第32話
5月6日、火曜日。
世界崩壊から、五日が経った。
朝の六時、ネロから呼び出しがかかった。
「センサーに反応。拠点から二キロ。徒歩で接近中」
私はすぐに情報処理室へ向かった。ネロがすでに複数のモニターを展開している。ドローンで撮影した映像が、リアルタイムで流れていた。
「何人」
「三人。女一、男二。武器の携行は確認できていない。ただし、バックパックに何が入っているかはわからない」
モニターに目を向けた。
山道を歩く三つの人影が映っていた。かなり消耗しているのがわかった。足取りが重い。全員、服が汚れている。先頭の女が、時折後ろを振り返りながら歩いていた。
「ネロ」
「わかってる。顔認識をかけた」
数秒後、ネロが静かに言った。
「一致した。女の方だけだが」
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結果を聞いて、私はしばらく黙っていた。
リナ。
知っている名前だった。
カイトが私の代わりに連れてきた、新しいヒーラー。聖女と呼ばれていた。私がパーティを外される直接の原因になった、あの子だ。
悪い人間だとは思っていない。ただ、私が消えることを誰も止めなかったあの場に、彼女もいた。
仲間。
その言葉が今、どれほど空虚に響くか。
「どうする」とネロが聞いた。
「蒼を呼んで」
「もう起きてる。監視塔から確認済みだ。インターフォンで対応するか聞いている」
「蒼に任せる」
「マナは?」
「ここで見てる」
ネロが一瞬だけ私を見た。それから「わかった」とだけ言って、無線を入れた。
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三人が拠点の正門前に到着したのは、七時を少し過ぎた頃だった。
ドローブリッジは上がったままだ。堀の向こう側に城壁が立ち、その上部に監視カメラと——私には見えないが——蒼が銃を構えているはずだった。
インターフォン越しに、蒼の声が流れた。
「止まれ。ここは私有地だ」
三人が立ち止まった。正門のインターフォンパネルを見つけて、リナが前に出た。
「あの……山の奥に安全な場所があると聞いて来ました。お願いします、中に——」
「いない」
「え?」
「ここには何もない。立ち去れ」
リナが少し戸惑った。それでも食い下がるように、もう一度インターフォンに向かった。
「待ってください。もしかして——マナさん、いますか。マナさんという人を知りませんか。私たちの知り合いで——」
「いない」
蒼は三回とも同じ答えを返した。感情も抑揚もなく、ただ事実のように。
私はモニターの前で、腕を組んで画面を見ていた。
リナがカメラに向かって、直接話しかけた。
「マナさん、聞こえてますよね。出てきてください。私です、リナです。一緒にいたじゃないですか」
沈黙。
「お願いします。本当に困ってるんです。食料が三日前からほとんどなくて、このままじゃ——それに、カイトさんともはぐれてしまって。カイトさんも絶対ここを探してると思います。マナさんならきっと——」
私は画面を見たまま、何も言わなかった。
「カイトの話は関係ない」
蒼がインターフォン越しに遮った。
「当施設に、マナという人間は存在しない。あなたたちが求めている人物はここにいない。立ち去ることを勧める」
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リナが少し泣き崩れた。
演技かどうかは、私にはわからなかった。本当に追い詰められているのかもしれない。ただ、私の胸には何も来なかった。
来なかった、ということが、答えだった。
後ろにいた男の一人が前に出た。
「いい加減にしてくれ。マナがいることはわかってる。なんで出てこない。俺たちが何をしたっていうんだ。昔のことは——」
「昔の話をしに来たなら、帰れ」
蒼の声は変わらなかった。
「ここは閉鎖された私有地だ。これ以上近づくなら、対応する」
「対応って何だ。俺たちは何も悪いことしてないだろ!」
「一歩でも踏み込んだら撃つ」
短く、静かに、蒼が言った。
男が黙った。
しばらく沈黙が続いた。男二人が小声で何か話していた。リナが立ち上がって、もう一度インターフォンに向かった。
「食料だけでも、分けてもらえませんか。ここに入らなくていいです。ただ、少しだけ——」
「渡せるものはない」
「なぜですか。ここには十分あるはずで——」
「渡せるものはない」
蒼は同じ言葉を繰り返した。交渉を受け付ける気が一切ないことが、その反復から伝わった。
「お願いします」とリナが言った。「お願いします、マナさん——」
「……マナさん」
リナがもう一度カメラに向かって言った。今度は小さな声だった。
「なんで出てきてくれないんですか。私たちのこと、嫌いになったんですか」
私はモニターを見ていた。
リナの顔が映っていた。泥で汚れた頬。乱れた髪。赤くなった目。
嫌いかどうか——考えてみたが、そうではなかった。嫌いという感情すら、もう存在しなかった。ただ遠い、知らない人の顔だった。
「怪我人のふりでもすれば、もう少し粘れたんじゃないか」とネロがモニターを見ながら静かに言った。「三人とも、外傷なし。健康状態に問題はない」
それを聞いて、私は少しだけ目を細めた。
答えなかった。
答える必要が、なかった。
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十五分後、三人は来た道を戻り始めた。
男の一人が最後に振り返ったが、それだけだった。やがて三人の姿は山道の向こうに消えた。
ネロが「去った」と確認した。
「わかった」
「どうだ」
「何が?」
「気分」
私は少し考えた。
「何もない」
「そうか」
「昔は——前世でも現世でも、あの人たちに何か感じてた。怒りとか、寂しさとか。今は何もない。それが答えだと思う」
ネロが無言でタブレットを操作した。
「記録しておく。この三人が今後また来た場合のデータとして」
「ありがとう」
「それと——」ネロが少し間を置いた。「リナはカイトについて言及した。カイトも近いうちにここを目指す可能性が高い。引き続き監視する」
「わかってる」
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朝食はいつも通りだった。
全員が席につき、モグがごはんを並べた。蒼が監視塔から下りてきて、黙って椅子を引いた。
「蒼、ありがとう」
「仕事だ」
「それでも」
蒼が少しだけ視線を向けた。それから、また箸を持った。
ゲンタが「今日は城壁の追加補強をしたい」と言い始め、シノが「地下のろ過装置の調整が必要なのよ」と割り込み、ネロがそれを聞きながらタブレットで何かを確認していた。
ユリが私の隣で、静かにみそ汁を飲んでいた。
「マナさん」と、ユリがそっと言った。
「何?」
「大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
「……そうですか」
ユリはそれ以上聞かなかった。ただ、私のカップに白湯を注いでくれた。
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昼過ぎ、ネロが情報を追加した。
「今朝来た三人、山道を戻って北側の集落方向へ移動した。今のところ戻る気配はない」
「わかった」
「もうひとつ。別の生存者グループが新たに確認された。こちらはやや大きい。十人前後」
「どこに向かってる?」
「まだ方向性は不明だ。国道沿いを南に動いている。ここに来るかどうかはわからない」
「了解。引き続き」
窓の外で、モグが畑に水をやっていた。鶏が小屋の前で日向ぼっこしていた。
外の声は、昨日より少し種類が増えていた。
単に遠い、叫び声のような音だったものが——少しずつ、人間らしい声になり始めていた。
【世界崩壊から5日目。星降る森に、最初の来訪者が来て、去った。】




