第31話
5月4日、日曜日。
世界崩壊から、三日が経った。
昨夜、魔物が来た。
二体ではなく、五体。夜中の二時頃、蒼からの無線で目が覚めた。結界に触れた三体がシノの堀に落ち、残り二体が城壁に近づいたところを蒼が射貫いた。被害なし。十分もかからなかった。
蒼からの報告は短かった。
「処理完了。引き続き監視する」
それだけだった。
「ありがとう」と答えて、私は布団に戻った。眠れなかったわけではない。十分後には眠っていた。
これが今の私たちの日常だ。
夜明け前に一度だけ、窓の外を見た。結界の光が薄青く光っていた。堀の底では、昨夜の魔物の残骸がシノの溶解液に沈んでいるはずだ。明朝には何も残っていないだろう。
外の世界では、あれを処理するための手段がない人たちが今夜も必死で逃げ回っている。
私はカーテンを閉めて、もう一度目を閉じた。
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朝食のとき、ネロが言った。
「外の状況が、昨日より悪化している」
「具体的には」
「まず魔物の活動域が広がっている。昨日まで都市部に集中していたが、今朝の衛星映像では郊外、さらに一部の山間部まで確認されている。つまり——」
「ここへの距離が縮まってる」
「そういうことだ。ただし、今すぐ脅威になる距離ではない。拠点から十キロ以内での魔物確認はまだない」
「引き続き監視を」
「了解だ。もうひとつ」とネロが続けた。「生存者の移動ルートが変わってきた。昨日まで国道沿いを動いていた三つのグループのうち、ひとつが山側に向きを変えた」
「向かってきてる?」
「可能性はある。速度から計算すると、早ければ明後日には拠点から数キロ圏内に入る」
ゲンタが黙って茶碗を置いた。
「来たら、対応するわ」
私が言うと、蒼が「迎撃か」と聞いた。
「状況による。まずは観察ね」
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午前中、私はひとりで温室に入った。
特に理由があったわけではない。ただ、緑の中にいたかった。
トマトが赤くなり始めていた。キュウリが棚を伝って伸びている。ハーブの香りが漂っていた。
崩壊前と何も変わらない光景だった。
外では今日も人が死んでいる。食料を求めて街を彷徨っている人がいる。魔物に追われている人がいる。
私はここで、トマトを眺めている。
「マナ」
モグが隣に来て、同じようにトマトを見た。
「外、ざわざわしてるね」
「そうね」
「モグ、感じるの。遠くで、怖がってる人がたくさん」
「……そう」
「全員ここに来られればいいのにって思うけど、そうはいかないよね」
モグがトマトに手を伸ばした。赤くなった実を、そっと指でなぞる。
「ご飯、たくさん作れるようにしないとね。来た人に、食べさせてあげられるように」
「……ありがとう、モグ」
「どういたしまして!」
モグがにこっと笑って、また水やりに戻っていった。
私はしばらく、その背中を見ていた。
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携帯が鳴ったのは、昼食の後だった。
テーブルの上に置いていた端末が、振動した。
知らない番号だった。
東京の市外局番。でも登録のない番号。
私は画面を見た。一秒、二秒。
「どうした」
ゲンタが気づいた。
「知らない番号ね」
私は画面を伏せた。
振動が続いた。五回、六回、七回——それから止まった。
テーブルに静寂が戻った。
誰も何も言わなかった。ユリが手元のカップを持ち、シノが研究ノートを見ていた。蒼は窓の外を向いていた。ネロはタブレットから目を離さなかった。
みんな、聞こえていた。
でも、誰も聞かなかった。
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数分後、留守電の通知が来た。
私はそれも見た。
再生するかどうか、一瞬だけ考えた。
考えて——再生した。
音量を下げて、端末を耳に当てた。
『……マナか。俺だ。カイトだ』
声が聞こえた。
前世でも現世でも、何度も聞いた声。昔はその声に安心していた。頼もしいと思っていた。
今は、ただ——遠かった。
『状況が、やばい。街が終わってる。食料がない。仲間ともはぐれた。俺、今一人なんだ。お前のこと、ずっと探してた』
かすれた声だった。泣いているのか、疲れているのか、あるいはその両方か。
『頼む。助けてくれ。お前だけが頼りなんだ。お前なら、何かやってると思ったから——頼む、マナ。電話してくれ』
そこで切れた。
私は端末をテーブルに戻した。
「お前だけが頼りなんだ」。
前世でも、そう言った。パーティの采配を私に押しつけながら、手柄は自分のものにしながら、それでも「お前がいないとダメだ」と言い続けた。
頼りにされていた。
頼りにされながら、消耗していった。
誰かに必要とされることを、私はずっと「愛されること」と混同していたのかもしれない。頼りにされることと、大切にされること——その二つは全く別物だった。それに気づいたのは、捨てられた後だった。
前世の私は、オークに殺される直前まで「どうしてこうなったのか」を理解できていなかった。
今の私には、わかる。
消耗し尽くして、使えなくなって、それで捨てられた。それだけのことだ。
カイトが悪人だとは思わない。ただ、私に必要な人間ではなかった。そして、今もそれは変わらない。
留守電を開いて、削除した。
そのまま番号を長押しして、『着信拒否』に設定した。
通知が消えた。
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「コーヒー、飲むか」
ゲンタが立ち上がった。
聞いたのか、聞かなかったのかはわからない。ただ黙って、コーヒーメーカーのところへ歩いていった。
少しして、カップが私の前に置かれた。
「ありがとう」
「ああ」
ゲンタはそれだけ言って、自分のカップを持って窓のところへ移動した。
シノが「そういえば」と言って研究ノートをめくり始めた。ユリがそれを覗き込んだ。ネロがタブレットで何かを確認した。
何事もなかったように、時間が流れた。
私はコーヒーを一口飲んだ。
温かかった。
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夜、一人で外に出た。
結界の内側の、城壁沿いの道を歩いた。夜空に星が出ていた。月が明るかった。
遠くに、明かりはなかった。
前世の5月4日、私はどこにいたのだろう。記憶の中で探しても、はっきりとは思い出せない。崩壊から三日目——おそらく、必死に走り回っていた。マップを引っ張り出して、ルートを考えて、仲間に怒鳴られて、それでも動き続けていた。
今夜の私は、星を見上げている。
「お前だけが頼りなんだ」。
そうかもしれない。
でも、私はもういない。
あの人が知っていた私は——前世に置いてきた。
ここにいるのは、ゴミ山を買って、仲間を集めて、世界崩壊を生き延びた別の私だ。
その私には、守るものがある。
カイトの声は、もう関係なかった。
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翌朝、ネロが報告した。
「例の生存者グループ、昨日より三キロ近づいた。明日には視野圏内に入る可能性がある」
「わかった」
「どうする」
「見る。それから判断する」
私はコーヒーを一口飲んだ。
外の声は、昨日より少しだけ大きかった。
【世界崩壊から3日目。星降る森は、静かだった。】




