し心配そうな表情を浮かべた。
「いいのよ。すぐ近所なんだから」
「ユリウス君も、しばらくは僕の家で暮らした方がいいって言っていた。ルークも同じ考えだ」
「だめよ。そうしたらユリウスさんが泊まりに来づらくなるじゃない。それに、私はハトホルに迎えられたでしょう?」
私は兄を安心させるように微笑んだ。
「危険が近づいた時は、自分の身体の異変を予感できるようになったの。だから無理はしないし、危ない時はすぐ分かるわ」
「……まあ、その力があるなら、少しは安心できるんだが」
ハトホルに迎えられたことで、私は新しい力を授かった。ただし、それは自分自身に関する危険だけだ。体調の急変や命に関わる異変が近づけば、事前に察知できる。もし再び隕石のような出来事が起きても、兄が未来を読むように、私は自分の身を守るための準備ができるのだという。
あの夜以来、ルークは私に対して丁寧な口調で話すようになった。ハトホルへの敬意を表しているらしい。でも、それはルークらしくなくて、私は少し落ち着かなかった。今も一歩前を歩き、まるで私を案内する従者のように振る舞っている。冗談は言うものの、以前のように私を困らせるほどではない。
「ルーク」
「はい?」
「元の話し方に戻してちょうだい」
「ラファエル先生が好きなんだろう?彼はこういう話し方なんだよ」
「それはミケーネに対してでしょう?私は、いつものあなたがいいの」
「だめだよ。君は今、僕より位が高いんだから」
「もう!」
私はルークの手をつかみ、ぐいっと引っ張った。ルークは振り返り、少しだけ口元を緩める。
「あら。その顔、いいわね」
「ん?」
「少し意地悪そうで、あなたらしいもの」
「ハトホル殿にそう言われたんだから、そうしようかな?」
「そういうことじゃないの」
「じゃあ、これは?」
次の瞬間。
「レロレロ」
ルークが舌を左右に動かして、いつものように私をからかった。思わず笑みがこぼれる。ああ、このルークだ。安心した。すると、ルークは私の表情を見て満足そうに笑い、ぷいっと横を向いたかと思うと、私の手をぐっと握り返した。
「ばーか」
「え?」
「ラファエル天使の方が位は上なんだよ。君は何もかも忘れてる」
「な、なによ!」
初めて「ばか」と言われて、思わず声が裏返る。さらにルークは、私の手を自分の額へ持っていき、汗を拭き始めた。
「ちょっと!やめてよ!」
「『まったく、もうーーー』」
「え?」
「『この宇宙人はだめね』」
「げえええっ!」
声まで私そっくりだった。まさか物まねまでできるなんて。
「凰李に電話した時も、君のふりができるな」
「悪用しないで!」
「『こんにちは。オツです』って、ラジオ配信しようかな。姿は映さないで、声だけ僕が担当するんだ」
「だめ!」
「君には眠りの魔法をかけておけばいいし」
「もっとだめ!」
「『お兄ちゃん。私は一生ルークの言うことを聞きます』」
「そんなこと言わないわよ!」
「『もうーーーー!』」
「もう!」
私はルークの背中を軽く叩いた。ルークは笑うばかりで少しも堪えていない。私は怒りすぎないように気を付ける。退院したばかりなのだから、心臓に負担はかけたくなかった。すると、ルークは私の手を離し、兄の車へ向かって歩き出した。
「待ちなさい!」
私が歩幅を広げると、ルークはさらに少しだけ足を速めた。追いかける私の様子を見て、兄が苦笑する。
「おい。あまり動き回るな」
その声に、私は我に返った。すると、ルークも足を止め、すぐに戻ってきた。そして、何事もなかったように私の手を握った。
「そうだった。君は病人だった。忘れていたよ」
「もう!分かっているじゃない」
「もちろん」
ルークは少し照れたように笑う。
「君を置いていくわけないだろう。まったく、もう」
その笑顔は、どこかラファエル先生を思わせながらも、やっぱり私が知っているルークそのものだった。私は思わず吹き出した。
「やっと戻ってきたわね」
「何が?」
「私の知っているあなたによ」
そう言うと、ルークは照れ隠しのように笑った。
「仕方ないだろう。敬意は払いたかったんだ」
「敬意なんていらないわ」
私は首を横に振る。
「私が好きなのは、私を笑わせて、困らせて、最後にはちゃんと助けてくれるあなたなの」
その言葉に、ルークは少しだけ目を丸くした。それから、いつものように笑う。
「……分かったよ」
その返事だけで十分だった。兄が車のドアを開ける。
「二人とも、そろそろ行くぞ」
「はーい」
私たちは顔を見合わせ、並んで車へ向かった。ルークがそっと私の手を握った。私は握り返す。その温もりは、地球で生きている証だった。
空を見上げると、真夏の青空がどこまでも広がっている。あの日見上げた宇宙も、この空の向こうにつながっている。私は地球で生きることを選び、そして、この星で愛する人たちとの未来を選んだ。その先には今日のような笑顔が待っている。そう信じられる。
私はルークと並んで一歩を踏み出した。新しい毎日へ。私たちの物語は、ここで終わる。そして、それは同時に、新しい人生の始まりでもあった。すると、ルークが私に向かって言った。
「ルーク・ランズクリイム・ヴェイルより、永山紫乙に通達する。さあ、コンビニ寄ってもらおう。君に買ってもらいたいスイーツがあるんだ。新商品で、気になっていてね。もちろん、君の財布からだ」
ルークの声が風に乗って、遠くへ飛んでいった。私はいつもの彼の言い方に笑ってしまった。私も言いたい。最後の一秒まで、私もあなたのそばにいると。
――天にあるように地にも。あなたは次はどこで生まれますか。Now and Forever Amen.
<END>




