第40話
6月1日、月曜日。
世界が崩壊して、一ヶ月が経った。
朝、鳥が鳴いていた。
いつもと同じ声だった。この山の鳥たちは、一ヶ月前も同じように鳴いていた。世界が変わっても、変わらないものがある。
私はコーヒーを淹れた。
豆を挽いて、ドリッパーにフィルターをセットして、細口のケトルから静かにお湯を注ぐ。
湯気が立ち上がる。香りが朝の空気に溶ける。
一ヶ月前も、同じことをした。崩壊当日の朝も、コーヒーを淹れた。あの時は一人だった。
今日は、食堂のどこかから声が聞こえている。
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中庭に出ると、モグがすでに畑にいた。
一ヶ月で、畑は倍の広さになっていた。トマト、キュウリ、ナス、じゃがいも、葉物野菜。最近はハルキも毎朝手伝っている。今日もハルキがモグの隣で、小さなじょうろを両手で持って、水をやっていた。
「マナ、おはよう!」とモグが言った。
「おはよう。今日の畑は?」
「元気! じゃがいも、もうすぐ掘れる!」
「楽しみね」
ハルキが「じゃがいも、好き!」と言った。
「知ってる」
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建設棟の方からゲンタの声が聞こえた。
先週から、新しい居住棟の建設が始まっていた。住人が増えたからだ。崩壊から一ヶ月、星降る森自治区の正式住人は二十三名になっていた。
最初の七人と一匹から、二十三名。
全員が、マナの基準を満たした人たちだ。悪意がなく、ルールを守り、何かを返す意志がある人たち。子どもが三人いた。老夫婦が一組いた。元教師がいた。元看護師がいた。
ゲンタはここ二週間、ほぼ毎日、日が暮れるまで建設を続けていた。
「ゲンタ、朝食は?」
「後で食う」
「先に食べて」
「……わかった」
渋々という顔で、でも従った。ゲンタはいつもそうだった。
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医療室では、シノが朝から作業をしていた。
最近のシノは、崩壊後に確認された新型ウイルスの三種類すべてについて、対処法の目処を立てつつあった。特に感染経路が不明だったみっつめのウイルスは、先週ようやく空気感染型であることが判明し、マスクと換気による予防が有効だと確認できた。
サヤカがシノの助手として、医療室に通っていた。最初は「私なんかで役に立てるか」と遠慮がちだったが、今は「シノさんが私に何でも教えてくれるので」と言って、毎日積極的に学んでいる。
「シノ、今日の研究は?」
「三種類とも、対処法が確立したわ。あとは量産体制を整えれば、外の生存者にも配布できる」
「外にも配布するの?」
「拠点の中だけ安全にしても、外から感染者が来れば同じことよ。周辺を安全にする方が合理的じゃない」
「それは正しいわね」
「当然でしょ」
シノが少し得意げな顔をした。研究所を追い出された人間とは思えない堂々たる顔だった。
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情報処理室では、ネロが今日も画面に向かっていた。
崩壊後一ヶ月、世界の状況は少しずつ変化していた。都市部での魔物の活動域は安定しつつあった。自衛隊がいくつかの地域でダンジョンの封鎖に成功し始めた。小規模なコミュニティが各地に生まれていることも、確認できていた。
「外のコミュニティと連絡を取ることを考えてもいいかもしれない」とネロが言った。
「そうね。シノの研究成果を共有するためにも」
「情報の交換ができれば、生存率は上がる。孤立したコミュニティは脆い」
「ネロが言うと説得力があるわね」
「なぜ」
「昔は孤立していたから」
ネロが少し黙った。それから「そうだな」とだけ言って、また画面に向かった。
廊下で、ユリが走ってきた。
「マナさん、今日の護身術、蒼さんにもう少し教えてもらえるか聞いてもらえませんか。私から頼むと渋るんですよね」
「自分で頼みなさい」
「えぇ~」
「ユリ」
「……はい」
「蒼は断らない。ただ顔が怖いだけよ」
ユリが少し考えてから、「そうですね」と言って廊下を戻っていった。
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昼前、私は一人で結界の内側の道を歩いた。
一ヶ月前に一人で立ったこの道を、今は歩いている。
城壁の向こうから、子どもの笑い声が聞こえた。ハルキと、最近来た子どもたちの声だろう。モグも一緒にいるはずだ。
温室から、ハーブの香りが漂っていた。
監視塔の上に、蒼の影があった。今日も変わらず、蒼は上にいた。一ヶ月経っても、その習慣は変わらなかった。ただ、最近は交代制になっていた。新しく来た住人の中に、元警備員がいたからだ。
「マナさん」
サヤカが追いかけてきた。
「どうした?」
「少し話せますか」
「もちろん」
二人で並んで歩いた。
「この一ヶ月、ありがとうございました」とサヤカが言った。
「私こそ」
「最初、ここに来た時——もう終わりだと思ってたんです。ハルキを連れてここまで来て、断られたらどうしようって。でも、マナさんが迎えに来てくれて——」
「あの時、あなたが正直に答えてくれたから」
「保育士と救急講習の話ですか?」
「そう。虚勢を張らなかった。あるものとないものを、ちゃんと言えた」
サヤカが少し笑った。
「マナさんって、よく見てるんですね」
「2周目だから」
「……?」
「なんでもない。冗談よ」
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夕食は、全員で食べた。
二十三人と一匹が食堂に集まると、かなり賑やかだった。三週間前に建て増した長テーブルも、今日は全部埋まっていた。
サヤカと新しく来た元看護師の女性が作った夕食は、根菜の煮物と、モグの畑から採れた野菜の炒め物と、豚汁だった。
ゲンタが「うまい」と言った。
子どもたちが「おかわり!」と声を揃えた。
老夫婦の夫の方が「こんなに美味しいものを食べたのは崩壊後初めてじゃ」と言って、妻が「あら、じゃあ毎日が初めてじゃないの」と言って、笑いが起きた。
蒼がその端で、静かに箸を動かしていた。顔は変わらないが——一ヶ月前より少し、表情が柔らかい気がした。気のせいかもしれない。
ネロとユリが並んで座っていた。二人が並んで食事をしているのを見るのが、私は好きだった。
モグとハルキが、例によって隣同士だった。
私はコーヒーを飲みながら、その光景を見ていた。
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夜、一人で中庭に出た。
空に星が出ていた。
一ヶ月前の崩壊当日、私はここに一人で立って「予定通りね」と言った。
今日の私は、二十三人と一匹が眠っているのを知っている。
知って、ここに立っている。
三百万円で買ったゴミ山だった。
城壁があり、堀があり、温室があり、地下シェルターがあり、太陽光電力があり、医療室があり、情報処理室がある。畑があり、鶏がいる。子どもの笑い声がある。
前世の私には、何もなかった。
今の私には、全部ある。
「これが、私の人生2周目」
星に向かって、静かに言った。
「悪くない」
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【システム通知】
星降る森自治区
管理者:マナ
住人数:23名(正式住人)
拠点レベル:最大
結界レベル:最大出力稼働中
農業生産:安定稼働
医療・研究:全ウイルス対処法確立済み
【人生2周目、第40日。ここは、私の楽園だった。】
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完
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